夏の高射砲(京都編)

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京都は大きな戦災に遭わなかった。当時すでに100万を超える人口を抱える大都市であったにもかかわらず組織的な空襲がなかったのは、京都が原爆投下の候補地になっていたからだ。山に囲まれた盆地の地形は原子爆弾の威力を増す効果があり、投下時の効果を測定しやすくするために米軍は事前の爆撃を控えて都市を温存していた。原爆と同型のパンプキン爆弾が7月20日の大津、29日には舞鶴に投下されるなどテストは直前まで繰り返された。

空襲が行われない理由を日本側は知るべくもなく、機密事項の原爆投下は米軍の爆撃隊員にも周知された話ではなかったのか、大阪など周辺都市の爆撃ついでの散発的な攻撃は行われていて、45年1月の馬町空襲、6月の西陣空襲など、小規模ながらも5回ほどの空襲で合わせて100人近い死者と430軒もの家屋に被害が出ている。45年の3月には市内各所の大通りを拡張して防火帯を設けるための大規模な建物疎開も実施されるなど空襲への警戒は怠らずに防空対策が進められていた。6月に入ると空襲は地方都市へと移り、京都にも大阪方面軍から人員を割いて高射砲隊の増強が行われている。

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1945年の7月の京都市内の高射砲と照空灯の陣地があったと思われる場所を現在の地図にプロットしてみます。当時の遺構が実際に確認できるのは市役所屋上の機関砲陣地の胸壁と東山の花山天文台近くの山中に高射砲陣地の痕跡が残っている程度で、文献資料の記述は少なく他は米軍が撮った空中写真が頼りの捜索になります。

京都駅から西へ3km。西七条の高射砲陣地が国土地理院で公開している戦後の米軍空中写真で発見できます。七条通り沿いの西高瀬川が流れを西に変える場所に高射砲陣地の掩体があった。戦後数年はそのまま残っていたようだ。

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高射砲の砲座は4基で北西の方向に開いた扇状の配置。陣地中央の指揮所と呼ばれる半地下状の施設も写真でわかります。高射砲はおそらく八八式7糎高射砲。当時は主力が8cm、12cmの高射砲に移った時期で、7糎高射砲は二戦級になりつつあった。通常は一列6門で中隊を組むのに対して4基しかないのは戦争末期で兵力が不足していたからだろうか。

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89式7糎高射砲陣地 配置平面図 出典『高射砲陣地築設要領』


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「中部軍高射第三師団関係地・現状等一覧」より抜粋 (出典:西淡路(国次)高射砲陣地調査報告書)

1945年8月の終戦時の記録の7高4門という記述とも合致する。この西七条(御所ノ内北)の他、吉祥院南と伏見、宇治などに高射砲が配備があったことになっている。

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京都付近高射砲隊配置要図 出典:『本土地上防空作戦記録 中部地区』1951 国会図書館

京都の高射砲隊の配備にはよくわからないところがあって、戦後にまとめられた高射砲部隊の資料『本土地上防空作戦記録 中部地区』に付録の地図は先の資料と内容に食い違いがある。大阪や東京エリアの図の正確さに対して京都の部分は地図的な整合性を欠き、陣地名も「石」や「物」、「神」や「森」という謎めいた符丁で記載されています。



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Kyoto South, Japan City Plans 1:12,500 U.S. Army Map Service, 1945-1946

陣地名の謎を解くヒントは終戦時に米軍が作成した地図にあると考えています。アルファベット表記の地名は細かい町名が省かれた大まかな記述ですがそのエリアが当時、どのように呼ばれていたのかを知ることができます。たとえば西七条の南にあったとされる吉祥院村の南のエリアはISHIHARA-CHOと記載されて、これが陣地名の「石」に該当すると考えられます。『本土地上防空作戦記録 中部地区』は米軍に引き渡すためにまとめられた資料が元になっているはずなので、米軍の地図にも載っている地名を略号で表したのだと推測する。

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米国公文書館蔵 米軍空中写真 no.3pr-21bc-5m139-3V080b より


これまで「石」こと吉祥院南の高射砲陣地は調べても場所がよく分からなかった。現在、国土地理院のホームページで公開されている戦後の米軍の空中写真では既に痕跡も失われて判然とせず、違う場所だと推定した文献もあった。

国土地理院では1944-45年の戦時中に米軍がF-13偵察機から撮影した空中を入手して「米国公文書館蔵 空中写真」として有料で公開している。これを取り寄せてみたら吉祥院南の高射砲陣地と思われるものが発見できた。

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田畑の中にぽつんと3基、もしくは4基の高射砲掩体と覆われる影が写っている。直径は約15mで配置間隔は30mくらいであろうか。西七条の陣地と比べると小規模ではあるが指揮所と思われる掩体も判読できる。

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この場所は今では金属加工の工場と建売り住宅が並んでいる。現在の市立吉祥院図書館の裏手に高射砲陣地があった。

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高射砲陣地の現在。撮影は2023年8月13日。陣地の北側から3番目の砲座があった方向を見ている。今は何の特徴もない平坦な郊外。

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3番目の砲座から西側へ1番目の砲台の方向を見る。黄色くプロットした円が砲座掩体があったと推定する場所だが78年前の風景は全く想像できない。米軍の偵察写真は半年前に入手して確認していたのだが、この場所が高射砲陣地であったことにしばらく確証を持てずにいた。6基一列で構成されるのが標準的な陣地であるのに対して3基しかなく、立地も本来なら小川の横の高台が適地なのだが、ここは足場の悪い田んぼの真ん中、しかも砲座と思われるものが道を塞ぐように配置されている。

もしかすると農業用の施設、あるいは写っている丸い影はそれこそ施設でも何でもなくてフィルムについた機械的な傷ではないのか?そんなことも考えた。

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しかし戦後の1946年(昭和21年)に撮られた写真には同じ形はなく、円形の構造物は戦時中の一時的なものと考えてよさそうだ。写真を重ねて観察してみると、同じ位置に何かがあった痕跡が戦後の写真でも読み取れる。おそらく高射砲の台座で締め固めた土は田んぼに戻しても稲の生育に影響して砲座の直径そのままに稲の高さに違いが現れた。いわゆるクロップマークと推測される。フィルムの傷だとしたらこの現象は起こり得ない。

田んぼの畦道に高射砲の砲座が据えられた経緯はなんとなく想像がつく。陣地を急造するにあたり、既に踏み固められた畦道は高射砲を据えるのに好都合だったのだろう。農耕地の真ん中であれば道を塞いだとしても交通の影響はない場所でもあるし、火薬類や光学機器は湿気を嫌うから湿潤な農耕地を避けてなるべく乾燥した場所に置きたい。


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構造物のサイズを確かめるために西七条の陣地と吉祥院南を比べてみます。地図を下敷きにして写真のスケールを揃えています。先に使った西七条の陣地写真は解像度の高い戦後撮影のものですが、この比較では吉祥院南と同じ45年4月の偵察写真を使い解像度も揃えました。

砲座掩体のサイズと同じで直径は約15m。詳細に観察すると内側の円は直径7.2mの高射砲台座の寸法と概ね一致する。外側の円は直径12mの土を盛った掩体だろう。黒い縁取りは土盛りの影には見えない規則性があるので、おそらくは土盛りを作るために掘削してできた溝に水が溜まったものと想像する。掩体の直径と配置間隔はどちらも同じで、吉祥院南の施設も高射砲陣地と判断していいだろう。高射砲陣地は標準の仕様書では高射砲を設置する砲座と弾薬庫をコンクリートで作ることになっているが、ここではおそらくコンクリートは使わずに木材を井桁に組んだ簡易な砲床を使用したのではないか。終戦後すぐに田畑に戻せた理由がそこにあると考える。

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西七条の高射砲陣地があった場所は、この近くで育ち戦前の様子を知る父の話だと、一帯は田んぼや畑ばかりで南の方では用水路でセリを栽培する農家もあったという。戦後に都市化が始まり、現在はここにホームセンターが進出して当時の面影はどこにもない。住宅やアパートが建て込んで空も狭くなった。それでもホームセンターの屋上駐車場に登ると屋根は視界から消えて8月の空が広がる。78年前の戦争に負けた日に見上げた空の青さはまだどこかに残っているかもしれない。

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次回は俯瞰的に市内の各陣地を見ていくことにする。(続く)

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Commented by かば◎ at 2023-08-19 00:27
「京都は多くの貴重な文化財があり、それを守るためにアメリカはあえて京都を爆撃しなかった」という説は、今でもそれなりに広まったままだと思うんですが、どうやらこれの話の出所はGHQらしいですね。「戦争のなかでそこまで配慮することができた国」を演出するのに都合がよかったんだろうなあ。

それはそれとして、山に囲まれた京都で、その山の上でなく、街の中に対空砲陣地があるんですね。山の上に作ると、街の防衛用として距離が離れすぎてしまうのかしらん。
Commented by hn-nh3 at 2023-08-19 06:23
配置についてまさに次の記事で書こうとしてたのですが、山の上でなく街中に陣地がある、というのは重要な指摘です。
レーダー射撃、VT近接信管など高射砲の能力が高ければ、京都を取り囲む山。それこそ五山の送り火ではないですが東と北、西の山上に陣地を設けて迎撃するのが理想的な配置だと思います。結局、そこまでの防空能力がなく複数の陣地と連携して弾幕を張ることで防衛線を引くことが重要だったのだと思います。
そこでネックになるのが照空灯です。レーダー射撃が実用段間に達していない以上、夜間爆撃には照空灯の照射が頼りで照空灯の配置間隔は3~5km以内。ここから高射砲陣地の配置に制限がでます。
東山の陣地と連携すべく置かれた西七条、吉祥院南の陣地が置かれた場所は低湿な場所で地形的には適地ではないもののちょうど街が途切れるエリアで市街地の外周になることから配置されたのだと考えられます。

「文化財が古都を守った」ことも日米それぞれに都合のいいナラティブとして流通していますが、実際は京都には大規模な軍需工場がなかったから爆撃の優先対象にはなっていなかっただけでしょうね。最近、防衛庁の図書館で地方都市の防空地図を閲覧してきたのですが、中島飛行機の工場のあった宇都宮は戦争末期にハリネズミのように高射砲、照空灯を配置していたようでちょっと驚きました。それに比べると京都の防空体制は明かに脆弱です。
Commented by マットレス人気 at 2023-09-28 15:55
参考になります
by hn-nh3 | 2023-08-15 15:37 | 高射砲陣地 | Comments(3)