断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

青戸(白鳥)高射砲陣地

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昨年から追跡中の高射砲陣地の跡地サーベイ続編。今回は都内、葛飾区 白鳥三丁目にあった青戸(白鳥)高射砲陣地。

自分の把握している範囲では都下(多摩地区、島嶼部除く)の高射砲陣地は二十数箇所。しかしその殆どは遺構を留めることなく、北の丸公園、白鳥、調布、下仙川に高射砲台座の一部が残るのみ。その中でも白鳥の遺構は街と一体化しているものとしてユニーク。図の赤く色をつけたところがそれ。

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月極駐車場の中に残る高射砲の台座。ターンテーブルのようにも見えるけど、戦前と終戦後に撮られた空中写真でこの位置に高射砲陣地があったことが確認できるので、それと考えて間違いはないと思われます。

d0360340_18514754.jpg測ってみると、円の直径は4.5m。中央にアスファルトが充填されている8角形の穴。穴の周りには9cm幅の縁取りがあることを見ると先に縁取りをつくってコンクリートを流し込んで8角形の穴をつくったと推測。他の事例から、そこに高射砲を固定するボルトが埋め込まれた構造物があったと想像できます。

周囲のコンクリートの一部に9×18cmの長方形の穴があるのが確認できるものの、これが何かは不明。当時からのものだとすれば高射算定器(軌跡計測用の計算機)からの信号ケーブルの取出し管があった可能性あり。

遺構から得られる情報は限られることからディテールの考察はこのくらいに留め、陣地全景を見てみます。

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1944年(昭和19年)11月3日 陸軍撮影の空中写真。不鮮明ではあるものの、扇型に配置された6基の陣地が3組。写真右上の円形に整地された場所は電波標定機(レーダー)サイトと思われます。

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1949年(昭和24年)9月7日 米軍撮影。高射砲陣地の形状がはっきりと確認できます。それぞれの陣地には円形の台座の周囲に3個のボックス状の構造物が配置されてます。即応弾の保管庫と推測。扇型に配置された円陣の扇の要の部分には高射算定具を置く観測所があるのが基本的なパターンで、昭和19年の写真ではおぼろげながら確認できるものの、戦後の写真では既に消失。右上の円形のスペースも消えてしまってます。

しかし、さすがに高射砲本体は撤去されているものの、台座と弾薬庫がほぼそのままの風景が戦後4年経っても残っていたということには少し驚かされます。空中写真はともに国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより。

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陣地を青で表記、現代の地図(黄色)を重ねてみます。道路など街の構造が変わってないので、位置の同定は難しくない作業。

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現在の地図(ゼンリン住宅地図)と戦前の高射砲陣地の関係。

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図の上が北。6基×3組。合計18基の高射砲座は北東方向に向かって展開しているのは、東京全体とこの陣地(赤いフラッグの位置)との関係を見ると明らか。房総半島を大きく迂回して東京都心部に北東方向から侵入しようとする敵機に備えた陣形。

Wikipediaの青戸の項によると昭和20年2月の応戦時にB29の1機に損害を与えたとの記述。もっともその命中弾は、この南側の地区を受け持つ小岩篠崎の陣地からとの説もあるとのこと。このときの空戦で葛飾区役所が全焼したそうで、3月の東京大空襲の少し前の出来事ですね。

近年の映画「この世界の片隅に」を見た人も多いと思います。あれは広島の呉での話でしたが、来襲する敵機に応戦する高射砲の弾幕がどこの陣地から発射されたのかを識別できるように着色弾になっていて空に絵の具を散らしたような雲ができる、というシーンがありました。そうした弾を使わない限り、また夜間の応戦などではどこの陣地の戦果かという識別はなかなか難しかったようですね。

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撮影場所は不詳とのことですが、戦後米軍が撮影した高射砲陣地の鳥瞰。前に記事で紹介した「米軍が見た 東京1945秋」からの引用。扇型に配置された砲座はそれぞれ周囲に配置した即応弾庫を覆うように土塁を築いて防御力を高めています。

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青戸の陣地も戦前の空中写真を見ると、砲座のまわりに土塁が築いてあるようにも見えます。しかし、戦後撮影の写真では北側の列は土塁が残っているように見えるものの、中列、南側の列では、砲座のまわりの3つの即応弾庫が露出していて、これが戦後に土を取り除いたものなのか、元々土塁はなく露座であったのかは不明。

前に記事でも取り上げた下仙川の高射砲陣地でも、周囲に土塁があったか、露座であったのかがはっきりしなかったのですが、その後、他の場所の陣地の空中写真を見るとどう見ても土を取り除いた痕跡のないものもあることから、土塁のあるものと露座のタイプの両方が存在していたのではと想像している。

考えてみれば、戦艦などでもシールド付きの高射砲の横にシールドがない砲座があったりすることから、同様に高射砲陣地でも同じ陣地でも並存していた可能性は大。

駐車場に残る砲座跡を実測、図面化しておきます。(クリックで拡大)
周囲の断薬庫の位置、サイズなどは空中写真から割り出した概略寸法にて作図。中央部の高射砲固定用ボルトの本数などは類似の事例からの推定復元。

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青戸の陣地で確実に現存している砲座は3基。冒頭の写真で紹介した駐車場の砲座は図の6に該当。残る2と3を見てみます。

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d0360340_06044575.jpg図の2。町工場の基礎に化けている台座。「東京の痕跡」(遠藤ユウキ 著:同分館出版 2008)という本でも紹介されている遺構です。実際に見ると果たしてこれがそうなの?という感じがしないでもないけど、位置は確実に空中写真に写る砲座と一致。台座の半分は道路工事で削られ、残りの半分が工場の建物基礎と一体化している模様。

自転車が停められていて全体が見えないのが残念ですが、そこだけ一段高くなっていて、内部の床もそれに合わせて高くなっているようです。

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写真左は、自転車越しに撮った基礎の段差になっている部分。コンクリートの構造体が建物に食い込んでいる様子がわかります。写真右は、切り取られた台座中央部付近に露出する何かの配管。台座の中央部分に該当することから、高射砲に電源を供給するケーブル用の配管であったのかもしれない。

コンクリートの上面は後年の補修が入っているものの、側面は切り取られた台座コンクリートの断面が露出していると思われます。長年の風雨にさらされてコンクリートに混ぜられた砂利が露出。丸みを帯びた川砂利を使っているのは戦前の構造物の特徴。そうでなくても、資源枯渇で河川から砂利の採取が禁止された1960年代以前のものであるのは確か。ちなみにそれ以後のコンクリートは山から採取した砕石を使用しているのでそこで年代の判別が可能。

ちなみに、配備されていた高射砲は99式8cm単装高射砲。(出典:「東京の痕跡」)ドイツ クルップ社の8.8 cm SK C/30をコピーした対空砲で、有名な8.8cm FLAK36/37とは別物のようではあるが、それでも射程は1万mまであったというから、B29に応戦することも可能。

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図の3の台座が残されているのはこのアパートの敷地の奥。通りからはよく見えないのでアパートの階段をすこし登ってみます。

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露出した円形のコンクリートの台座の一部が給水タンクの基礎に転用され、残りの部分は隣の建物の下まで伸びていると想像。
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建物の隙間越しに横から見たところ。台座が3つの建物の敷地にまたがるように存在していて、敷地境界のブロックもその後に怒れたためか、台座を跨ぐような状態になっています。戦後の空中写真を見ると、畑だった民有地に建設されたようで、畑の畝をまたいで配置されているのが確認できます。台座は撤去せずにその畑の持ち主ごとに建物を建てたからこんなことになってしまったのか。左側の建物の中に入って畳を剥がして床下がどんなことになっているのが見てみたい気もします。

不思議なことですが、こういった軍用遺物は戦後に行政の責任で撤去したりしなかったんでしょうかね。あるいは戦後すぐに宅地化して建物が建てられてしまい、その後撤去しようにも敷地境界を跨いでそれぞれの建物基礎に利用してしまっていたので取り除くこともできずに現在に至っているのか。

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図の5の台座の場所には現在は消防団の倉庫といった風情の青い小屋が建ってます。これも何らか関係がありそうですが、地図と照合すると、台座の一部が小屋にラップする関係。小屋を外側から観察する限りは基礎に利用されている形跡はなく、おそらく撤去整地された後に建てられたものと想像。ただ、台座が残っていて使い方を持て余していた土地の利用法として、台座を基礎にこのような小屋を建てて使ったその「用途」が引き継がれて、台座も当初の建物が無くなっても機能し続けているのかもしれない。想像ではあるけど。

これらの青戸(白鳥)高射砲陣地の跡地観察は、このサイトの記事に多くを得ているのでそちらも参照。

そのサイトでは他にも台座残存の可能性を指摘しているので、それも見てきました。

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中列の砲座の多くは現在、8階建てのマンションの敷地になってますが、その一部が残っている可能性について。

d0360340_08320762.jpgマンションの床下に台座が残っている可能性が指摘されてましたが、可能性があるとすれば図の8、9、10の台座が該当。しかし、このような大型の建物で重機があれば撤去できるような障害物をわざわざ残す可能性は少なく、床下に見えたのはおそらく写真のようなマンションの柱の下にある基礎杭の頂部。これは参考までに、撮りやすい場所にあった建物南端の基礎の写真。

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むしろ残存の可能性があるとすれば図の11の台座。マンションの敷地の一角につくられた公園。そこであればマンション建設でも撤去する必要はなく、なんらかの痕跡が残ってるのではと期待して行ったものの、見事にリセット済み.. 兵どもが夢の後。

これを見れば、マンションの床下に台座を残したまま工事を行う可能性はなかったと判断するのが妥当か。

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南側の列の砲座の15、17が残存する可能性ありとのこと。

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図の15。砂利敷きの駐車場の奥にアスファルトで覆われた部分が台座の跡ではと指摘している記事は多いものの、地図と比べると位置が少し違うようだ。地図と航空写真の重ね合わせの精度のこともあるので断言することはできませんが、戦後の空中写真を見る限り台座はもっと道路側、手前の2台の白い車の辺りにあったはず。

このサイトの写真を見ると、その道路に近い位置に何かの構造物の痕跡が露出していた形跡があるのは、おそらくそれが台座の残骸であり、近年にそれは撤去されてしまったと考えます。したがって現在この砂利駐車場の真ん中に残るアスファルトは台座とは関係のないもの。

図の17の台座のあった場所には現在木造平屋の物置が建っていて、通りから覗ける範囲では物置の床がコンクリートになっていることまではわかります。ただそれが台座を利用したものなのかまでは外から眺める限りは判断不能。民有地の建物の中の話なので調べるには所有者の承諾が必要となることもあるため、リサーチはここまで。
この他の場所にも台座が残存する可能性はあるものの、アポなしで観察できる範囲でわかるのはこのぐらい。

今回の追跡で台座が確実に残存すると確認できたのは図の2(町工場基礎).3(タンク/住宅基礎).6(駐車場)の3基となりますが、少し気になっていたのは地上への露出のレベル差。6の駐車場では敷地地面とフラット、道路面からは10cm程度のレベル差。3のタンク/住宅基礎は敷地内地表から15cmほど露出、道路との高低差で考えると25cm程度。2の町工場基礎は、道路面から30cmほどの高低差。
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下仙川の陣地の台座の残骸のように宅地造成の時に撤去移動、町内会看板の土台として再利用したという話であれば地表面から大きく露出していても不思議ではないけど、この青戸の高射砲陣地で当初からの位置が変わらず残っているとすれば、台座間の地形とのレベルのずれは当初からのものだったと想像します。

となると、ここでひとつ推理をすることになりますが、おそらくは6基の砲座を高射算定具と接続して連動制御する都合、射撃精度の確保のため、連動する台座の設置レベルは水平に揃える必要があったのではないか、と。
射撃用の水平なプラットフォームという「仮想地形」と畑の中の建設地というゆるやかに傾斜した原地形との場所によるレベル差が、台座の露出の仕方の差になって、その後の「用途」の違いが生まれたと考えると、ちょっと面白い。
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都下の高射砲陣地については、他にも少し気になったことがあるので、いずれ機会を見つけてまた書いてみる予定。
これまでの高射砲陣地関連の記事を下にINDEXとして整理しておきます。




下仙川:町内会看板土台への転用

小坪(逗子 披露山):公園施設への転用

戦後米軍が記録した東京の風景:高射砲陣地の写真

by hn-nh3 | 2018-06-11 12:40 | 構造物 | Comments(0)