高射砲陣地(陸軍高射砲部隊 関東地区 1945)

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戦時中の東京、関東地区の高射砲陣地があった場所を特定して現在の地図にプロットする作業を一年ほど続けている。現在の東京で当時の痕跡を留めるものはほとんど残っていない。そもそも街の中にそんなものがあることも知らなかった。果たして当時はどうだったのだろう。78年前の今日、東京は火の海だった。

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戦災焼失区域表示 東京都35区 S21.9 日本地圖株式会社

1945年(昭和20年)3月10日の未明、米軍の325機のB-29爆撃機が房総沖より東京上空に侵入する。深川区、本所区、浅草区、日本橋区、そして芝区(港区)へと爆撃範囲は広がる。投下された焼夷弾は38万1300発、1665トン。死者は10万人、焼失家屋26万8千戸、罹災人口100万人。後に東京大空襲と呼ばれる下町エリアの無差別爆撃であった。日本側も戦闘機46機が迎撃、地上からは高射砲で応戦している。撃墜したB-29爆撃機は14機(日本側資料*では撃墜18機、66機損傷)

その後も空襲は続き、大きなもので4月13日(出撃352機/撃墜*13/損傷*50)、5月24日(562機/*23/*33)、5月25日(502機/*26/*35)と、5月末までに市街地の50%
(145.8km2)が焼失した。地図で赤く塗られた部分が焼失区域になる。白い部分には皇居や東宮御所など爆撃対象から外された緑地、英国大使館や聖路加病院といった連合国系の建物、丸の内のビル群など占領時に必要とされる施設のエリアが含まれていると考えれば、山手線の内側と下町エリアは事実上の焦土と化した。

この無慈悲な攻撃に対して何が出来たのか。どこまで準備していたのかが分かる資料が国会図書館に残っている。>『本土防空作戦記録 関東地区』S26.7 復員局 
終戦時に廃棄された防空資料を戦後に復元したのものだ。この文書はデジタル化されオンラインでも閲覧できる。
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高射砲陣地 展開図(陸軍高射砲部隊 関東地区 1945.5 ): 本土地上防空作戦記録関東地区 付図 S26/7 復員局作成

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高射砲第一師団陣地一覧(内 第114連隊): 本土地上防空作戦記録関東地区 付表 S26/7 復員局作成

開戦から僅か4ヶ月後の4月、日本近海に密かに接近した米空母から16機の爆撃機が東京を襲った。ドーリットル空襲と言われるこの事件で本土攻撃が現実の問題として認識される。首都の防空態勢は大きく見直され配備される高射砲は300門へと倍増された。米軍が長距離爆撃機B-29を開発している情報は1943年には日本軍も察知し、中国大陸やマリアナ諸島から射程距離内に入ることが予見されていた。首都及び京浜工業地帯の防衛のために関東南部一円には高射砲陣地130箇所、照空灯陣地320箇所が急ピッチで整備された。終戦時には高射砲731門、機関砲301丁が残っていたことが同書の配備表に記録されている。



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高射砲陣地配置図、砲座弾薬置場設計図:高射砲陣地築設置要領 S18 陸軍参謀本部

配備されていた高射砲の主力は99式8糎高射砲でドイツの8.8cm高射砲をコピーしたもので有効射高は8000m。房総方面からの敵機侵入に備えて東京の東側エリア、荒川から隅田川にかけての陣地に主に配備されていた。旧式で88式の7糎高射砲は有効射高さ7000mで城西地区、多摩丘陵の補助的陣地。3式12糎高射砲は84門と数は少なかったが有効射高12000mを誇り、重要拠点に配備されてた。

高射砲の陣地は中隊で6門、円形もしくは半円形に展開する構成で、それぞれ1.2m程度の掩体に護られた半地下式の砲座があった。砲座は直径3.6~4.5mの円形のコンクリートで、周囲には3〜4組の即応弾薬庫が配置されている。陣地の中央部には半地下式の指揮所が設けられ敵機を観測して飛行軌跡を計算する高射算定具からの信号と連想して射撃ができるようにそれぞれの砲座とは配線で接続されていた。電波評定機(レーダー)も各陣地への配備が進めらていたが、レーダーと連動した射撃が実用化されていたのは久我山に2門だけ配備された15糎高射砲だけで、夜間の迎撃には周囲の照空灯陣地からの照射が欠かせなかったようだ。

『高射砲陣地築設置要領』 は現在、アジア歴史資料センターのページから閲覧できる。

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写真出典:「米軍が見た 東京1945 秋」 佐藤洋一 洋泉社 2015

当時の状況が分かる高射砲陣地の現存写真は少ない。関東エリアでは戦時中に撮られた房総半島の海軍砲台、足立区の保木間陣地で撮られた日常スナップ、終戦時に至近距離から空撮された川崎一号地(水江)の12cm砲陣地、小岩の12cm砲陣地、 そしてこの写真。場所は特定できてないのだが終戦時に米軍が撮影したもので高射砲がまだ残っている。7cmないし8cm砲の陣地だろう。中央部の半地下指揮所の構成もよく分かる。後方の兵舎は一般的な棒状に長い構成ではなく、中央部が空き地になったセパレートタイプは珍しい。何らかの状況で除去されたのか、あるいは都内近郊の陣地ではないのかもしれない。陣地の周囲には防火用水も兼ねたため池か小川があることが多い。

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高射砲陣地の位置同定には”国土地理院 空中写真閲覧サービス”が使える。1944年9月から45年1月にかけて陸軍が撮影した空中写真、戦後(1946~1949)に米軍が撮影
した写真が閲覧可能。『本土防空作戦記録』の展開図に示されたアバウトな位置関係と表に示された古い地名を頼りに写真を眺めていると見つかる。戦後に米軍が撮った空中写真の方が高度も低く鮮明ではあるけど、既に解体が進んでコンクリートの砲座と弾薬置場だけになっていることが多い。代々木公園(ワシントンハイツ)や成増、調布や立川の飛行場など進駐軍に利用された場所の周辺では痕跡すら留めていない場所もある。写真は小岩の陣地で12cm高射砲と8cm高射砲陣地が3組の巨大陣地がクッキリと写っている。

陣地の構築に際しては集落から少し離れた農地を利用することが多く、小岩の陣地では半ば強制的に収容された土地を戦後に返還するときに現状復旧を巡って住民と国が揉めた記録が残っている。


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サーチライトと聴音機を備えた照空灯陣地も空中写真から見つけられる。円形の穴と周囲に土盛りを作った簡単な構造なので戦後はすぐに潰されてしまったのだろう。戦後の写真では痕跡を殆ど留めないものが多い。写真は港区の芝離宮の隣にあった浜松町陣地と井の頭線駒場東大前の近くの駒場陣地。位置を特定する資料はないものの2基の掩体と照空灯の格納レールの存在を示すスリットが掩体から延びていることなど、周辺とは明らかに違う幾何学的な土木構造物であることから、照空灯陣地と考えて間違いなないだろう。

各地の高射砲陣地、照空灯陣地は1944年9〜11月に撮影された陸軍写真に写っている。44年の7月にサイパンが陥落して、グアムサイパンの飛行場が本土攻略用に整備されたのが11月頃だから、その頃までには迎撃態勢を整えていたことが分かる。




Googleのマイマップ機能を利用して、位置同定の済んだ高射砲陣地と照空灯陣地をプロットしている。位置は資料に記載された1945年5月後の布陣になる。ピンを立てた登録地は450を超えて、想定される陣地の90%が場所を明らかにできた。と思いっている。オレンジのピンは12cm高射砲、赤が8cm高射砲、パープルが7cm高射砲。黄色が照空灯陣地、ウグイス色は陣地名の記載のない照空灯陣地、もしくは他の陣地との位置関係から存在が推定される照空陣地。茶色は表には載っていないが空中写真に写る痕跡から高射砲陣地と推測される、あるいは伝文が残っているもの。青が機関砲陣地。モスグリーンのピンは電波評定機を設置したレーダーサイト。それぞれのピンには陣地が写り込んだ空中写真を登録しておいた。地図はGoogleMapと同様、拡大縮小とスクロール。ピンをクリックするとその場所にあった高射砲陣地の写真を見ることができる。


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東京上空を飛ぶB-29爆撃機。川筋から越谷周辺と推定した。F-13と呼ばれる偵察型だろう。1944年の11月より高度1万メートル以上を定期的に飛行して各地の爆撃ポイントの情報収集、そして空襲後の爆撃効果評定用の写真を撮影している。


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米軍が撮影した偵察写真の一部は、国土地理院の米軍評定図から購入可能だ。解像度を落としたサンプル写真を見ることができる。ルートマップからおそらく1945年4月7日に飛行した時のものと推測している。東京湾から北上して越谷付近で右にターン、房総方面へと抜けるルート。

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米国公文書館所蔵 空中写真評定図

東京大空襲の直前、3月8日も偵察飛行をおこなっている。東京西部から皇居上空を通過、東京湾に抜けるルート。高度1万メートルを超える高度ではジェット気流の影響を受けるので西から東へと抜けるルートが多かった。爆撃ルートも当初は富士山を頼りに日本に接近、相模湾から内陸部を北上して西にターン、多摩方面から房総に抜ける作戦を想定した迎撃体制が敷かれていたが、米軍の爆撃がジェット気流を避けた低空、照空灯のない東京湾を北上するルートを取るようになった3月以降には、照空灯部隊の一部を多摩から千葉方面に配置換えを行っている。

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高射砲が直撃したB-29:NARA/342-FH_000050 (米国空軍番号 58961AC)

B-29爆撃機は高度1万メートルで飛来して焼夷弾を撒き散らして日本軍の高射砲が全く届かなかかった。そうした伝聞がよく吹聴されているが、それは全くの間違いである。確かに高高度を飛んでくる偵察機体には高射砲は届かなかった。迎撃の戦闘機も1万メートルまで上昇できる機種は少なくその高度で追尾できる速度も出せなかった。米軍の爆撃も当初は高射砲の射程外になる高度8000~1万メートルから軍需工場を狙った精密爆撃を行なったが、精度が悪く爆撃の成果は上がらなかった。

米軍は方針を変更して、高射砲の追尾が難しい高度1500~3000mの超低空、レーダー射撃が不得意な日本軍の弱点である夜間爆撃に切り替える。焼夷弾による火災旋風の影響を受けるほど低い高度を飛ぶB-29に対しては高射砲もそこそこ当たったようだ。高射砲と戦闘機の応戦で、終戦までの期間に485機のB-29が撃墜されている。

高射砲の弾が届かなかったという話は爆撃開始当初の高高度爆撃と低空からの焼夷弾無差別爆撃の話が一緒に語られることで生まれた俗説だと思う。

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高射砲陣地と照空灯陣地、実際にあった場所を同定して地図にプロットしていくと、恐るべき幾何学が見えてくる。高射砲陣地の配置間隔は概ね5km以内、照空陣地は2.5kmkから3kmのメッシュで均等配置されていることに気がついた。川や山地、住宅密集地など地形的な制約で最適な配置間隔が取れない場所もあるが、幾何学的な配置は明らかに意図的だ。当時の資料に照空は3km以内に配置する旨の記述もある。レーダーが整備途上の状態で夜間の迎撃を可能にするのは進入するB-29への照空灯の切れ目のない照射だ。高射砲も隣接の陣地と連携して弾幕を張ることで撃墜が可能になる。

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日本軍の高射砲は命中しなくても爆発する近接信管を持たず、レーダー射撃もできなかったから射撃の精度は低かったものの、これだけの密度と数を揃えることで、角jつに米軍に脅威を与えていた。司令官のカーチス・ルメイも迎撃戦闘機の能力よりも高射砲を恐れていたという。都市はハリネズミのように要塞化されていたと言ってもいいだろう。メディアで空襲の話が語られる時、戦争の思い出は火の海を逃げ惑う市民の姿ばかりがステロタイプのように描かれるが、米軍の夜間無差別爆撃もこの武装都市の布陣から導かれた帰結でもあったのだろう。それを覚えておくようにしたい。

繰り返し語られてきた被害者的な市民の戦争体験、もしくは加害者的な歴史観を引っ張り出して語る事はしたくない。
だけどこの地図を見て、一つだけ確かに言えるとすれば、
それは、昔々、僕らの祖父や祖母が暮らしていた街は紛れもなく普通に戦場だった、ということだ。是非もなく。

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1945年3月10日 東京大空襲直後の東京:米軍撮影 (米国空軍番号 56542 AC)

<関連記事:陸軍高射砲部隊 関東地区>


<海軍防空砲台:逗子>
<
<陸軍高射砲部隊 関西地区>


Commented by かば◎ at 2023-03-12 13:33
これは大変な労作ですね。

「帝都防衛」の対空陣地、こんなにまんべんなく敷き詰めるような形で配置されていたんですね。
もっと立地条件とか、想定ルートとか、あるいは軍とどこかが絡んだ忖度とか、そんなアレコレの理由で、ある程度、重点配置みたいなものがあるのかなあと(勝手に)想像していました。
Commented by はせひろ at 2023-03-13 11:55
突然失礼します。ツイッターで拝見し、興奮してしまい、コメントしています。
実家の辺りはずーっとそこに住んでる方が多いエリアで、向かいのお家もそうだったのですが、そこの方から数年前に、あっちの方にあったんだよ、と教えて頂いた事がありました。
こちらの地図を拝見し、確かにその時に指してた方角と同じ所にありました。
話を聞いた時は、そんな装備あったの?!と凄く驚いた事を記憶しています。
今回こちらを拝見して改めて、あぁ、本当にあったんだな、しかもこんなに沢山あったのかと、ほんの少しですが実感することが出来ました。

この家の前の道路に爆弾落ちたけど、ちょうど不発弾だったからこの辺は無事だったんだよと教えてくれた私の祖母は、もう十年近く前に亡くなっています。
高射砲(この名前を知ったのは今ですが)の事を教えて下さった方も昨年亡くなりました。
当時を知る人が本当に少なくなっている今、この様な形で、知る機会を作って下さり、ありがとうございます。
本当に、ここは普通に戦場だったんだと、改めて噛みしめています。

最後に、ツイッターが鍵アカなのですが、興奮のあまり「コレ!!」と引用RTしてしまっていまして…ご不快に思われていましたら申し訳ありません。
Commented by hn-nh3 at 2023-03-13 13:47
>かば◎さん
前に非公開でちょっとだけお見せしたことあったかと思いますが、それから一年がかりになってしまいました。(ほったらかしになっていたのをこの一月ぐらい使ってまとめたので実働3ヶ月かな。1カ所15分で450箇所・延べ120時間)

規則的な配置に気がついたら資料に記載のない場所でも想定されるポイントの周りを探してみると発見できたりするので、リサーチは結構エンドレスです。

重点配置など場所選定の恣意性については、それなりにはあったと思ってます。均等配置になってるエリアとそうでない場所。後者はこちらの誤認である場合も含まれるのですが、河川や崖など地形的に補正して配置しているケースは多いです。田んぼの真ん中も不適ですね。高射砲の弾薬、照空灯など機器が湿気を嫌うので不向きですし見通しが効きすぎる場所は敵機からもすぐ見つかってしまうので少し避けた場所にあったりします。集落のすぐ側にある場所もあれば離れている場所もあったり地主への忖度もなんとなく想像できます。

忖度の際たるものとしては皇族と軍部ですね。市ヶ谷の大本営や各地の駐屯地内にも高射砲陣地はないです。狙われないようにしてるんでしょうね。皇室庭園であった新宿御苑など立地的には陣地を構えるには最適ですが見つかりません。当時は避難民も入れない場所でしたからそういうことなんでしょう。
Commented by hn-nh3 at 2023-03-13 14:07
>はせひろ さん
コメントありがとうございます。自分の身近な場所にあったりするのはドキっとしますよね。私も何も知らずに歩いていたころたまたまGoogleMapに表示された(誰かが登録した)高射砲陣地を見つけてすぐそこにある町内会の看板の土台が高射砲陣地のかけらであることを知ったのが、リサーチを始めたきっかけでした。

ご実家の近くにあったということですが、プライバシーが絡むので話しづらいとこともあるでしょうが、地元の人の話していたことなど、もしよかったらいろいろ教えてください。非公開コメントでもツイッターのDMでもいいです。あ、引用RTは全然OKです。

先の戦争から80年。覚えている人も本当に少なくなってしまいました。当時、小学生だった人でももう90才.. 記憶を残しておくラストチャンスなんですよね。
Commented at 2023-04-08 12:41
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2023-04-08 13:00
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by hn-nh3 at 2023-04-08 22:21
こんにちは。非公開コメントでしたのでどうお返事して良いのかわかりませんでしたが。
駒沢高射砲陣地の台座の発見情報ありがとうございます。駒沢の陣地跡は何度か私も訪れていて、あの家の基礎は何か気になると思ってはいましたが、今一つ確証は持てずにいました。今回の解体で明らかになったというのは驚きです。
残ってたのですね。見に行く時間が作れると良いのですが...建て替えとなると、すぐに解体されてしまいまそうですね。
Commented by 眞井斎壽 at 2023-04-09 05:36
民家の基礎となっている二号砲台の土台、今回現れた四号砲台の土台も個人の家なのであまり場所を特定できないよう非公開コメントにさせて頂きました。先のコメントのリンク先にメッセージを頂けたら、今回撮影した写真、詳細な場所を送ります。
三号、五号砲台の土台があるあたりも民家がありますが今回の例を見るとそのまま埋まっていそうです。
Commented by みやん at 2023-05-17 10:06
初めてコメントさせていただきます。このようなブログがあったとは知りませんでした。
情報と言っては何ですが、かつて私の実家があった場所には高射陣地があって、もしかすると今でも地中にコンクリートの基礎が残っているかもしれません。少なくとも私が住んでいたころ(90年代後半まで)には存在していました。
場所は松戸市常盤平4丁目 現新京成と旧鉄道隊線が分岐するあたりから近い場所です。ピンポイントで場所を指定できますが、一旦はこの程度の情報にしておきます。
もうひとつ松戸飛行場の西側、松戸霊園に近いこぶのように突き出た斜面には1944年の陸軍撮影空中写真で確認できますが高射砲陣地が複数確認できます。今も地形はそのままですが民家になっています。
Commented by hn-nh3 at 2023-05-17 15:13
みやんさん 情報ありがとうございます。
近所の高射砲陣地の跡をたどるうちに関東一円を調べるハメになってます(笑)

松戸飛行場の周りは八柱、鎌ヶ谷、北初富に陣地がある記載ありますが、空中写真を眺めていてもどうも判然としなかったエリアなので、具体的な情報があると助かります。
軍用地周辺は戦後接収されて周辺施設の解体も早かったようで戦後の空中写真を見ても痕跡がほとんど残っていないのです。

高射砲の砲座のコンクリートは厚いものでは1.5mくらいのものもあり解体が困難、住宅の基礎に使ってしまっている事例も散見されます。地中に残っているとことも多いと思われます。
つい先日、世田谷区の駒沢で古い住宅を解体したら高射砲陣地の砲座が出土した事例もありました。後楽園の中央大学の敷地内でも昨年に出土したという情報もあります。

高射砲陣地の跡地のほとんどは現在、私有地になっていることもあり、ブログの掲示板などでオープンに情報をやりとりするのは難しいところもあります。

Twitterのアカウントをお持ちでしたら、そこから私のアカウント https://twitter.com/hnnh_mikan
にDMで情報送っていただいたら、先日防衛省の図書館で入手した関東の高射砲陣配備図の鎌ヶ谷〜八柱エリアを抜き出したもの差し上げます。
Commented at 2023-05-19 10:30
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by hn-nh3 | 2023-03-10 22:00 | 高射砲陣地 | Comments(11)