西淡路(国次)高射砲台跡:後編
2019年 12月 25日



戦後間もない頃に米軍が撮影した空中写真を見る。北側からの侵入に備えて6基の砲台が扇型の陣形で配置されているのが確認できます。一般的な半地下土塁型の陣地ではなく、地上3mの高さにプラッットフォームを設けたコンクリート造の塔状砲台であることが、地面に落ちる影で分かります。
扇の要の部分に写真では細部形状は判然としないものの指揮所の建物が識別可能。陣地の周囲の長方形にかたどられた平坦な地面は射撃の障害にならないように建物疎開を行った痕跡。
それでも周囲には民家が密集していて、地上面よりも高い砲台を築く必要があったことが写真を見ると理解できます。。陣地西側の丸く整地されたエリアはレーダーサイトと思われます。

1975年の空中写真。都市化した街中に6基の砲台と指揮所の構造物がそのまま残ってることが確認できます。1950年に策定された計画道路が陣地の中央を貫いているために宅地開発ができず、戦後そのままの状態で砲台が残ったのか。

5番砲台を見ると、屋上の射撃用プラットフォームの中央に丸い砲座が草に埋もれず残っているのが確認できます。その後、建売住宅の開発で2012年7月に4番、5番砲台喪失。

3番砲台は2019年11月まで現存。住居として使われ、地上部やプラットフォームへの増築でもはや原型がよくわからない状態。

この状況を図面化してみました。多角形の砲塔の各部分から放射状に増築されていて、世間一般の建物には見られない不思議な配置になってます。原型の砲台プラットフォームの一部には三角の突出部があって、上から見ると成長を重ねる巻貝のような造形。
増築部分はトタン屋根が飛ばないようにアルミのフェンスやら窓のサッシで重しをしていたり、コンクリートブロック、箒やモップなんかも載せてあったり、網戸で囲った屋上菜園やブロックを並べてデッキを敷いた砲座部分など、細部を観察するとなかなか楽しい。
隣のマンションから撮った写真を見ての「復元」なので死角になるところは想像で描いた部分もあります。この絵が描きたくてずっと企画を温めていたのですが、結果として1年半かかってしまった。。

東側から見ると基本的な構成がよく分かります。地上部は6角形の平面。屋上の高射砲を載せるプラットフォームは地上部より大きく張り出した変形12角形で周囲を胸高ほどのコンクリートの壁で囲っています。





2019年6月。3番砲塔解体前の風景。ピカピカの建売住宅と時間が止まったような世界のギャップ。この建売住宅の区画にはかつて4番、5番砲台があった。















非常に興味深いです。
あー、見てみたかった。
余計なツッコミから入るのは何なのですが、
>>5番砲台を見ると、屋上の射撃用プラットフォームの中央に丸い砲座が草に埋もれず残っているのが確認できます。
>>その後、建売住宅の開発で2012年7月に3番、4番砲台喪失。
とあるのは、実際は「4番、5番砲台喪失」ですよね?
改めて詳細にみる平面形がまた素敵です。
巻貝のような、と言われればその通りですし、有孔虫とか、あるいは何か尖った口吻を持った素敵微生物の類のようにも見えます。
最初は、この張り出しの(巻貝でいうところの)「口」部分に階段でもついていたんだろう、みたいなふうに考えていたんですが、hn-nhさんの記事から考えると、この「塔」自体が土盛りに埋まるような感じになっていて、その土盛りに斜路が作られて、この「口」につながっていた……?
なんだか、ピラミッド建築で、ピラミッドに向けて土を固めて作った斜路の上を、奴隷がコロとテコを使って石材を押し上げていく姿が重なって見えるような。
あー、見てみたかった。
余計なツッコミから入るのは何なのですが、
>>5番砲台を見ると、屋上の射撃用プラットフォームの中央に丸い砲座が草に埋もれず残っているのが確認できます。
>>その後、建売住宅の開発で2012年7月に3番、4番砲台喪失。
とあるのは、実際は「4番、5番砲台喪失」ですよね?
改めて詳細にみる平面形がまた素敵です。
巻貝のような、と言われればその通りですし、有孔虫とか、あるいは何か尖った口吻を持った素敵微生物の類のようにも見えます。
最初は、この張り出しの(巻貝でいうところの)「口」部分に階段でもついていたんだろう、みたいなふうに考えていたんですが、hn-nhさんの記事から考えると、この「塔」自体が土盛りに埋まるような感じになっていて、その土盛りに斜路が作られて、この「口」につながっていた……?
なんだか、ピラミッド建築で、ピラミッドに向けて土を固めて作った斜路の上を、奴隷がコロとテコを使って石材を押し上げていく姿が重なって見えるような。
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連投失礼します。
wikipediaによれば、大阪を標的とした大規模な空襲(大阪大空襲)は、第2回が20年の6月1日、以後、同月中に第5回まであり、さらに7月に2回(片方は堺が主目標?)、8月14日に最後の第8回があります。
この砲台が完成した「6月」というのが、上旬なのか下旬なのかはわかりませんが、少なくとも終戦までに数回は射撃を行う機会はあったように思います。
それでも射撃が行われなかったのであれば、「砲台は完成したけれども、実際に臨戦態勢に入るにはまだ不備があった」ということなのかも。
いやまあもちろん、大阪大空襲の飛行経路がまるっきりこの砲台の位置から外れていた、ということもあり得るのかもしれませんが。
wikipediaによれば、大阪を標的とした大規模な空襲(大阪大空襲)は、第2回が20年の6月1日、以後、同月中に第5回まであり、さらに7月に2回(片方は堺が主目標?)、8月14日に最後の第8回があります。
この砲台が完成した「6月」というのが、上旬なのか下旬なのかはわかりませんが、少なくとも終戦までに数回は射撃を行う機会はあったように思います。
それでも射撃が行われなかったのであれば、「砲台は完成したけれども、実際に臨戦態勢に入るにはまだ不備があった」ということなのかも。
いやまあもちろん、大阪大空襲の飛行経路がまるっきりこの砲台の位置から外れていた、ということもあり得るのかもしれませんが。
「3番、4番砲台喪失」→「4番、5番砲台喪失」
誤記訂正しました。かば◎さんありがとございます。
アップ前にちゃんと校正しないとダメですねー(^^;)
その他、弾薬庫の構造について、現況調査によるものなのか、当時の標準仕様なのかが判断しにくい文章になってたので、訂正しました。
誤記訂正しました。かば◎さんありがとございます。
アップ前にちゃんと校正しないとダメですねー(^^;)
その他、弾薬庫の構造について、現況調査によるものなのか、当時の標準仕様なのかが判断しにくい文章になってたので、訂正しました。
土盛りのスロープがあったことは複数の隊員の証言で確かめられますが、地上部の兵室の壁には窓が配置された構造なので、周囲に土をかぶせて使うことを想定した設計ではなかったように思います。それこそ工事の際に、おそらくコンクリート打設は生コンをネコ(手押車)に載せて運んだのでしょうから、工事用に築いたスロープをそのまま残して運用した可能性はあります。
砲台からの応戦の証言が特にないというのは気になりますね。
20年6月以降の大阪空襲は6/1、6/7、6/15、6/26、7/10(堺)、7/24、8/14となってますが、6月中は工事や調整が残っていて運用できる状態ではなかった可能性はありますね。
高射砲の有効射程距離から考えると、近接信管もない砲撃では実際、敵機に当たるのは直線距離で5000~6000mにも満たないでしょうから、爆撃機の侵入高度が低空2000mだったしても砲台から水平距離で数キロ以内の範囲を爆撃機が通らない限りは撃っても無駄でしょうから、案外と応戦機会は少なかったのかもしれませんね。
砲台からの応戦の証言が特にないというのは気になりますね。
20年6月以降の大阪空襲は6/1、6/7、6/15、6/26、7/10(堺)、7/24、8/14となってますが、6月中は工事や調整が残っていて運用できる状態ではなかった可能性はありますね。
高射砲の有効射程距離から考えると、近接信管もない砲撃では実際、敵機に当たるのは直線距離で5000~6000mにも満たないでしょうから、爆撃機の侵入高度が低空2000mだったしても砲台から水平距離で数キロ以内の範囲を爆撃機が通らない限りは撃っても無駄でしょうから、案外と応戦機会は少なかったのかもしれませんね。
2024年3月から4月の間に指揮所が解体されてしまったことに気が付き、久々に高射砲について検索してたどり着きました。
by hn-nh3
| 2019-12-25 20:40
| 高射砲陣地
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Comments(5)

