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断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

青戸高射砲陣地 2019 (補遺)

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前回前々回に続き、青戸高射砲陣地 のリサーチの続編。

葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要に現存遺構についての話が掲載されていると、"葛飾音頭"さんよりお知らせいただき、現地リサーチの帰りに博物館に行ってきました。

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葛飾区郷土と天文の博物館 博物館研究紀要 第5号 1988.3発行。館内のライブラリーでも閲覧とコピーはできますが、受付で販売もしていたので購入。1260円なり。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

調査記録は地元の人へのヒアリングや部隊編成の記録収集など、それこそインターネットが普及する以前の「足を使った研究作業」で頭が下がります。

青砥(白鳥)の陣地に配属されていたのは高射第1師団、高射砲第115連隊第2大隊の第9、11、12中隊。中隊はそれぞれ指揮小隊と2つの小隊で構成され1小隊には3基の高射砲。3+3で中隊には6基、それが3列で合計18台の九九式8cm高射砲が配備されていたようだ。このうち第12中隊は、米軍の爆撃対象が地方都市に移行、また米軍の上陸に備えて水戸に転属との記述。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

米軍撮影の戦後の空中写真から砲台位置を特定、その他兵舎などの撮影時(1947)年頃にはすでに撤去されて写真では確認できない建物の位置も聞き取り調査などで明らかにしている。陸軍が1944年に空中写真を撮影したものが現在では国土地理院の情報サービスで閲覧可能だが、この調査当時(1988年)はまだその資料が入手できなかったのか、砲台列の中心部にあったと推定される高射算定具の設置場所についての言及はないものの、配備の記録のある「た」号電波探知機の設置エリアをヒアリングにより陣地北東部ではないかと推定している。陸軍の空中写真には円形に整地された場所が陣地北東部にあることが確認できるので、そこがレーダーサイトであったと特定して間違いはないだろう。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

現在、公道からも確認できる3つの台座遺構を紹介。前回の記事で取り上げた(当ブログ地図のNo.15の台座)遺構についても、12本の直径8cmの鉄パイプが地上部に露出する経緯などが記録されている。台座上部30cmほどコンクリートは削り取ったところで撤去作業を打ち切ったとのことで、現在も地中に台座下部が残存していると思われる。

このヒアリングの中で、台座周囲にコンクリート構造物(厚さ十数センチ、縦横1m四方)がそれぞれ3箇所あって、戦後は子供のかくれんぼの遊び場になっていたこと、コンクリートは鉄筋の代わりに竹が使われていて簡単に壊せたことなど、貴重な証言が採録されている。これが弾薬庫であって、3箇所で30発の弾薬が保管されていた、ということを著者は類似の事例(狭山の山口高射砲陣地の元隊員の証言記録)から推測していて、これらの弾薬庫を囲んで台座周囲に掩体として土嚢を積み上げていたと記している。

掩体が造成の土盛りではなく土嚢の積み上げであったという記述が、白鳥の住人へのヒアリングから得られたものなのか、件の山口高射砲陣地の証言から類推したものなのかは、記述の言葉が足りず、判然としない。

以上が紀要から得られた情報。

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(高射砲陣地築設要領 :1943年 参謀本部)

これは別資料からの引用ですが、戦時中の標準的な高射砲陣地の構造規定。半地下式の円形のプラットフォームの周囲3箇所にコンクリート製の弾薬庫。弾薬庫を覆い隠すようにプラットフォーム周囲を土盛り(掩体)して、1箇所出入りの通路を確保。これは7cm高射砲用の図面ではあるが、他の口径の高射砲でも基本構造は一緒。掩体の作り方は周辺地形との関係でバリエーションがあるようだ。

青砥(白鳥)の陣地では、砲台のプラットフォームは半地下式ではなく地表より30cmほど高いレベルに台座が据えられている。一帯が川沿いの低地であったため田畑に土をいれて地表より30cmほど高いレベルで造成したのだろうか。

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台座周囲の掩体(土盛り)が実際にはどうだったのか、というのがいまひとつ解らない。
戦後の写真を見ると、北側の列は台座周囲に土盛りの掩体があったような痕跡。不鮮明ではあるが戦時中の44年に撮影された写真での掩体らしき土盛りのサークルの影が確認可能。

しかし、中央の列と南側の列は戦後写真では掩体はなく、円形プラットフォーム周囲3箇所の弾薬庫が露出。戦後二年の間に土盛りが撤去されたという可能性も大ではあるが、戦時中の写真を見ると、中列の砲台は影の形から見て、その当時から掩体が存在しなかったようにも見える。たとえば、土嚢を積んだ簡単なものだったのか... 土盛りを築く前に水戸に中隊が転属になりその必要がなくなったのか... どれも想像の域を出るものではないにしろ、何か理由はありそう。

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周辺の高射砲陣地。葛飾区の青砥(白鳥)陣地の南側には江戸川区 小岩篠崎、北側には足立区 保木間に高射砲陣地があり、それぞれ12cm高射砲が6門が配備されていたとのこと。青砥のものよりも陣容が大きく重要拠点であったことが伺われる。青砥はこの2つの中間を埋める補完的な陣地だったのだろうか。いずれにしても東京の西側各地に作られた高射砲陣地より格段に規模が大きいのは、米軍の首都上陸や爆撃ルートを房総半島側からと想定してのことか。

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昨年から国土地理院の空中写真閲覧サービルで戦後の東京を「飛行」して高射砲陣地の位置を特定する作業を密かに進めてたりするのですが、似たような人はいるらしくGoogleの地図に高射砲陣地の位置がいつの間にか多数登録されているのに気がつきました。

未登録の場所もまだあるし、検索ワードによるのか、ここに保木間の陣地が表示から落ちてたりと不完全ではあるものの、こうやって全体像が見えるとまた別の話ができそう。

Commented by vol de nuit at 2019-06-02 20:46 x
非常に興味深く、この紀要は私も行って入手したいと思います。

知人によると、青戸の高射砲が飛来したB29に被害を与え、その報復として区役所が狙われた(結果全焼。)という話があるそうです。――真偽は不明ですが。
Commented by hn-nh3 at 2019-06-03 05:38
vol de nuitさんが前に話していたキ94高高度防空戦闘機のことも、展示で前にやってたみたい(http://dansa.minim.ne.jp/a3622-01-KatsusikaKi94.htm)で、葛飾区郷土と天文の博物館はなかなかポテンシャル高いですね。常設展示も昭和の家の庭先が原寸大で再現してあったりで楽しめます。

>>青戸の高射砲が飛来したB29に被害を与え、その報復として区役所が狙われた

報復で狙われた、というのは因果関係をつけたがるこちら側の思い込みなんでしょうけど、目につく近代的な建物はたいてい狙われてますね。米軍機のガンカメラが捉えたカラー映像で田んぼの中の学校に機銃掃射の光が吸い込まれていくのを見たときはゾッとしました。
Commented by hn-nh3 at 2019-06-03 06:19
追記:
「紀要」に収録の調査記録では現存遺構として3箇所(no.2、6、15)を明らかにしていますが、その他アパート奥の台座(no.3)以外にも2箇所ほど存在することを示唆しています。いずれも私有地で(第三者が公道から視認できる場所ではない)ということで場所は明らかにしていないと思われます。
by hn-nh3 | 2019-06-02 12:35 | 構造物 | Comments(3)