断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

5月のプラハ

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1945年5月5日、ベルリン陥落の後、当時ドイツ領出会ったチェコに侵攻してくるソ連軍に呼応してプラハ市民が武装蜂起。5月9日にはドイツ降伏となるので、いわゆるプラハ蜂起は都合4日程で終結。その時の混乱の中でも写真は意外に残されていて、冒頭のベルゲパンター?に37mmFLAKを搭載した改造車両など戦争末期の風変わりな車両がいろいろと記録されています。

蜂起軍のクレジットには載ってこないようなので、ドイツ軍がこの車両を使用している状況(蜂起部隊を警戒中?)を写したものと推測されます。
広場に面した窓から撮ったこの写真は、いったい誰がここから撮ったのだろう?

忘れがちではあるけど、写真は「誰かが写した」ものということ。忘れがちだけど。
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決起したプラハ市民を写した写真。この緊迫した場面でカメラを構えていた人間は間違いなくチェコ民兵と同じ側に立つ「味方」のカメラマンであったと思われます。だからこそ、立ち上がった市民が銃を構える場面を撮ることができて蜂起の瞬間を間近に記録した貴重な写真を今に伝えています。
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ここで気になるのは状況の複雑さ。このような写真は決して「普通の市民」が散歩の合間にポケットカメラで撮ったものではなく、その殆どは目的を持って「写真家」が記録した写真だったのではないか。というような話。

チェコスロバキアは1938年にナチスドイツに併合されて、ドイツ軍として連合国相手に戦っていたのだから、チェコの工場で生産される戦車(38t戦車やHetzer駆逐戦車)はドイツ戦車として前線に送られていたように、写真を撮ることを仕事としていたなら、当然にドイツ軍の様子を記録するカメラマンでもあったのかもしれない。
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この写真はいわゆる「プラハのヘッツアー」を撮ったもの。プラハ市内の工場で最終組立てをしてドイツ戦車として完成する前に蜂起部隊が奪取して未完成のまま使用した蜂起軍車両です。昨日まではドイツ軍に所属してドイツ戦車を撮っていた写真家も、その翌日には蜂起軍側で蜂起軍車両の写真を撮っていたのかもしれない。この戦車のように。

もちろん、中立的に撮っていたカメラマンもいただろうし、戦場カメラマンには弾は当たらない(敵味方の双方から撃たれない)という話もあるけど、蜂起したプラハ市民が勝利するのかドイツ軍に制圧されるのか帰趨がわからない状況で「何処に立って何を撮るのか」という問題は決して簡単な話ではなかったはずだ。そう思うと、残された写真にはカメラマンの立ち位置も写り込んでいるような気がしてくる。

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5月9日。ソ連軍はプラハを占領する。ドイツ残存部隊の掃討は11日頃まで続く。果たして赤軍は解放軍であったのか。首都にやってきた遠い国の戦車がどのように見えたのか、今となっては確かめようもないけど。

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最後の写真はその23年後。1968年8月のプラハ。
チェコスロバキアにソ連軍が侵攻。「プラハの春」と言われる民主化の運動はあっけなく潰されます。
プラハに侵入したソ連戦車とそれに抵抗する市民の様子を写した写真は密かに西側に持ち出されて、撮影した写真家の名は伏せられた匿名の写真としてロバートキャパ・ゴールドメダルを受賞。その有名な写真がジョセフ・クーデルカの撮影であったと明かされたのは、その16年後(1984年)のことだったという。
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Commented by かば◎ at 2017-11-18 22:31 x
決して「占領軍がいなくなった! 万歳!」だけでは済まされない複雑な人間模様が、惹かれるところでもありますが、悲しいところでもありますね。

ところで写真の蜂起軍のヘッツァーのスカートに書かれた言葉は「ドイツの殺し屋に死を!」なんですが、google翻訳さんにかけるとチェコ語ではなくスロバキア語と認識されます。

同系の言葉なのでgoogle翻訳が取り違えているのか、それとも本当にスロバキア系住民がスロバキア語で書いているのか……。
Commented by hn (or hn-hn) at 2017-11-19 07:57 x
チェコのサイトのスレッドなんかもGoogleの翻訳エンジンはスロバキア語と判断することが多いです。チェコ語とスロバキア語は方言ぐらいの関係なんですかね。例えて言うならデモのプラカードに「いてまえ!」なんてスローガンを掲げるような感覚?

あの辺りの言語、民族、国境の問題は調べてみるとなかなか複雑。チェコの有名な作家のフランツ・カフカは(当時はオーストリアハンガリー帝国支配下の)プラハで生まれのユダヤ人で市内の保険局に務めながら執筆した小説はドイツ語で書かれていて.. というような位置感覚は、同じ顔して同じ言葉を話す幻想を無自覚に受け入れている我々にはわからない部分だったりします。

チェコ語・スロバキア語は、スラブ系の言語なんですね。とすると、ベルリンから派遣されてきたドイツ軍司令官よりも反乱に加勢したROA(自由ロシア軍)兵士やウクライナから来た赤軍とのコミュニケーションに親近感を覚えたのか?とか考えてしまいます。
Commented by hn (or hn-hn) at 2017-11-19 08:33 x
多言語環境に馴染みがないと理解しにくい問題はいろいろあります。話は脱線しますが、ノルマンディ方面の防衛についていたドイツ語を話せないドイツ軍部隊とか、占領下のポーランドやバルト三国では何語が使われていたのかとか、いろいろと気になります。

ロシア戦線のスターリングラード攻防戦でのドイツ・枢軸国(ハンガリー、ルーマニア、クロアチア、イタリア)ではどうやって会話してたのかとか。
ドイツといっても支配下のオーストリアやチェコ、ポーランドやフランスなど様々な地方出身の兵士もいただろうし、対する赤軍もロシアやウクライナ、コーカサスや中央アジアから徴用された兵士もいただろうし。
Commented by かば◎ at 2017-11-20 10:00 x
以前、あるロシア人に聞いたことがありますが、ポーランド語の文献も「完全にじゃないけど何となくわかる」そうです。まあ、前提としてローマン・アルファベットが読める必要がありますし、「何となく」ってどこまでだよ、ってのもありますが。

東スラブ語であるロシア語と西スラブ語であるポーランド語でそんな感じなので、東スラブ語(ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語)同士、西スラブ語(ポーランド語、チェコ語、スロバキア語)同士だともっと通じそうです。

特にチェコ語とスロバキア語は近く、wikipediaによると「チェコ語の話者とスロヴァキア語の話者とが互いの言語で会話が成立する」そうです。

占領下、または植民地での言語政策というのはかなりいろいろなケースがありそうですね。日本の場合は(自分たちが単一民族・単一言語幻想を抱いていることもあり)だいたい日本語押し付けに走りがちですが、逆に「同化を防ぐために支配側の言語・習慣を禁じる」例もありそうです。実際、16世紀における薩摩の南西諸島併合以降、江戸時代を通し諸島では薩摩の習俗は禁じられていたそうですし(言語までそうだったかは不明)。
Commented by hn-nh3 at 2017-11-21 05:30
江戸時代の諸藩はそれぞれが国家のように習慣や言葉にも内向的なベクトルが働いていたのかもしれませんね。幕末の動乱の時には、それぞれ地域の方言が強くて相互のコミュニケーションが困難だったとか。
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先日のテレビニュースで流れていた沖永良部島への行幸の様子。島の特産のテッポウユリが敵国への輸出が理由で戦時中に栽培が禁止された歴史の紹介につづき、島の小学生が地元の歌を披露するシーン。琉球音階で歌われるユリの花の唄を聞き入る両陛下の姿。内地の被災地訪問とは違う空気がそこにあるような気がしてはっとしました。
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オーストリアやチェコは併合時に車の交通が左側通行からドイツ同様の右側通行に変更されたようですね。Hetzer駆逐戦車の設計でも右ハンドルだった38t戦車のレイアウトを無理やり左ハンドルに変えた結果、主砲の配置とか結局使いにくいものになってしまってます。そのままにしておけばよかったのに。
Commented by かば◎ at 2017-11-21 07:55 x
行幸のニュース、私は見ていないんですが、ユリの唄というと、「永良部百合の花」でしょうかね。かなり有名な歌なので、たぶんそうではないかと(私も歌えます(笑))。

アメリカ移民の唄で、「永良部百合ぬ花、アメリカに咲かちヤリクヌ」という歌い出しで、「永良部百合の花、アメリカでも一花咲かせてやろう、どんなに苦労をしても百合の花(島の誇り)は捨てるなよ」みたいな歌詞です。

奄美の島唄と沖縄民謡は、似ているようでいて、音階、歌い方が違い、楽器も同系の三線(蛇皮線)なんですが実は微妙に形が違うそうです(弾き方が違うので)。
沖永良部は奄美諸島なんですが、「永良部百合の花」は沖縄音階で、奄美音階(これは本土の民謡と基本同じ)じゃないんですよね。興味深いです。

38(t)からヘッツァーになって操縦席が移動した件、私も以前から気になってました(というより、あれがなぜなのか調べていて、それでチェコが戦前左側通行だったのを知りました)。
ヘッツァーはものすごく装填が面倒な車両だったそうで、操縦席がそのままの位置なら楽だったのに……とはいえ、ドイツの砲は左に砲手が来るので、あの車幅だとやっぱり右に砲を置くしかなかったんでしょうね。

どうでもいい話ですが、ガルパンの「ヘッツァー改修キット」って、車内レイアウト変更までコミなわけで、スゴイですね(笑)。
Commented by hn-nh3 at 2017-11-22 06:14
>>ドイツの砲は左に砲手が来るので
あぁ..そうか。それでやむなく右寄せレイアウトになったのか。その結果、右側に装填手が配置できなくなら、砲の閉鎖器ブロックとか駐退機ガードとかを左から使いやすいように反転させたものをドイツに発注すれば解決しそうだけど、そうしてないのは、なんだかんだ一方通行的だったのかしら。

右ハンドルか左ハンドルかでややこしいのはイタリア軍の車両です。M13/40中戦車とかは左ハンドル。しかしL6/40軽戦車とかCV33は右ハンドル。FIAT508コロニアーレは右ハンドルだけど、民生用のFIAT508トポリーノは左ハンドルと右ハンドルの両タイプが混在。なんでなんだろう..
まあ、右でも左でもなく前に進めば問題ないってことかしら。
Commented by かば◎ at 2017-11-22 17:29 x
>>右ハンドルか左ハンドルかでややこしいのはイタリア軍の車両

これは私も思っていました。「もしかしたら北イタリアと南イタリアとでは通行方向が違っていたのでは」なんて思ったりもしたんですが、それなら、ほとんど同じフィアット・アンサルド社製なのに違っているのはおかしいですしね……。

で、調べてみると(根拠はあまりはっきりしないのですが)イタリア半島は基本右側通行であるものの、フィアット社は「追い越しの際に前後を確認しやすい」という理由で右ハンドルを好んだのだとか。

もともと、ハンドル位置は通行方向によって決まっているとされることが多いのですが、実際には(車の歴史上は)メーカーの好みが大元で、左ハンドルが主流になったのはT型フォードからだそうです。

一応これは通行方向と関わりがあるのですが、T型フォードが左ハンドルが優れている理由としてアピールしたのは、「助手席の女性が(ぬかるんでいる可能性のある車道ではなく)歩道側に直接降りられるから」だそうです。
by hn-nh3 | 2017-11-13 21:52 | 写真 | Comments(8)