西淡路(国次)高射砲台跡:後編

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_20044639.jpg
西淡路高射砲台跡(2018.8 撮影)

前回からの続き。
この11月に惜しくも最後の砲台が解体されてしまった西淡路高射砲陣地跡のリサーチ後編。
撮影は2018年6月と8月、2019年の6月。(掲載の写真や図面はクリックで拡大:1200~1600px

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_20105018.jpg

場所は大阪の東淀川区。最寄駅は阪急千里線、京都線の淡路駅。淀川の北側になるエリアで、梅田からは4kmほどの距離。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_20200363.jpg
写真出典:国土地理院:1948/02/20(昭23)_USA-M18-4-21

戦後間もない頃に米軍が撮影した空中写真を見る。北側からの侵入に備えて6基の砲台が扇型の陣形で配置されているのが確認できます。一般的な半地下土塁型の陣地ではなく、地上3mの高さにプラッットフォームを設けたコンクリート造の塔状砲台であることが、地面に落ちる影で分かります。

扇の要の部分に写真では細部形状は判然としないものの指揮所の建物が識別可能。陣地の周囲の長方形にかたどられた平坦な地面は射撃の障害にならないように建物疎開を行った痕跡。

それでも周囲には民家が密集していて、地上面よりも高い砲台を築く必要があったことが写真を見ると理解できます。。陣地西側の丸く整地されたエリアはレーダーサイトと思われます。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_20344655.jpg
写真出典:国土地理院:1975/03/14(昭50)_CKK748

1975年の空中写真。都市化した街中に6基の砲台と指揮所の構造物がそのまま残ってることが確認できます。1950年に策定された計画道路が陣地の中央を貫いているために宅地開発ができず、戦後そのままの状態で砲台が残ったのか。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_20422014.jpg

Google Earthのタイムマシン機能で2012年4月の姿を見てみる。マンション建設に伴い東の1番砲台と2番砲台が喪失。西側の6番砲台は鉄工所の建物に取り込まれている。3番、4番、5番砲台は人が住み着いて住居として使用中。屋上には土が堆積して草が生えているのが見えます。

5番砲台を見ると、屋上の射撃用プラットフォームの中央に丸い砲座が草に埋もれず残っているのが確認できます。その後、建売住宅の開発で2012年7月に4番、5番砲台喪失。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_20515174.jpg
西淡路高射砲台 3番砲台(2018.8 撮影)

3番砲台は2019年11月まで現存。住居として使われ、地上部やプラットフォームへの増築でもはや原型がよくわからない状態。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04010477.jpg


この状況を図面化してみました。多角形の砲塔の各部分から放射状に増築されていて、世間一般の建物には見られない不思議な配置になってます。原型の砲台プラットフォームの一部には三角の突出部があって、上から見ると成長を重ねる巻貝のような造形。

増築部分はトタン屋根が飛ばないようにアルミのフェンスやら窓のサッシで重しをしていたり、コンクリートブロック、箒やモップなんかも載せてあったり、網戸で囲った屋上菜園やブロックを並べてデッキを敷いた砲座部分など、細部を観察するとなかなか楽しい。

隣のマンションから撮った写真を見ての「復元」なので死角になるところは想像で描いた部分もあります。この絵が描きたくてずっと企画を温めていたのですが、結果として1年半かかってしまった。。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04055180.jpg
西淡路高射砲台 3番砲台(2018.8 撮影)

東側から見ると基本的な構成がよく分かります。地上部は6角形の平面。屋上の高射砲を載せるプラットフォームは地上部より大きく張り出した変形12角形で周囲を胸高ほどのコンクリートの壁で囲っています。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04121919.jpg
西淡路高射砲台 3番砲台(2019.6 撮影)

北東からの眺め。戦後、住居として使われていた時に増築された木造の張り出し。モルタルを塗った壁にトタン板の屋根。撮影した時は既に廃墟で材料の劣化が進んで屋根も一部が剥がれて下地の野地板が露出。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04195254.jpg
西淡路高射砲台 3番砲台(2018.6 撮影)

西側。木造平屋の住宅が増築され、その屋根の上にコンクリートの砲台が露出。屋上にも小屋が建てられ、アクセスするための鉄製のタラップが掛けられています。階段の隣は屋根付き駐車場。道路の計画が進んで敷地はフェンスで閉鎖されていて内部への立ち入りは禁止。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04255388.jpg
西淡路高射砲台 3番砲台(2018.8 撮影)

屋根の上に角材を並べた渡り廊下と鉄パイプの手すり。屋上のプレハブ小屋に絡みついた蔓草。どんな使われ方をしていたのだろうか。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04304233.jpg
西淡路高射砲台 3番砲台(2018.8 撮影)

南側の壁面。トタン板の屋根とサッシや塩ビの波板など廃物利用で作った簡易な囲い。内部の間取りを知りたいところだが立ち入ることはできない。中には洗濯機が置いてあるのが窓から見えたので、おそらくはこの部分は屋内物干し場として使われていたのだろう。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04412635.jpg
西淡路高射砲台 3番砲台(2019.6 撮影)

2019年6月。3番砲塔解体前の風景。ピカピカの建売住宅と時間が止まったような世界のギャップ。この建売住宅の区画にはかつて4番、5番砲台があった。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04484422.jpg

建売住宅の隙間の向こうに見えるなにやら不思議な物体。これが2019年の2月まで現存していた6番砲台のある建物。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04524993.jpg

家の隙間から覗いてみると、これまた古そうなコンクリート構造物。この四角い建物は鉄工所として増築された部分でそれに取り込まれた形で砲台が残存していた。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_04554620.jpg


GoogleMapからのキャプチャであるが、黄色く囲った部分に他の砲台と同様、プラットフォームの三角の張り出しが残存しているのが確認できます。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05024530.jpg

こちらも図面化してみました。道路に面したスレートの外壁の鉄骨建物の奥に砲台を取り込んだコンクリートの建屋。屋上には2棟のプレハブ小屋。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05040010.jpg
西淡路高射砲台 6番砲台(2018.6 撮影)

鉄工所の中で作業をしていたおじさんに声をかけてみたら、高射砲の砲台だよと返事があって、見ていっていいとのことで中に入れてもらいました。工場内部はガントリークレーンを装備。以前は鉄骨の建築部材の製作をしていたようですが、現在は鉄筋の加工を行っている模様。中二階に休憩所が作ってあったりと複雑な構成。その向こうの奥にコンクリートの砲台の構造体が残されてました。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05081251.jpg
西淡路高射砲台 6番砲台(2018.6 撮影)

工場のおじさんは60歳を超えていただろうか、聞けば兄弟で経営しているとのこと。先代が軍に知り合いがいて、砲台付きでこの地所を手に入れたそうだ。戦後間もない頃であれば、砲台であっても何かに使えそうなコンクリートの建物は重宝したのかもしれない。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05044141.jpg
西淡路高射砲台 6番砲台(2018.6 撮影)

屋上に登る階段。これは戦後に付け足したもの。階段上部の3角の張り出しは明らかにオリジナルの砲台プラットフォームの一部。先端は削り落とされて短くなってます。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05070697.jpg
西淡路高射砲台 6番砲台(2018.6 撮影)

屋上に登る。プラットフォームは側壁が撤去されて床自体も拡張されているので、元の形状が分からない状態。高射砲を据えるための丸いコンクリートの台座もあったとのことだが、撤去されてしまっていて確認できず。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05055058.jpg
西淡路高射砲台 6番砲台(2018.6 撮影)

地上部は6角形の平面で6本の柱からの梁が交差する中心に円柱が立ち、屋上の高射砲の荷重を支える構造。地上部の周囲の壁は撤去して使っているとのことで、鉄筋の折曲げ機が置いてあった。工場の床はコンクリートにしたけど、元々は砂を敷き詰めてあった、とのこと。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05062419.jpg
西淡路高射砲台 6番砲台(2018.6 撮影)

何時だったか大学の先生が来て、あちこち測っていったよとの話。
自分でも測って記録をしたいところでしたが、この6番砲台の存在を知らず、3番砲台はフェンスの中で立入禁止という情報だったので、この日はレーザー距離計を持ち合わせておらず。。不覚。
雨も降っていて内部はすごく暗かったので、撮った写真も多くはブレブレで、見せられる写真が少ないのが心残り。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05073812.jpg

過去に実測調査があったと聞いて、調べてみたら調査報告書が市の教育委委員会から発行されてました。
西淡路(国次)高射砲陣地調査報告書 (2006,12 発行)

詳細な実測図も掲載されていて、それをトレースしたのが上の図面。基礎形状と屋上の砲座は今回の3番砲台解体時の情報を元に加筆。

6角形の地上部は「兵室」とよばれる待避所。中央部に直径70cmの太い円柱と巨大な梁があるのは、高射砲の射撃の振動に耐えるように計画されたものなのだろう。屋上の高射砲を据えるプラットフォームは一部が外側に大きく開いた変形12角形で周囲には胸高までのコンクリートの壁が囲んでいる。

プラットフォーム上に3箇所、コンクリート製の弾薬保管庫(砲側弾薬置場)が作られている。上部はモルタル防水、内部に防湿のための木製の保管箱を設置してアスファルト防水を施すことが当時の仕様書で定められているので、それに準じた構造だったと思われます。

砲台への上り下りは階段もかけられていたようではあるが、周囲に盛り土したスロープを専ら利用していたという話だ。
土盛りは兵室を爆風から守る効果も期待できただろうし、スロープは高射砲を据えるのにも使ったのかもしれない。小型のウインチが一つあればトレーラー付きの高射砲をスロープ使って引き上げるのも可能で、大掛かりな揚重クレーンは不要。プラットフォームの一部が大きく開いているのも高射砲の搬入のための形状だと推測できます。

報告書の実測図では地上部の「兵室」の床はコンクリートが敷かれていたような描き方になってましたが、3番砲台が2019年11月に解体された時にツイッターにアップされた画像を見ると、床は土間で放射状の基礎梁が露出、周囲は土のままになっていたことが確認できます。想像するに昔の一般的な家屋同様、土間床に束立てして木製の床を組んでいたのではないか。
鉄工所のおじさんの「砂が敷き詰めてあった」という証言は、それがオリジナルの仕様であったのか、鉄工所として使う際に砂を敷いたのか。おそらくは後者ではなかったか。

同じく解体時の屋上の写真を見ると、3番砲台には丸い砲座が残っていたのが確認できます。屋上の小屋の縁側デッキの下にそのまま隠れて残っていたようです。

解体工事の現場警備員さんに聞いた話では。基礎梁もとにかく頑丈で中央の柱の下と周囲の6本の柱の下には基礎底盤(フーチング)もあって、鉄筋も多くて壊すのが大変だったようだ。


西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05090257.jpg

高射砲の配置現況。2019年の時点で3番砲台と6番砲台は残存していたが、それも解体されてしまい現在(2019.12)はT型のコンクリート構造物の「指揮所」のみが残る。まだ人が住んでいるとのことで、解体はまだしばらく先になると警備員のおじさんは言ってました。

報告書によれば、6基の砲台は半径45m、間隔23mにて配置とありますが、地図から配置を読み取ると実際は 半径33m、間隔16m程度。報告書の数値は、戦時中に高射砲陣地の仕様を定めた「高射砲陣地築設要綱」に拠ったと思われます。実際の砲台の設計はそれぞれの部隊の工務課所属の設計技師が独自に行っていたそうです。

西淡路(当時の地名は国次)の高射砲陣地は、報告書の関係者へのヒアリングによると、昭和18年に土盛型で4基の陣地として完成。八八式七糎野戦高射砲(口径75mm、最大射高9100m)が配備。 その後、昭和19年6月頃にはコンクリートの砲台への改築に着手、昭和20年の6月に完成。

砲台設計は司令部の技師の小笠原(中佐?)という人が行い、天保山の陸軍から材料をもらって、工事は地元の「みぞばた」という建設業者が行った。配備された部隊は陸軍15方面軍高射第3師団第112連隊第1大隊第1中隊(兵員150~200名)。

実戦の機会は特になかったようで終戦前日の8月14に米軍機が1機だけやってきたことがあったが、敵機からの攻撃はなかったらしい。配属された元隊員の証言によると、砲台から射撃が行われた記憶は特にないとのことで、各地の高射砲陣地にありがちなB-29撃墜譚も当然のことながら無し。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05094025.jpg
写真出典:国土地理院:1948/02/20(昭23)_USA-M18-4-21

戦後に米軍が撮影していた空中写真を見ると、戦争が終わって3年も経つのに空襲の痕跡が生々しく残っていたことがわかる。淀川の河川敷に点々と散らばる丸い穴は投下された爆弾でできた「爆弾穴」。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05100603.jpg

3番砲台南側の「指揮所」が残る一帯は長い間にジャングル状態。軽トラが藪に埋まっっているなど荒廃が進んでました。
「指揮所」については、前述の報告書には詳しい記述や実測調査の報告もなく詳細は不明。

これについてはもう少し調べてあらためてレポートしたいと思う。

西淡路(国次)高射砲台跡:後編_d0360340_05101588.jpg

前回記事:西淡路(国次)高射砲台跡:前編



Commented by かば◎ at 2019-12-25 22:02
非常に興味深いです。
あー、見てみたかった。

余計なツッコミから入るのは何なのですが、

>>5番砲台を見ると、屋上の射撃用プラットフォームの中央に丸い砲座が草に埋もれず残っているのが確認できます。
>>その後、建売住宅の開発で2012年7月に3番、4番砲台喪失。

とあるのは、実際は「4番、5番砲台喪失」ですよね?

改めて詳細にみる平面形がまた素敵です。
巻貝のような、と言われればその通りですし、有孔虫とか、あるいは何か尖った口吻を持った素敵微生物の類のようにも見えます。

最初は、この張り出しの(巻貝でいうところの)「口」部分に階段でもついていたんだろう、みたいなふうに考えていたんですが、hn-nhさんの記事から考えると、この「塔」自体が土盛りに埋まるような感じになっていて、その土盛りに斜路が作られて、この「口」につながっていた……?
なんだか、ピラミッド建築で、ピラミッドに向けて土を固めて作った斜路の上を、奴隷がコロとテコを使って石材を押し上げていく姿が重なって見えるような。
Commented by かば◎ at 2019-12-25 22:27
連投失礼します。

wikipediaによれば、大阪を標的とした大規模な空襲(大阪大空襲)は、第2回が20年の6月1日、以後、同月中に第5回まであり、さらに7月に2回(片方は堺が主目標?)、8月14日に最後の第8回があります。

この砲台が完成した「6月」というのが、上旬なのか下旬なのかはわかりませんが、少なくとも終戦までに数回は射撃を行う機会はあったように思います。
それでも射撃が行われなかったのであれば、「砲台は完成したけれども、実際に臨戦態勢に入るにはまだ不備があった」ということなのかも。
いやまあもちろん、大阪大空襲の飛行経路がまるっきりこの砲台の位置から外れていた、ということもあり得るのかもしれませんが。
Commented by hn-nh3 at 2019-12-26 05:51
「3番、4番砲台喪失」→「4番、5番砲台喪失」
誤記訂正しました。かば◎さんありがとございます。
アップ前にちゃんと校正しないとダメですねー(^^;)

その他、弾薬庫の構造について、現況調査によるものなのか、当時の標準仕様なのかが判断しにくい文章になってたので、訂正しました。
Commented by hn-nh3 at 2019-12-26 06:23
土盛りのスロープがあったことは複数の隊員の証言で確かめられますが、地上部の兵室の壁には窓が配置された構造なので、周囲に土をかぶせて使うことを想定した設計ではなかったように思います。それこそ工事の際に、おそらくコンクリート打設は生コンをネコ(手押車)に載せて運んだのでしょうから、工事用に築いたスロープをそのまま残して運用した可能性はあります。

砲台からの応戦の証言が特にないというのは気になりますね。
20年6月以降の大阪空襲は6/1、6/7、6/15、6/26、7/10(堺)、7/24、8/14となってますが、6月中は工事や調整が残っていて運用できる状態ではなかった可能性はありますね。

高射砲の有効射程距離から考えると、近接信管もない砲撃では実際、敵機に当たるのは直線距離で5000~6000mにも満たないでしょうから、爆撃機の侵入高度が低空2000mだったしても砲台から水平距離で数キロ以内の範囲を爆撃機が通らない限りは撃っても無駄でしょうから、案外と応戦機会は少なかったのかもしれませんね。
Commented by 通りすがり at 2024-04-09 20:20
2024年3月から4月の間に指揮所が解体されてしまったことに気が付き、久々に高射砲について検索してたどり着きました。
by hn-nh3 | 2019-12-25 20:40 | 高射砲陣地 | Comments(5)