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断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )
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開園当初の披露山公園(昭和34年頃)逗子市HP"逗子フォト"より

かば◎さんのブログ、”かばぶ’の最近の記事と連動して披露山公園の高角砲台跡についての検証続編。
今回は遺構としての「小坪高角砲台」の話ではなく、その砲座跡を利用して作られた披露山公園の施設について。

1958年(昭和33年)6月に開園の披露山公園は戦争中に作られた高角砲台の遺構を利用して公園の施設整備をしたというだけでもユニークなのだが、デザインは戦後モダンの良質のエッセンスが結実したものだと思う。開園から60年を経て今なお使われているということだけでも貴重だけど、時代遅れのうらぶれた気配もなく、むしろSF的というか今なお新鮮さを失っていない。

いったい誰がデザインしたのか、開園にはどんな経緯があったのかを知りたいところであったが、ネット検索ではさっぱり情報が出てこないので、半ば諦めていたところだ。
最近のかばぶの記事に触発されて、何か開園当時の資料は見つからないだろうか、ひょっとすると開園前の砲台跡地の状況も詳しく書かれてたりしないだろうかと、リサーチ再開。

そして、国会図書館のデータベース検索があったのを思い出した。国会図書館というと国内の全ての出版物が納められる巨大なアーカイブ。自費出版など非流通本を除く全ての書籍が保存されているのだが、国会図書館の収蔵資料のデータベース検索はネットでも可能で、本のタイトルだけでなく目次の単語ぐらいまでは検索できる。

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そして見つけました。"都市公園=Public Parks(14)" 1958年の公園雑誌に披露山公園が開園したときに書かれた記事。
これを見れば積年の謎がすべて解けるかと心が騒ぎ、午後の予定を急遽「外出..」にして国会図書館に行ってきました。地下鉄の永田町駅で降りて徒歩8分。国会議事堂の横。来るのは二回目。

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図書館内での本探しや閲覧、複写手続きを利用するには「会員登録」する必要があって、登録するにはまずは新館に行く必要あり。名前と住所、メールアドレス記入して運転免許など身分証明書を見せれば10分程度で登録カードの発行。それを持って、ロッカーに不要な荷物は預けて図書室に入ります。巨大な吹き抜け、しかし館内は撮影禁止。撮ったらダメなのは著作権が絡む本だけだろとタカをくくってロビーの写真を撮ったら、警備員に怒られました。なのでブログでの内部写真の掲載は無し。

館内にずらりとならぶ検索PCに陣取って目的の本を探す。本を指定すると書庫から本が出てきて館内で読むことができます。今回目的とした本は電子化が完了していて、PC画面でも閲覧可能でした。複写のページを指定して印刷ボタンを押すと複写部に送られます。窓口に行って登録カードを渡すと、送ったデーターを印刷して持ってきてくれます。便利な時代になりました。まだ20世紀の頃、前に来た時は本を探すのに木製の引き出しに入った目録カードをひたすらめくって気が遠くなった思い出があるけど。

一部を引用します。
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都市公園=Public Parks No.14 表紙:国立国会図書館にて

こんな感じでスキャンされた本のページ画像をA4にプリントしてくれました。それを再スキャンしたものなのでちょっと不鮮明ですが雰囲気はわかるでしょうか。記事の公共性も鑑みて引用紹介。

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都市公園=Public Parks No.14 口絵:披露山公園の完成予想模型

本を開くと見返しにこんな写真が掲載されてました。完成予想イメージ。とてもモダンです。
プロジェクトに関わった人が判明。
計画 立案・造園/岡 強 氏、建築設計/萩原克彦 氏、施工/萩原建設株式会社  

披露山公園に関する記事の目次:
P13 逗子市長 山田俊介氏による挨拶文、P14〜19 岡 強 氏による公園構想の解説、P20~24 萩原克彦 氏による建築の説明、仕上、建設費など。

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都市公園=Public Parks No.14 p16抜粋

雑誌の発行は1958年8月。公園開園はその年の6月だから、記事もその頃には入稿済みのものだろう。当事者による証言と開園当初の状況がわかる写真など貴重な一次資料である。公園整備以前にもアプローチの道は常に手入れがされて桜並木も植えられていたなど、荒廃していた訳ではなかったらしいことなど当時の状況を語る記述は興味深い。しかし、総論的な報告が多く、期待していた公園施設の詳細な図面などの掲載はなかった。残存していた砲座遺構の写真や調査記録など公園整備前の遺構の状況にも触れられていない。

戦後10年ほどの頃である、戦争遺構などは披露山に限らず未だ各地に残存してさほど珍しいものではなかったのだろう。用途こそ特殊ではあるが、当時としては作られてから20年も経っていない構造物である。あえて貴重な紙面を割いて記録、説明するようなものでもなかったのだろう。

考えてみれば当然か。たとえば、今の時代(2019)に空きビルになっているバブルの頃に建てられた豪奢な建物をリノベーションして海外からの観光客用の簡易ホテルにする計画があったとして、改装前のバブル建築の特徴を延々と説明するだろうか。

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都市公園=Public Parks No.14 p20-21

それはそれとして、記事を読み込んでいくと、現在も使われている公園施設について目視観察だけではわからなかったことも判明した。いくつか気になる記述を引用します。

「展望台とレストハウスの中間の砲座には最初陳列場を設ける予定であったが予算の都合から取止めて、そのまま残土で埋めて花壇を設けた。将来必要であれば堀土して利用することができる」p17

「他の砲座は金網をかぶせて猿檻とした。これは木造による簡易工作物である」p17

つまり、花壇は当初から構想されたものではなく、ショーケースの類をつくる構想が予算不足で、ひとまず花壇になったこと。後々、別の計画で利用できるように砲座遺構はそのままに土をいれて花壇としたこと。猿舎は現在のような鉄製の檻ではなく木造の簡易なものであったようだ。

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現在の披露山公園(2017年撮影)砲座利用の花壇と展望台と猿舎

現在の花壇はただ砲座に土をいれただけという程、簡易なものではなく砲座の内側にぐるりと池を回した構造である。砲座の内側に築造された池の堰堤は当然にコンクリートであるから、「そのまま残土で埋めて花壇を設けた」というほどアバウトなものではない。埋めただけというのはプロデューサーがざっくりとした方針を語ったまでで、実際には実務レベルで細やかな設計がされた、と考えることもできるが、花壇の池は後の改修でつくられた可能性がある。

レストハウスは指揮所跡のコンクリート地下構造物を基礎がわりに木造で平屋のものを作ったとあり、屋根は当初はフラットルーフであったようだ。(現在は三角屋根)展望台は鉄筋コンクリート構造で公園予算の大半をつぎ込んだとのこと。仕上材も記載されていて、木製サッシ、ガラスは5mmとある。

現在の展望台は1階、2階ともに外気に解放されたベランダ状の空間であり、2階の外周は手すりと支柱のみ。材質がアルミなのは後の時代の改修で取り替えたものであろう。

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逗子市のホームページの写真アーカイブ”逗子フォト”に開園当初の展望台の写真が掲載されている。
写真の展望台2階の右端(赤い矢印の部分)にサッシの支柱とは違う細い線がうっすらと見える。やはり開園当初、2階はガラスをはめた展望台であったようだ。60〜70年代のドライブインや風光明媚なホテルでは最上階に円形のガラス張りの展望室がある建物がたくさん作られているが、その走りであったのだろうか。

記事の引用に戻る。
「計画者として気になるのは、レストハウスと展望台が準恒久建築であるのに対して猿島と藤棚が非耐久建築であることであるが、予算上から….(略)』p18

レストハウスや展望台に比べて、猿舎は写真も掲載されてなく雑誌記事での扱いはぞんざいである。猿の檻に至っては仕上の記載もない。人間とサルでは扱いが違う、という訳でもないだろうが。
設計者のコメントにて、猿の檻は藤棚と同じような簡易なものであることが示唆されている。予算不足でやむをえない選択だったのだろうか。それがためにあまり語られていないのかもしれないが、現在のものとは違う木造の簡易なものであったことが伺いしれる。

上に引用掲載した雑誌のカバーページに計画時の公園模型の写真を観察してみよう。園内の地面はコンクリート製の鋪石ブロックを敷き詰める予定であったが、それも取り止めとなったそうだ。一番手前の砲座は陳列場を取り止めて花壇になったということで模型は最終案なのだろうが、確かに花壇を縁取る池が計画されているようには見えない。やはり池は後で付け加えられたものなのだろう。

模型の左側、一番奥の砲座の部分を見ると、猿山らしき盛り上がりは作られているものの、そこにすっぽりとかぶせる檻の姿は見えない。設計者が「猿島」と言っているのも気になるところ。動物園のサル山展示でよくあるようなオープンなものとして計画されたのか。あっても網付きのフェンス程度のものだったのか。何せ開園時の「猿島」の写真が掲載されていないで詳細は不明。ちなみに猿島の工事費は当時の金額で19万8700円。藤棚(18m×15m)はというと6万8400円だから推して知るべし。

では現在のような砲座をすっぽりと覆う大きな鉄檻はいつ作られたのか。

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同じく、”逗子フォト”には開園当初の披露山公園として鉄製の猿檻の周りに集う市民の写真がある。

雑誌の記事の記述によると、
「第二期工事により近い将来小禽、小獣舎(林間火薬庫跡)パーゴラ(展望台左右)その他がある。」p18

開園当初は平屋のレストハウス、池のない花壇、ガラス張りの展望台、木製の簡易な構造物だけの「猿島」だけであって、園内に現存する動物小屋などは第2期工事で作られたことが伺い知れる。動物小屋を観察すると、鉄製のフレームは接合部に三角の補強プレートを配した構造で、往時の写真で確認できる鉄製の猿檻のディテールとよく似ている。

鉄製の猿檻は、第2期工事で鉄製のものに変えられたものなのだろう。
冒頭の園内風景の写真では花壇には既にに池があり、奥の猿の檻も鉄製のものが写っている。撮影時期の昭和34年という記述が正しければ、開園後すぐに第2期工事に着手した、ということになるのか。この辺りの事実関係はもう少し精査が必要かもしれない。

往時の猿檻の写真を見ていて気付いたのは、檻の基部にまわされたたコンクリートのサークルは現在のものより低いように見える。現在のものは(周囲の地面の状態で高さは変化するが)鉄網にそって30cm前後のコンクリート立ち上がりがぐるりと回る。それに対して往時の写真では縁石程度のもののようにも見える。ひょっとして現在の檻は一度作り変えた「三代目」の檻なのか?

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現在の猿の檻の屋根架構:撮影 かば◎さん

現在の檻のフレームを注意して見ると、屋根の同心円状のフレームはつなぎ材が曲線ではく、直線部材をつないだ擬似円であることがわかる。それに対して往時の写真のつなぎ材は曲線材のように見え、しかも現在のものより細い。

ここからは想像なのだが、「2代目」の鉄檻は老朽化もしくは強度不足で後の時代に建て替えられることになった。しかし猿を飼育展示しながら檻を建て替えるためには、猿の逃亡を防ぐために2代目の檻はそのままに一回り外側に三代目の鉄檻をかぶせるように建設、それから内側の二代目の檻を解体した。などなどそんな推理をしてみた。

この仮説には少し根拠があって、現在の檻の基部縁取りは砲座のすり鉢状コンクリートの内側から30cm以上離れている。砲座を利用して檻を建てるなら、砲座のコンクリートの縁の上に建てるか、構造上そこに載せられないなら、そのすぐ外側に沿わしてコンクリート基礎をつくればいいように思う、しかし現状は中途ハンパな余白があり、コンクリートで埋められてはいるものの猿がそこに座って網の外に手を伸ばせてしまうためか、檻には細かな鉄網を追加してある。

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縁の微妙な余白はかつてそこに二代目の檻があった痕跡なのでは、と勝手に想像してみた。
実際はどうだうだったのか当時を知る職員関係者か、地元の古老に聞いてみたいところだ。

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公園開発前の砲座跡(逗子フォトより)

砲台遺構についての話は少ない。
市長の挨拶文の中に、海軍用地だった国有地を関係省庁と交渉して使用貸借(無償貸与)をとりつけたこと、岡氏が立案した整備方針として、遺構は強固であるため壊さず利用することで工事費の節減にもつなげること、そして設計者は以下のように触れている。

「元海軍高射砲陣地跡で円形の鉄筋コンクリートベース(直径十二・五米、深さ一・六米)三基と煉瓦及び鉄筋コンクリート造半地下式監視所跡1箇所があった」P20

短くはあるが具体的な記述で興味深い。他の記事などでは砲座の直径は12mと説明されることが多いが、設計者は12.5mと述べている。この12.5mという言及をしているのが施設設計者であるだけに言い間違えということはないはずだ。一般論としてざっくり説明するのに約12mと表した言葉がどこかで一人歩きして直径12mという定説になった可能性がある。
しかし50cmというのは無視できない誤差ではある。おそらくは設計者である萩原氏はコンクリートの縁の外径が約12.5mであることを説明したのだろうし、直径12mという表現は、砲台としての機能寸法、つまりはコンクリートの縁の内法が約12mで出来ていることを言っているのかもしれない。

砲座のすり鉢の深さが1.6mというのも貴重な記述だ。現在、具体的に測るにはサルになって檻の中に入れてもらうしかなく、展望台のすり鉢は縁の上部から45cmの深さまで埋められてしまっている。(開園当初はもう少し深くまで残されていたように写真から伺える)

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これまで筆者が作図した図面は砲座外形12m、深さは猿の檻を定規に見立てた目測で1.8mと推定していた。これらは少し修正をかけたほうがよさそうだ。砲座の図面修正とともに、猿の檻の柱の立ち方や檻の中の小檻の形状を把握しやすい写真をかば◎さんにいただいたのでそれも含めて図面のアップグレードをしてみたいと思う。
前回の記事では写真の読み取りの間違いを指摘されて、すぐにでも修正しようと考えていたのだけど、この図面修正の作業の後にあらためて訂正をかけることにします。

猿の檻のガレージキット....と冗談めかしたコメントをいただいてましたが、ふふ。二年前、披露山の砲台についての最初の記事を書いた時、冗談でこういうものを作っていたんですよ。猿の檻の1/72スケールキット。もちろん外箱だけ。

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# by hn-nh3 | 2019-06-26 19:02 | 構造物 | Comments(1)
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披露山公園建設中の風景 1957年12月頃(逗子フォト 逗子市HP より)

逗子市のホームページに「逗子フォト」というコーナーがある。市の広報用に収集した逗子の昔の写真をオープンソースで公開していて、逗子市民でなくても見ていて楽しい。
逐次更新されているようで、また新しい写真がアップされていた。上の写真は"建設中の披露山公園(昭和32年)"から。

逗子市きっての高級住宅街のある高台の一角にある市民公園の建設中の風景。とタイトルだけ見ればその公園で遊んだ記憶もなければ、はいそうですか、で終わってしまう写真なのだが、よく見ると写ってるものがヘンなのだ。それは作りかけの公園遊具ではなく、戦時中に作られた高角砲の砲座なのだ。

横須賀軍港の防衛のため、逗子海岸に面した山の上築かれた高角砲砲台は、戦後に無用となって普通はこの類のものは取り壊されるのだけど逗子市の場合は、なんと公園の施設に転用されたのだ。3基あった砲座は花壇、展望台、猿舎となって現在も使われている。冒頭の写真は展望台となる砲座から猿舎を見たところか。
 ※建設中の写真は花壇になる砲座から指揮所跡につくられたゲストハウス方向を見たものではないかとの指摘あり。以下関連記述は後日修正します。

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写真は2017年に訪れたときのもの。日付を見たら6月23日。ちょうど2年前。
砲座の上に作られた展望台(右)と猿舎(左奥)。花壇は写真を写している場所の背後。

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猿舎は円形の砲座を囲むようにオリが建てられ、内部にはすり鉢状の構造物がほぼそのまま残っている。
この様子については、以前に記事をいくつか書いた。


この砲台のことを教えていただいた かば◎さんもレポートを書いている。

かば◎さんの記事の中で逗子フォトに戦後間もないころの砲座の写真が掲載されていることを知り、猿舎の小檻の奥に隠れてよくわからなかった待避所と思われる場所の形状がわかってきた。先日のレポートではその部分の現状を実地に検分した写真をアップしている。

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披露山公園高角砲台跡(逗子フォト 逗子市HP より)

戦後間もない頃の写真を見て分かることは、高角砲を据え付ける部分は艦載用に開発された高角砲のターンテーブルを納めるためか丸くくぼんだ形状になっている。階段脇の向かって左の壁龕は他の弾薬保管用の穴とは違ってアーチ型の開講形状。これは現在はコンクリートで塞がれているもののその痕跡が見て取れることをかば◎さんが確認している。その左隣には円形の砲座のすり鉢からはみ出すように待避所のニッチが作られている。奥に待避壕でもあるのか、壁に開口。床も砲座プラットフォームから一段低くなっているようだ。この場所は現在は小さな檻がつけられていて、中の様子は人間には見えないようになっている。

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以前に描いた砲台の推定復元図をアップデートしてみました。前ははっきりわからなかった。アーチ型の壁龕と待避所の部分を修正した。階段も9段ではなく8段に修正。
待避所の張り出しは扇型で作図したものの、スクエアな形状のほうが作りやすかったのではという気もします。
しかし、かば◎さんレポートを見ると、外周は円弧になっているらしい痕跡が確認できる。

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砲座の上に作られた猿の檻。中心部の池は砲座の円形の窪みの部分を利用していて、池の縁取りと丸い穴の隙間は砂か何かで埋められてる模様。

冒頭の公園建設中の写真を見ると、展望台の砲座にもアーチ型壁龕が写っているの、3つの砲座はほぼ共通の要素を備えていたことは想像できる。ただしアーチ型壁龕の配置は猿舎のものと少し異なっていて階段の隣にあるわけではないようだ。おそらくは3基の砲座の配置の関係で個別に位置を設定したものではないか。

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ゼンリンの住宅地図を下敷きに猿舎と展望台の砲座を配置してみる。展望台砲座のアーチ型壁龕の位置は写真から推定。ひょっとすると角度的にはもうひとつ隣かもしれない。同じく展望台砲座の待避所の位置は想像。
そこと想定したのは、展望台足元にある不思議なステージというかベンチが展望台を作る時に階段と待避所を埋めるために計画されたのではないかとの推理。

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全体配置。南から猿舎(黒)、展望台(赤)、花壇(緑)の砲座。戦後米軍が撮影した空中写真(1946/08/15_USA-R227-A-3-81)から階段の方向はほぼ一定と推定。周囲に存在した土塁の影から待避所の位置がなんとなく想定できる。砲座間の距離は地図から35mと割り出した。

例のアーチ型壁龕や待避所の配置を見ると、それらが地下壕で繋がれていたのではないかと想像もできるが、それを裏付けるような資料や物証は確認できていない。
配置図の北側の黄色い四角は指揮所があった場所。南側斜面の小屋らしきものは何の施設だろうか。

配備されていたのは、八九式十二糎七高角砲(2連装 127mm 40口径)が2門。
豆知識ではあるが、海軍では高角砲、陸軍では高射砲、と呼び表していたので、このブログの記事もそれに倣っている。

# by hn-nh3 | 2019-06-23 08:31 | 構造物 | Comments(5)

クルップ

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浅草橋の駅で降りたのはいつ以来だろう。とにかく久しぶり。
駅舎の屋根を支える鉄骨のアーチが綺麗。使われているのはH型鋼のような一般建築用鋼材ではなく、古いレールを転用したもの。鉄が貴重だった時代に資材の有効活用で作られたのか。

きれいな架構です。レールを曲げて、リベットでつなぎ合わせて、束ねた柱が開いていく部分など鉄板を切り抜いた補強材のリブが花の雌しべのような形になっている。
ぐるりと回る山手線の中を横断する総武線〜中央線の各駅はターミナル機能のないローカルな駅であるためか、駅舎の架構も古レールを使ったものが多く残っています。水道橋駅のもきれい。

駅舎の古レールを調べている人は多く、このブログによくコメントいただくかば◎さんもかばぶで古レールのカテゴリーを設けていくつも記事を書かれている。

古レールについての詳細はかば◎さんの記事を読んだほうがわかりやすいのでここでは省きますが、駅舎の古レールには戦前に外国から輸入されたものも多く使われてます。レールの側面にメーカーの刻印が残ってたりするので、注意して見てるとペンキの層に埋まってるのがわかったりします。

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浅草橋駅のホームの古レール柱。見るとメーカーの刻印が読み取れます。「KRUPP」。
ドイツのクルップ社が製造したレールですね。

クルップというと、ドイツの古くからの重工業企業で、レールだけでなく大砲やら戦車なんかも作ってたメーカーですね。このブログを読むような人にはいまさら説明するまでもないだろうけどドイツのタイガー戦車(ティーガー1、ティーガー2)の砲塔を設計したのもクルップ社でしたね。
ティーガー2には砲塔の形状に2タイプあって、ポルシェ砲塔、ヘンシェル砲塔と前はよく言ってたけど、実はどちらもクルップ社の設計だったんですよね。最近は2つの砲塔タイプをなんと呼び分けてるのかしら。

駅舎の古レールの刻印でそんなことに思いを馳せるのも楽しい時間。
もう何年前とは言わないけど、20代の後半だったかその頃に一度、どこかの駅舎でクルップの文字を見つけたことがあったんですよね。その時も同じようなことを考えたりしたんだけど、それがどこの駅にあったかずっと思い出せなかった。
それが浅草橋で、その頃の記憶に再び出会うとは思いもよらなかった。

。。あの頃は将来への希望でいっぱいだったとか、時間だけはいくらでもあったとかそんな野暮なことを言うつもりはないけど、財布の中にいつもお金がなかったことだけはよく覚えてる。

# by hn-nh3 | 2019-06-22 05:52 | 日々 | Comments(6)

千歳船橋高射砲陣地跡

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自転車で街を走るのが気持ちのいい季節もそろそろ終わり。東京の鉄道は郊外に向けて放射状に整備されているので都心部に出るのは便利でいいのだけど、横断的に繋ぐ路線は少ない。そんな時に便利なのが自転車。途中いろいろ寄り道できるし。

この間、自転車を走らせていたら前方をショベルカーが道を塞いでいてちょっとびっくり。駐車場でトレーラーから下ろして近くの解体現場に向かうところのようだけど、キャタピラの金属音を響かせて進む姿に、戦車ってこんな感じかと思ったり。

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今回の目的地は千歳(船橋)高射砲陣地跡。航空写真は例によって国土地理院の空中写真サービスから。USA-M449-62/1947年9月8日米軍撮影。

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都下、城西地区にも戦時中、高射砲陣地が構築されていたことがわかっているが、遺構として当時の構造物が残っている場所は少ない。確認されている事例としては、先日紹介した青戸(白鳥)の砲座跡の他には、皇居の北の丸公園内の機銃座、調布(大沢)の保育園園内に残る砲座、前にここでも記事を書いた下仙川の町内会の看板の土台に転用された台座の一部。

ほとんど戦後の開発で失われているので、行ったところで何があるでもないのだけど、街のどこかに痕跡が残ってたりはしないかと、「跡地」となる場所を自転車での移動の時に寄り道するのが何となくライフワークと化しつつあるこの頃。

まずは事前のリサーチとしてどこに高射砲陣地があったのかを探すのだけど、東京西側の台地に作られる高射砲陣地は、場所の選定に少し法則があって「近くに小川のある台地の縁」というもの。これを頼りに戦後米軍が撮影した空中写真上を「飛行」していくとそこそこ見つかります。

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千歳(船橋)高射砲陣地のロケーションはこんな地形。地図は"今昔マップon the web"から並列の画面で地図と時代毎の航空写真、地形などが表示できるので便利です。これに砲台などの配置を加筆してみました。

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ゼンリンの住宅地図に重ねて見る。目黒川の支流となる烏山川(今は暗渠)に刻まれた南側に開けた台地の縁に陣地が鋼地区されてます。西側方向からの爆撃に備えたものか、扇型に高射砲の砲座が6基。1947年の写真ではそのうち4基は台座周囲の円形土塁が残存。2基は土塁が失われて台座まわりの3つの弾薬庫が露出。そのほかに機銃座なのか測距儀を据えたのかと想像できる円形の半地下構造が確認できます。

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1944年に陸軍が撮影した写真:95C3-C6-96 にも陣地の様子が比較的鮮明に写ってます。写真は国土地理院から。
これを見ると、6基の台座はすべて土塁が築かれ、隣接するように待避所なのか予備弾薬庫なのかは不明ではあるものの長方形の土盛り構造物があたことがわかります。扇の要にあたる部分に指揮所と思われるものも確認できます。台地を降った低地部分(現在は都立千歳丘高校のグラウンド)に兵舎などの建物があった模様。

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6月の初旬。荒玉水道道路を自転車で走らせていて、そういえばこの辺りだったかと寄り道。台地の縁の斜面。見通しのきく地形だったのだろう。

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フェンスの向こうは高校のグラウンド。当時の様子を伝えるものは全く無し。

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2番の台座があった辺り。何てことのない住宅街。近年に道路が拡幅されたのか電柱が路上に取り残されてます。

実は訪れた時には台座の詳細配置を検証する前で、だいたいこの辺りかぐらいで写真撮ったので少々的を外している。写真の右、赤い車が停まっているあたりに台座があったと思われます。ちなみに台座番号は例によって説明の都合で筆者が便宜的に割り振っただけなので誤解のなく。

思った通り、当時の痕跡は何もなかったよ、という報告で終わるのかと思いきや。後日、Googleのストリートビューの「タイムマシン機能」を使ってみたら、痕跡を発見。

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2番台座のあった場所の2009年の姿。ストリートビューの左上のインデックスに時計のアイコンついてる場所はクリックすると過去のストリートビューを見ることができます。

丸いコンクリートの変な駐車場。庭と仕切るフェンスも丸く。同心円状に分節されたコンクリートの中央は8角形になっていて中心部に円を描くようにボルト穴が12本(※本数は後記の別記事による)。これはどう見ても確実に高射砲の台座。

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Google Earthを使うと、近過去の空中写真を見ることができます。2007年の写真を見ると円形の台座が残る様子がはっきりと確認できます。近年までそのまま残ってたんですね。丸い形の駐車場として利用されていたというのはちょっと面白い
時代を替えて2012年になるとその場所は3軒の建売住宅に建て替わるので、 2010~11年頃に解体撤去されたのか。

調べてみると、このページ:Web東京荏原都市物語資料館(2015/12/17) に解体前の写真が掲載されています。土地の所有者の方が写した写真、とのこと。前ページには解体時の写真も。

その記事によれば、千歳船橋の陣地に配備されていたのは八八式7.5糎砲。部隊は陸軍高射砲第112連隊、第一大隊の第ニ中隊とのこと。第一中隊は久我山(15糎砲配備)、第ニ中隊が千歳、第三中隊は下仙川に配属。
千歳の部隊はB29を撃墜したという記録がある。昭和20年5月24。機体は赤堤付近に落下したらしい。

# by hn-nh3 | 2019-06-18 12:36 | 構造物 | Comments(0)
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FIAT500制作記 連載二回目。前回から少し時間が空いてしまいましたが、ゆるゆると進行中。
Bronco Model から出ているVANタイプのFIAT 500 トポリーノ。

ここで簡単にFIAT 500のことをおさらいしておくと、初代のFIAT 500はイタリアのFIAT社から1936年に発売された2人乗りの小型自動車。エンジンサイズは569cc。「トポリーノ」の愛称はハツカネズミの子ネズミの意味。
人気となり1955年の生産終了まで60万台が生産。映画「ローマの休日」でグレゴリーペックが乗ってましたね。
ちなみに、チンクエチェントと呼ばれてルパン三世の愛車で知られる車は、トポリーノの後にモデルチェンジされて生産されたシリーズ。

初代のFIAT 500、トポリーノのシリーズには生産時期の違いによりA/B/Cのタイプの違いがあります。AとBは外見に違いがなくエンジンが13HPから16.5HPに増強。1948年から生産された戦後型がB。
1949年から生産されたCタイプはフェンダーが少し角ばった形にモデルチェンジ。

A/B/Cの違いは、このサイト:CLUB TOPOLINO FIATがわかりやすい。

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図版出展:Техника и вооружение Fiat-500/500A

”Furgontino”:VANタイプは1938年から発売され、A/B/Cと車体のモデルチェンジにあわせて継続的に生産。
A型の生産当初は箱型車体の後部が斜めにせり上がった形をしていて、戦後のB型から後部が垂直に近い角度に変更、とされているものの、前回の記事で紹介した写真の車両のように戦時中のA型ベースの車両でもすでにB型のような箱型のワゴンが生産されていたと思われます。その第4降下猟兵師団で救急車として使われるFIAT500の写真のソースも(原典かはわからないか)その本からのものと思われます。

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さてさて、前振りが長くなってしまいましたが、本題です。キットはBroncoのよさがフルに発揮された繊細かつ高精度のパーツで気持ちよく組みあがります。インテリアもほどよく再現されていてダッシュボードのところにある燃料タンクもしっかり表現されてます。ストレートに組んでも全く問題ない出来ですが、省略されてるディテールもあるので少しだけ追加工作。シートの足元の一調整用レールと固定レバーをプラストラクトの薄プラ棒と真鍮線で表現。レバーの先端の球はエポキシパテで成形。

運転席の床板は実車ではリブのついたプレス鉄板の上にゴムシートを敷いたものが正しい状態ですが、キットの再現の仕方はそのあたりが曖昧。

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ブレーキペダルやクラッチペダルはタミヤのシムカ5のキットにように省略されることなく、別パーツできちんと再現されてます。しかしなぜかアクセルペダルが省略されているので、プラ板を加工して追加。サイドブレーキもなかったので、作りました。小さくてわかりにくいけどブレーキレバーの先端のロック解除ボタンも再現してあります。Broncoのキットはこれに限らずインテリアの再現志向は高いのですが、あれっと思う部分が省略されていることがよくあります。

ハンドルはフレームが4本タイプのものが用意されてみましたが、あれこれと資料を見ると3本タイプが一般的なので1本だけ残して切り離して、位置を変えて2本付け直して3本フレームに作り直しました。写真に撮ってみると....もうちょっと細部の手直しが必要ね。

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車体後部もあれやこれやと追加工作。①運転席と二台の間を仕切るパイプを追加。荷台のボディ内側の補強フレームはあらかじめパーツ化されてます。そのせいか、ボディ外側にヒケが少しできているので、要修正。
②はこのキットで最大の要修正ポイント。キットがもともとどうなっていたかというのはPMMSのレビューでパーツの荷台後部を見てもらうとわかるのだか、後部扉との変な段差が生じている。段差自体は間違いではないのだけど、その段差の理由はそこに予備タイヤの収納ボックスがあるから。

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裏から見るとこんな半円形の予備タイヤ用の箱がついてます。車体裏側がよくわかる資料は少ないのですが、あれこれと探してレストア中の車体写真を見つけたりして、ほぼほぼこんな形であることを確認。乗用車型ではボディの後部に予備タイヤを積んものをVANタイプでは後部にドアをつける関係で、こんな配置になったと思われます。

再び荷台上面の追加工作に戻って、その③。荷台には側面と同様の保護レール(木製)が取り付けられてるのが一般的。正確には横方向に補強用のリブをプレスした鉄板の上に保護レールがリブと直交する形になるのだけど、それは省略。④バッテリーボックスの点検用と思われる長方形の蓋を追加。⑤荷台前端にはガードの板が立ち上がってるのでそれも追加。

そして謎なのが⑥のスペアホーイール取り付けアーム。
FIAT 500 トポリーノは人気車なので、現存車が多数。バンタイプもそこそこ残っているようで" FIAT 500 Furgoncino "などどネット検索するとレストア車などの写真をあちこちで見つけることができます。それらの現存車で内部写真があるものを見ると、必ずといっていいほどシートの後ろにスペアタイヤを積んでいます。

ん、では②の予備タイヤ用スペースは? というとそれもちゃんとあって、ただし荷物置場として使われてることが多いようです。この荷台下スペース+シート背後の予備タイヤのパターンは現存車にほぼ共通のパターンに見えるので、個別にカスタマイズしたものではなさそう。ただし1938年の生産開始当初からそうした仕様だったのか、収納量アップのニーズを受けて、途中から組み入れられた仕様なのかは詳しい資料がなく不明。

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ここでひとつ考証の罠があることに気がつく。FIAT 500 トポリーノは現在でも人気の高い車で、まだまだ現役で使われてたりネット売買もさかんで、検索すると大量の実車写真が収集できます。しかしそれらはどれも生産終了後半世紀を経たレストア車であって、どこまでがオリジナルな状態なのかが判別しにくいというのが実際。

いくつもの車両の写真を突き合わせて当初からのものと思われる共通仕様を探す訳ですが、さらに悩ましいのが、戦前のA型と戦後生産のB型の問題。表示がない限りは外見からの識別は困難なので、現存車の断片的な写真では戦前からの仕様なのか戦後仕様なのかが判断不能。

だから、1944年のトポリーノの細部ディテールというものを再現しようとしても、それこそ当時のドンピシャの資料が見つからない限り、結局は謎。

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タイヤはホイールキャップにFIATの文字が刻印されてます。伸ばしランナーを使ってバルブを追加工作したのはお約束。

# by hn-nh3 | 2019-06-15 12:50 | FIAT | Comments(6)

デカール大作戦

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6/13 追記あり

デカール到着。製作中の1/72 コードロン・シムーン サン・テグジュペリ搭乗機用にオリジナルデカールを作成しました。記録写真から文字の書体やサイズなどを調べてイラストレーターを使ってフォントを改造して入稿用原稿を作ります。

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原稿はこんな感じ。文字データーはすべてアウトライン化。これをデカール制作サービスのところに送って、白インクで刷ってもらいます。

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データー送って中1日で製品到着。こんな感じで仕上がってます。手前においてある黒いフィルムは製版用のフィルム。オフセット印刷同様、こうしたフィルムを作る必要があるみたいです。

ちなみにこれはデカールといっても模型制作でよく使う水貼りデカールではなく、文字や図柄を圧着するドライデカール。インクで刷られた文字の裏に糊がひいてあって裏打ちシートの上から擦ると転写されるしくみ。昔はインスタントレタリング、通称インレタともよく言いました。水貼りデカールのように余白がでないのは利点ですが、接着面を文字裏だけに頼ることになるので、あまり細かい文字や線だと接着強度の確保が難しくなります。それと水貼りデカールに比べて糊の寿命が短いようなので、使わないまま長期保存するのは難しいかも。


今回かかった費用は...
70×110サイズ 基本色(白)2100円
製版用ネガフィルム作成   1900円
送料・代引手数料      1000円
消費税            400円

合計:5400円(消費税込)

決して安くはないです。窓口引取りは今はやってないとか、カード決済未対応とか、そのあたりで余計なコストがかかってしまってる感あり。製版用フィルム作成費というのも悩ましい。次回も同じものを作る場合はこの製版フィルムを持ち込めば、そのまま作ってもらえて割安になるのですが、そうそう増刷なんかしないしね。。


今回の制作ではもうひとつ実験をしてみました。

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いつもお世話になってる hiranuma さんとのコラボ企画。氏がJミリで連載している超絶ディテールのケッテンクラート用のデカール制作に協力しました。
1/35でもとても小さな車両のこれまた小さな文字の再現実験。 ドライデカールで再現できる線の細さの推奨値をはるかに下回る微細な文字が果たして再現できるか....

ダメ元でやってみようと、必要な文字テキストと1/35でのサイズの情報とトレースの下敷きになる資料写真を送ってもらって、イラストレーターで文字を配置。似たようなフォントを探したり、文字間隔やレイアウトを写真を見ながら調整したりと、見た目よりは以外と地味な作業を要求されます。大きな文字だと、実物のロゴとイラストレーターに入れてあるフォントの形が一致することはほとんどないので、近似のフォントをベースに文字を改造したりの作業も必要になるのですが、今回は、文字が小さくて微妙な文字の形の違いは判読できないこともあるので、その作業は省略。
ただし、ついでに作ったバイクのZündapp(ツェンダップ)のロゴは「 ü 」のウムラウトが一般的な表記では文字の上に2つの点がつくのに対して、メーカーロゴでは U の内側に点が配置されてるデザインになっていたので、そこだけ文字改造。

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hiranumaさんから、別の制作サービスに発注してみたものが到着、といただいた写真が上の2枚。

発注先は インレタ.com
費用は以下、とのこと
【インスタントレタリング代】
黒刷:濃色カラー (100 x 148 mm)    3240円×1枚=3240円
白刷:自作箔押しシール (100 x 148 mm) 4320円×1枚=4320円
【その他費用】
ゆうパケット(到着:出荷後2〜3日) 350円×1=350円
完全データ入稿により初期費用無料

合計:7910円(消費税込)

黒と白の2枚のシートでこの値段ならお買い得。製版フィルムを使わない印刷方法のようで、デジタル製版なのかインクジェット印刷なのか、そこまでは伺ってないので不明ですが、コストを抑えられるのは嬉しいですね。

黒で刷ったバージョンは再現力も実用レベルに達してるとのこと、しかし白は文字が滲んだりとんでしまったりして、ちょっと...ということのよう。黒とは製法が少し違うのでしょうか。

そんな報告を受けていたので、ちょっと比較実験しようと、今回制作のコードロン シムーン用データーの片隅(右上)にツェンダップのロゴとケッテンクラートの文字データーを並べて”Too”に発注をかけて仕上がってきたのがこれ。

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(写真をクリックすれば1600px まで拡大)

さすがに右2つの注意書きの文字は判読不能だけど、左側のツェンダップのロゴとケッテンクラートの積載表示は文字も判読可能、インクの滲みも特になし。これならいけるか。

<6/13追記>
仕上がったデカールをhiranumaさんにお渡しして、黒刷り(インレタ.com)のものと比較した写真を撮っていたたいた。
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細部がどうなっているか..これ以上のディテールは超マクロ撮影ができるカメラがないと判別できる領域ではないので、普通に鑑賞する限りはどちらもこれで十分な仕上がり。

hiranumaさんが制作したケッテンクラートはダークイエローの塗装だから、文字は黒バージョンがあればよくて、グレー塗装の車体に使う白バージョンは必要なの?と聞けば、hiranumaさんからのお返事は「ケッテンクラートならキットがあと4つある」

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コードロン シムーン制作の近況報告。超スローペースではあるけど進んでます。主翼のパーツを胴体に接着して、実機にはない翼の接合部の溝をちまちまと埋めたりやすりがけをしたり。
溝埋めはいつももの瞬間接着剤パテ。シアノンにベビーパウダーを混ぜたものを使ってます。ラッカーパテと違って塗装してもヒケがでないので安心。

垂直尾翼に貼ってある文字は前にテストでケーブルドラムのロゴの片隅にデーター配置して試作したもの。文字が小さいので、ドライデカールの印刷解像度や糊の接着強度に不安があったけど、やすりがけの最中にベタベタと手で触っても全然大丈夫。剥がれたりはしてないですね。あとはシンナーなどの薬品への耐性のチェックが必要かな。

# by hn-nh3 | 2019-06-10 21:10 | 資料 | Comments(6)
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ノルマンディー上陸作戦計画図(1944年6月6日):Wikipediaより

6月6日はのノルマンディーの日。1944年の6月6日に連合軍のノルマンディ上陸作戦が開始された日とかで、その75周年の記念式典に赤ネクタイの某国大統領が出席とのテレビのニュース。
いずれにしても「ノルマンディ上陸」なんて遠い昔の遠い国の出来事。

地図を切り取って見ると、イギリスとフランスの間にあるのは広い海ではなく、細長い海峡なんだなとあらためて思う。大陸と島国というより対岸。
距離だけでいえば地図の右上、ベルギー国境に近いダンケルクやパ・ド・カレーに上陸するのがよさそうに思うけど、地形的に潮の流れもきつそうだし、上陸したあと、そのまま東に向いてドイツ国境を目指すのか敵に背中をさらしてパリを目指すのか迷いそう。と、なると、半島の付け根の波も穏やかそうなノルマンディ地方が上陸の適地、のように地図からは見えます。そのまま進めばパリだし。

こういう半島地形は上陸作戦には向いてるのかな。米軍が沖縄に上陸(1945年4月1日)した読谷村(よみたんそん)も確かそんな地形。前に沖縄に遊びに行った時、かみさんまかせで決めたホテルがその辺りで窓から海を眺めながらここはどんな場所なのか調べて、そこでかつてそんなことがあったと知った。目の前の静かな青い海も数十年前に時間を戻すと..オリーグドラブ色の兵士を載せた上陸用舟艇で埋め尽くされて、陸は艦砲射撃で穴だらけになって..と想像するだけで眩暈がした。もちろんリアルは想像をはるかに超えてるのだろうけど。


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東京も梅雨入り。先週の木曜日の夕暮れ時、錦糸町での打ち合わせの帰りに秋葉原のラジオ会館に立ち寄り(寄り道)。イエローサブマリンの新製品コーナーでこんなものを見つけました。

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Hauler からリリースされた1/35スケールの傘のガレージキット(HLU35112)がちょうど入荷していたのに遭遇。

傘は以前にも一度作ろうとしたことがあって、その時はノルマンディ戦を題材にしたジオラマの小道具として傘を使おうと、プラ板のヒートプレスで自作するのか悩んだりするうちに時間がなくなり、結局は閉じた状態の傘を使った。その顛末を前に記事にも書いたのが:「雨のノルマンディ」

そんな記憶もあったし、入荷したその日がたまたま6月6日だったりもしたことあって、これは何かの縁かなと思い購入。消費税込みで1944円なり。

... あれ? 1944って。1944年にかけてるのかしら。そんな訳はないとは思うけど。そんなところで時間と場所が交錯するのはスケールモデルのもうひとつの楽しみ。

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キットの中身はプラ板のバキュームフォームで整形された傘のシェードと、真鍮エッチングの傘骨と簡単な組み立て説明書。傘の持ち手は0.5mmの針金を曲げて自作しろ、と原寸図入りで書いてあります。
欲をいえばレジン製の傘の柄を入れて欲しかったかな。鉄パイプを曲げただけの傘の柄なんて味気ないし。

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ディテールにこだわるなら、細かい傘骨を追加工作したりする必要はあるのだろうけど、基本形のパーツが安定した形で作れるのは結構ありがたいかも。幾何学的な形態の自作って難しいところあるから。

このキットがあれば、あのシーン(ノルマンディに展開する第654重駆逐戦車大隊のヤークトパンターの搭乗員が傘を差す写真)が再現できそう。もちろんそのためにはヤークトパンターのキットが必要だし、雨はどうやって降らせればいいのだろう?

# by hn-nh3 | 2019-06-08 06:35 | 資料 | Comments(8)
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前回前々回に続き、青戸高射砲陣地 のリサーチの続編。

葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要に現存遺構についての話が掲載されていると、"葛飾音頭"さんよりお知らせいただき、現地リサーチの帰りに博物館に行ってきました。

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葛飾区郷土と天文の博物館 博物館研究紀要 第5号 1988.3発行。館内のライブラリーでも閲覧とコピーはできますが、受付で販売もしていたので購入。1260円なり。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

調査記録は地元の人へのヒアリングや部隊編成の記録収集など、それこそインターネットが普及する以前の「足を使った研究作業」で頭が下がります。

青砥(白鳥)の陣地に配属されていたのは高射第1師団、高射砲第115連隊第2大隊の第9、11、12中隊。中隊はそれぞれ指揮小隊と2つの小隊で構成され1小隊には3基の高射砲。3+3で中隊には6基、それが3列で合計18台の九九式8cm高射砲が配備されていたようだ。このうち第12中隊は、米軍の爆撃対象が地方都市に移行、また米軍の上陸に備えて水戸に転属との記述。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

米軍撮影の戦後の空中写真から砲台位置を特定、その他兵舎などの撮影時(1947)年頃にはすでに撤去されて写真では確認できない建物の位置も聞き取り調査などで明らかにしている。陸軍が1944年に空中写真を撮影したものが現在では国土地理院の情報サービスで閲覧可能だが、この調査当時(1988年)はまだその資料が入手できなかったのか、砲台列の中心部にあったと推定される高射算定具の設置場所についての言及はないものの、配備の記録のある「た」号電波探知機の設置エリアをヒアリングにより陣地北東部ではないかと推定している。陸軍の空中写真には円形に整地された場所が陣地北東部にあることが確認できるので、そこがレーダーサイトであったと特定して間違いはないだろう。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

現在、公道からも確認できる3つの台座遺構を紹介。前回の記事で取り上げた(当ブログ地図のNo.15の台座)遺構についても、12本の直径8cmの鉄パイプが地上部に露出する経緯などが記録されている。台座上部30cmほどコンクリートは削り取ったところで撤去作業を打ち切ったとのことで、現在も地中に台座下部が残存していると思われる。

このヒアリングの中で、台座周囲にコンクリート構造物(厚さ十数センチ、縦横1m四方)がそれぞれ3箇所あって、戦後は子供のかくれんぼの遊び場になっていたこと、コンクリートは鉄筋の代わりに竹が使われていて簡単に壊せたことなど、貴重な証言が採録されている。これが弾薬庫であって、3箇所で30発の弾薬が保管されていた、ということを著者は類似の事例(狭山の山口高射砲陣地の元隊員の証言記録)から推測していて、これらの弾薬庫を囲んで台座周囲に掩体として土嚢を積み上げていたと記している。

掩体が造成の土盛りではなく土嚢の積み上げであったという記述が、白鳥の住人へのヒアリングから得られたものなのか、件の山口高射砲陣地の証言から類推したものなのかは、記述の言葉が足りず、判然としない。

以上が紀要から得られた情報。

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(高射砲陣地築設要領 :1943年 参謀本部)

これは別資料からの引用ですが、戦時中の標準的な高射砲陣地の構造規定。半地下式の円形のプラットフォームの周囲3箇所にコンクリート製の弾薬庫。弾薬庫を覆い隠すようにプラットフォーム周囲を土盛り(掩体)して、1箇所出入りの通路を確保。これは7cm高射砲用の図面ではあるが、他の口径の高射砲でも基本構造は一緒。掩体の作り方は周辺地形との関係でバリエーションがあるようだ。

青砥(白鳥)の陣地では、砲台のプラットフォームは半地下式ではなく地表より30cmほど高いレベルに台座が据えられている。一帯が川沿いの低地であったため田畑に土をいれて地表より30cmほど高いレベルで造成したのだろうか。

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台座周囲の掩体(土盛り)が実際にはどうだったのか、というのがいまひとつ解らない。
戦後の写真を見ると、北側の列は台座周囲に土盛りの掩体があったような痕跡。不鮮明ではあるが戦時中の44年に撮影された写真での掩体らしき土盛りのサークルの影が確認可能。

しかし、中央の列と南側の列は戦後写真では掩体はなく、円形プラットフォーム周囲3箇所の弾薬庫が露出。戦後二年の間に土盛りが撤去されたという可能性も大ではあるが、戦時中の写真を見ると、中列の砲台は影の形から見て、その当時から掩体が存在しなかったようにも見える。たとえば、土嚢を積んだ簡単なものだったのか... 土盛りを築く前に水戸に中隊が転属になりその必要がなくなったのか... どれも想像の域を出るものではないにしろ、何か理由はありそう。

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周辺の高射砲陣地。葛飾区の青砥(白鳥)陣地の南側には江戸川区 小岩篠崎、北側には足立区 保木間に高射砲陣地があり、それぞれ12cm高射砲が6門が配備されていたとのこと。青砥のものよりも陣容が大きく重要拠点であったことが伺われる。青砥はこの2つの中間を埋める補完的な陣地だったのだろうか。いずれにしても東京の西側各地に作られた高射砲陣地より格段に規模が大きいのは、米軍の首都上陸や爆撃ルートを房総半島側からと想定してのことか。

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昨年から国土地理院の空中写真閲覧サービルで戦後の東京を「飛行」して高射砲陣地の位置を特定する作業を密かに進めてたりするのですが、似たような人はいるらしくGoogleの地図に高射砲陣地の位置がいつの間にか多数登録されているのに気がつきました。

未登録の場所もまだあるし、検索ワードによるのか、ここに保木間の陣地が表示から落ちてたりと不完全ではあるものの、こうやって全体像が見えるとまた別の話ができそう。

# by hn-nh3 | 2019-06-02 12:35 | 構造物 | Comments(3)
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前回からのつづき。青戸高射砲陣地の2019年近況の後編。
隣家が建て替えで解体されて、これまで把握しづらかった全貌がわかるようになったのでざっくりと実測してきました。

d0360340_06363822.jpg円形台座の半径は2250mm。直径にすると4500mm。これは近隣の駐車場に残る台座とも寸法が一致。コンクリートの厚みは右側のアパート敷地の地面から20cmほどの高さが露出、左側の建て替え敷地側は基礎工事の都合で掘り下げてあるのか30~40cm程度が見えていて、まだ地中に続いている。

中央部のコンクリート円盤は外形900mm、中心に頂部外形240mmの円錐台形の突起。高さは5cm程度(実測忘れ..)で鉄管で補強された8cmぐらいの穴が開いている。
このコンクリート円盤は周辺とは少し材質が違うようだ。高射砲との連結で中心部は施工精度が必要とされたために工場で制作したプレキャスト部材ではないだろうか。これを現地に据えた後に周囲にコンクリートを流して固定したと想像。

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現地では前日に降った雨で周囲が濡れているだけかと思っていたのですが、こうやって写真を見ると円盤周囲のコンクリートは粒子が荒く少し柔らかそうな印象。ひょっとするとコンクリートでもないのかもしれない。機会があれば材質の違いを再確認してみたいところ。

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駐車場の台座にはこの中央部の円盤部材は残っていない。あればこんな感じかというのを黄色で写真に加筆してみた。周囲とは別部材で充填材が硬くなかったため撤去が容易だったのではと想像できます。現在はアスファルトが充填されている。
これらの実測、観察を整理したものが下の図。
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周囲の3箇所の弾薬庫など点線部分は推定です。弾薬庫はコンクリートで作られていたものの、鉄筋の替わりに竹が代用されていたとの話もあって簡単に壊せたようです。台座直径が4.5mは実測。弾薬庫の配置が直径8m程度の円に外接するのは戦後米軍が撮影した航空写真地図から推定。設置されていた99式8cm砲は、図面が見つからなかったので、元になったクルップ8.8cmSK C/30のもので代用。違いは照準器ぐらいとのこと(wiki)

直径4.5mの円形台座には内接1.9mの8角形の開口縁取りがあり、その中央部に直径90cmの円盤状部材をはめ込み、周囲を充填固定する構造。その充填部分、図でいうグレーに塗った8角形のエリアには12本の固定用ボルトが埋め込まれているはずだが、今回のリサーチでは未確認。

今回、隣家建て替えの情報をいただいた葛飾音頭さんから、最新のストリートビューに建物解体時の状況が写ってるとの追加情報。ストリートビューからのキャプチャー画面を貼っておきます。

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円形の台座が完全な形で残っていたのがわかります。その上に前に建っていた木造家屋の基礎工事で損傷した痕跡も見えないので、それこそ台座をそのまま基礎に利用していたのではないかと推測します。解体時の状況が見れたら面白かったかも。
例の中央の8角形の充填部のエリアがわずかに凹んでいるが見てわかります。

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今回リサーチの台座は図のA列3番の台座。駐車場に残っているのは6番の台座。このA~C列、No.1~18までの番号は私が便宜的につけているもので、公式に振られた番号ではないので間違いのようにお願いします。
このほかには2番の台座の半分が建物基礎に転用保存されているのがわかっていて、C列15番の台座の下部が地中に埋まっているとのこと。

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15番の台座が埋まっている駐車場の現在。地上面に痕跡はなく、葛飾音頭さんからの情報によれと解体時に12本のボルトが露出、それが地表に露出していた、とのこと。
はたと思いついて、ストリートビューの時間さかのぼり機能がリサーチに使えるかも、と試してみました。

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ストリートビューの左上に表示される撮影インデックスに時計のマークがついてる箇所は、過去のストリートビュー画像を見ることができます。この場所は2010年の撮影まで遡れました。

見つけました! ありましたよ、ボルトが。駐車する車のタイヤを痛めないようにかゴムシートを被せてますが、ボルト用の鉄管の頂部が地表面に並んでいるのが写ってました。2013年ストリートビュー画像ぐらいまで残っているのが確認できます。何だかタイムマシンみたい。

# by hn-nh3 | 2019-05-26 08:08 | 構造物 | Comments(8)
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荒川を渡る。京成押上線、四つ木付近。荒川土手と並走する首都高速中央環状線の高架は好きな風景。ちなみにPerfumeのマカロニのPVの後半が撮影されたのはこの辺り。今回は聖地巡礼の旅ではないので素通りしてその先のお花茶屋駅で下車。

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駅から歩いて10分。白鳥3丁目にあった青戸高射砲陣地の跡に残るコンクリートの台座。陣地は半円形の布陣で6門×3列。計18基あったものの一つがこの駐車場に残る台座。この他に2基が住宅街の中に現存しているのが確認できてます。

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これについて去年、リサーチして記事にしているので詳しくはそちらを参照。>青戸(白鳥)高射砲陣地

一年ぶりの再訪となったのは、その記事を読んでコメントいただいた”葛飾音頭’さんからの報告。最近、3番目の台座にかぶっていた家屋(緑で着色した部分)が建て替えで解体されたらしく、家の下から台座がでてきたのが確認できた、とのこと。

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家が壊されて下から完全な形で台座が出てきて「中心部分には円錐台状の凸部が残っている」ことが確認できた、とのこと。
そして既に新しい建物の工事が始まってしまっている、ということも。

その情報を聞いて、何とか今週の水曜日(5月22日)に時間を作って行ってみました。話を聞いてから1週間も経ってしまっていたので、おそらくは工事をするのに邪魔だからその台座は解体撤去されてしまって行っても何もない状態なのが想像できたけど、なくなってしまったことを記録に撮っておくのも大事かな、と。

案の定、住宅か何かの建物の工事の真っ最中。北側のアパート側から恐る恐る覗いてみたら、アパート側にかかってる部分の台座は以前のまま。

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円形の台座の上にはアパートの給水タンク。その向こう側には前は古い木造2階建の家屋が建っていたのがなくなって明るくなってます。台座の向こう半分は撤去されてしまったのかしらと見れば、何やら新しいコンクリートに食い込んでいるような気配。

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何ということか。。新しい建物の基礎が台座の上に築かれてましたよ。ちょうど工事の職人さんいたので、前の家の下から出てきた台座どうなったのかを聞いたら、壊すに壊せないからそのままにして上にコンクリートを流して、新しい建物の基礎はその上に作っている、とのこと。

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台座の位置を推測するとこんな形だろうか。敷地の境界上、直径4.5mの円の中心あたりになにやら丸い突起物。
それが葛飾音頭さんの言っていた「円錐台状の凸部」なのか。

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これまでは敷地境界のブロックの下に隠されていた、台座中央部の構造物。周りから5cmほど盛り上がった円錐台の中央部には鉄環で補強された穴。

75年前は、高射砲がここに据えられていたのか。(つづく)

# by hn-nh3 | 2019-05-24 22:07 | 構造物 | Comments(4)