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断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

京都。8月。七条風景

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毎年この季節は京都に里帰り。

実家の古ぼけた天井を見ると、この家に住んでいた祖母が「戦時中は焼夷弾の火の粉が屋根裏に入らないように、天井板を外してたんだよ」と言っていたのを思い出す。外した天井板を軒下に置いておいたら雨に打たれたもんだからこんなに汚くなってしまったということもよく聞かされた。縁側の下には防空壕が掘ってあったらしい。


京都は原爆の投下目標の候補になっていたため、空襲被害に遭わなかったいうのはよく聞く話ではあるが、全くなかった訳ではなく、馬町空襲、西陣空襲など5回ほど小規模な空襲で100人近い死者は出ていた模様。京都市内の防空体制がどのようなものだったのかは知らないのだが、戦後米軍が撮影した空中写真を見ていて、市中に高射砲陣地らしきものが写っているのを発見。自転車を走らせてその跡地に行ってみた。



場所は、京都駅の西側、七条通りを3キロほど行ったあたり。赤い丸で1の番号をつけたところ。地名でいうと御所ノ内西。

京都にも高射砲台は記録ではいくつかあったようだがその場所ははっきりせず、2の番号をつけた花山天文台の南山麓に砲台があったことがわかっているぐらい。ちなみに「0」をつけた場所が原爆投下予定地であった梅小路の機関車庫(現:京都鉄道博物館


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国土地理院:no.USA-R275-A-7-161

1の場所を戦後米軍が撮影した空中写真。撮影日は昭和21年10月2日。画面中央を横切るのが七条通。七条佐井を西に進んで西高瀬川を超えた辺りの畑地の中に周囲に土塁を持つ円形陣地らしきものがいくつも並ぶのが見える。

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高射砲の砲座と思われる地形を黄色でプロットしてみた。4基の方座が北東方向に向けた扇型のラインに並んでいる。扇の要の部分の点線の丸で囲ったところは指揮所の一部か。

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中部軍高射第三師団関係地・現状等一覧より抜粋
(出典:西淡路(国次)高射砲陣地調査報告書)

京都に配備されていた高射砲部隊がわかる資料を見ると、独立高射砲第13大隊第1中隊の一小隊が御所之内北に八八式七糎野戦高射砲4門の装備で配置されていた記載があり、この場所の現在の住所は御所ノ内西ではあるが、砲座の数から見てこれと考えて間違いはなさそうだ。

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標準的な陣地の構築パターンを示した図。原典は「高射砲陣地築設要領」
御所内北の陣地に配備された高射砲は4門と数は少ないが、概ねこんな構造だったと想像できる。

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現在の地図(Google Map)に重ねて見る。敷地はケイヨーデイツーというホームセンターになっていて、ちょうど陣地があったあたりに大型の建物が建てられているのがわかる。

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ケイヨーデイツー七条店に到着。かつて、この場所に高射砲陣地があったのか。8月14日、台風が近づいてることもあり雲だけが不穏な気配。地上は至って平常。

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屋上から眺める。ホームセンターの園芸売り場と駐車場。当時の痕跡は結局見つけられなかった。向かい側の巨大な建物はパチンコ屋。どこにでもある郊外の風景。

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側面に回り込んで見るも、当時につながる手がかりはどこにもなかった。ホームセンターで父に頼まれていた買い物をして帰る。この場所は実家から歩いても15分くらいで行けるところなので、終戦時に小学生であった父に、この場所に何かがあったか聞いてみたところ、そのあたりは畑が広がってる場所だったということしか覚えてないそうだ。当時、小学校の低学年であるし、日常の行動範囲の外側だったら、そこに何があるかなんて知らないのが普通だ。ましてや軍事施設である。

空襲が頻繁にあれば、そこに高射砲があるということが子供にもわかってくるのだろうが、京都にはほとんど空襲がなく、配備された高射砲も結局、一度も使われすに終わったのだろう。結局、原爆の投下目標から京都が外され、疎開先で骨折して家に帰ってきていた父は、幸いにも戦火にあわずに終戦を迎える。それから74年。

# by hn-nh3 | 2019-08-17 01:31 | 構造物 | Comments(6)

Berlin,Tokyo

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ラジオから聞こえる玉音放送の一節はテレビドラマや映画の中で何度も繰り返し流されて、誰もが知ってる終戦時の風景として共有されているが、どこか遠くで起きた出来事を受け入れた話のようにも見える。

首都が陥落、全土を武力制圧されるなどの敗北を喫したドイツの場合と違って、地上戦に巻き込まれることなく戦争が終結したことが、戦争の記憶というものに決定的な違いをもたらしているのか。

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米軍による空襲で全国津々浦々が焼け野原になり、広島や長崎で起きた悲劇は語りようもない戦禍であるには違いないが、ベルリンがソ連軍に侵攻されたときの凄まじい「崩壊」のことを知ると、そこに至る前に終わっていてよかったと思うしかない。沖縄の地上戦と同じことが全国いたるところで起きた可能性もあったのだから。

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しかし地上戦の記憶を共有していないから、沖縄の悲劇はベルリンと同じくらい、いつもどこか遠い。
..北京 ベルリン ダブリン リベリア 束になって 輪になって

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1945年5月、ベルリン市街に侵攻するソ連軍の行動を示した地図を現代のベルリンの空間(Google Map)に重ねて、そこで起きていただろう状況をリアルなスケールで想像してみる。

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試みに、同じものを同じ縮尺の東京の地図の上にも重ねてみた。

歴史に「もし」はないけど、1946年3月に計画されていた米軍の本土上陸、首都侵攻は千葉の九十九里と神奈川の湘南の2方面から上陸して挟撃する作戦だったらしいから、東京は概ねこのような状況で兵士やで市民が地上戦に巻き込まれていたのかもしれない。

その時、そこがどんな世界になるのか想像したくもないけど、起こらなかった過去として記憶しておく。

# by hn-nh3 | 2019-08-12 13:11 | 日々 | Comments(11)
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遅々として進まず。第4降下猟兵師団のFIAT500の制作も、前回の記事から1月以上が間が空いてしまって、自分の記憶も飛んでます。ただ、こうやってブログを書いててよかったことは、「そういえばあの時は何考えてたかな」と記憶を辿れることですね。

このFIAT 500 トポリーノはイタリアに駐留する第4降下猟兵師団の衛生部隊に徴発されて、外装は全体にホワイトのオーバーペイントした上にレッドクロスを描いた救急車仕様。元々は民生車として生産されたものだから、オリジナルな塗装はグレイやダークイエローのようなミリタリーカラーではなく、赤や青といったカラフルな色彩。

救急車への「改装」の際に塗り残された車内やドアのエッジにはオリジナルのボデイカラーが残ってる、という状態を再現してみようと思います。

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オリジナルのボディカラーはグリーンにしてみました。外装の白。レッドクロスの赤。そして内装の緑。そうです。トリコローレ。イタリアの国旗の色ですね。ドアを開けた状態で再現した時にちょっとかわいいかなと。

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グリーン一色ではなく、フェンダーはブラックのツートンにしてみました。フェンダーが黒いツートンの仕上げは、ワインレッドと黒やキャラメルカラーと黒など、当時流行ったパターンです。グリーンバージョンのカラーリンはもっと深いモスグリーンのほうが似合うんだけど、今回はイタリア国旗の色に寄せてみました。

ツートンにしたのには別の理由もあります。

車体の底板を何色で塗るのか.... 実車ではシャーシは黒だけど、車体はモノコッックボディの一体で塗装する関係で底板は基本的にボディカラー。模型のシャーシと底板を外して別々に塗装できるようにしておけば、そうした塗り分けも簡単だったのだけど、がっちり接着してしまっていたのでシャーシと底板はやむなく同じ黒で塗りつぶしました。

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パーチの上下をあわせるとこんな組み合わせになります。そして、つじつま合わせにフェンダーが黒いツートーンの塗りわけにしたらいいかもと思いつく。フェンダーの裏と表を黒く塗り分けるためにマスキングしたりするのは、なんだかんだめんどくさかったけど。

フェンダーの裏側は下から覗いた時に見えるから塗り分けも必要といえば必要だけど、外側は白く塗りつぶしてしまうんだから、わざわざ塗り分ける必要もないですよね。
そのくらいは自分でも分かってますよ。そこは気分。気分。


# by hn-nh3 | 2019-08-07 19:53 | FIAT | Comments(4)

戦災焼失区域表示

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東京戦災区域地図。先の戦争で空襲を受けて東京の燃えた範囲を赤く塗り分けた地図が作られている。

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こんな本がある。「戦災表示区域表示 コンサイス 東京都35区 区分地図帖」昭和21年刊 その復刻版である。

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1985年に復刻されたものを、確か新宿の紀伊国屋書店で見つけて買い求めた。それもたぶん15年くらい前の話。

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ページをめくると東京空襲のリスト。昭和17年4月のドーリットル空襲は航空母艦からの奇襲攻撃であったが、本格化するのはサイパン陥落後の昭和19年の11月から。20年3月10日には下町大空襲。死者行方不明者10万、焼失家屋26万8千戸。

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20年5月29日の空襲を最後に、目標は焼け野原となった東京から地方都市に移る。前の記事で触れた米軍艦載機のガンカメラ映像はその時期のもの。 都内各地の高射砲陣地に配属されていた部隊が空襲の無くなった東京から地方都市へと転属するのもこの時期である。8月8日に東京空襲が復活して8月15日の青梅空襲まで続くのは、広島と長崎への原爆投下と絡めた最後通告的な意味合いがあったのだろうか。

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空襲で燃えたエリアが地図上で赤く塗られている。皇居の周囲も丸の内界隈や千鳥ヶ淵のイギリス大使館を残して赤塗り。東京駅も燃えている。

現在この地図はWeb上でも見ることができる。>古地図で見る東京大空襲
以下の地図はそこからのキャプチャ。

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東京の主要部はほぼ全域が空襲にあっているが、地図を詳しく見ていくと燃えなかったエリア(地図の白く塗り残された範囲)もそれなりに残っていることに気がつく。

たとえば上野の界隈。上野の博物館や東京大学を爆撃対象から外していたのだろう。そのおかげで谷中、根津、本郷の一帯が戦禍を逃れている。いわゆる谷根千エリアに古い街並みが残り散歩の名所になっているのは、それが理由。本郷から菊坂を下ったところの路地の奥に樋口一葉旧宅跡の井戸が残っていたり。

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御茶ノ水から神保町にかけてのエリアも焼失を免れている。古書街で有名なエリアだが、紙といういちばん燃えやすいものがある本の街が燃えずに残ったというのも面白い。貴重な文献資料が集積する街を米軍が爆撃対象から外したという説もあるが、その真偽はどうなのだろう。

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10年以上前に撮った写真であるが、神保町界隈には戦前に建てられた味わいのある建物がたくさん残っていた。靖国通り沿い、ビアホール"ランチョン"の向かい、地図のちょうど白く塗り残されたエリアになる。

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九段下ビル 1927年竣工 2012年解体

東京の街を散歩していて古い建物に出会うのは、地図上の白い場所。その昔、賑わっていた街でも地図で赤く塗られた場所は空襲で燃えてしまっているので、出かけていっても街には何も残っていない。そう、長い間この本は昔の風景が残る街を探すためのバイブルだったんですよ。

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小石川の高射砲陣地跡:1947/08/08(昭22) no.USA-M698-99 国土地理院空中写真アーカイブより

本棚にそんな本もあったなと思い出したのは、毎年8月という季節的な話題もあるけど、都下に多数あった高射砲陣地と空襲被害を免れたエリアに関連はあるのかと調べていて気になったから。それで久しぶりにこの地図を見返してみたのだけど、高射砲で街が守られたというようなことは全く読み取れなかった。

# by hn-nh3 | 2019-08-02 23:31 | 資料 | Comments(2)
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(7/30追記)
「Chwat」号の製作をぼちぼち進めていきます。この車両についてはこのブログでもたびたび取り上げてきましたが、ここで簡単におさらいしておきます。

1944年8月1日。敗走するドイツ軍に対して、ポーランドのレジスタンス(AK:国内軍)が蜂起を起こす。
8月2日。ワルシャワの中心部、ナポレオン広場にて蜂起部隊がドイツ軍の新型駆逐戦車、ヘッツァーを火炎瓶攻撃にて鹵獲。しかし車内の焼損がひどく、車両はそのまま街路を塞ぐバリケードとして利用される。8月5日にバリケードから回収されて中央郵便局の蜂起部隊拠点に運ばれて修理。
可動状態まで復旧した車両は鹵獲した小隊の名前をとって「Chwat」(ポーランド語読みでフファット)と命名、車両の両サイドと前面にマーキングが施される。
8月14日、戦闘に参加するために移動させようとしたものの、いくつかのバリケードを通過させるために壊すことが許可されなかったため、車両は中央郵便局に留め置かれる。9月4日のドイツ軍の爆撃にて建物が崩壊した瓦礫の下敷きになり、蜂起部隊の降伏後もそのままに。
戦後に掘り出されて修復、ポーランド陸軍博物館に展示される。1950年頃に当局の指示により車両は廃棄処分。「Chwat」のものとされる転輪のみ現存。

とまあ、要約するとこんな感じ。TANK ENCYCROPEDIA にも「Chwat」の項があるので、それを見るのがわかりやすい。

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この鹵獲されたヘッツァー第743戦車猟兵大隊に配備されていた車両で。チェコのBMM工場で1944年5月〜7月に生産された初期型の特徴が確認できる。車両の生産番号もNr.321078と判明しているようです。番号から推測すると6月生産車。

1/35のキットでヘッツァー初期型を探すと、ドラゴン(no.6030)とアカデミー(no.13278)からリリースされていて、どちらも「Chwat」号のマーキングがデカールで用意されている。
しかしドラゴンのキットは2002年頃のものであり、ディテールの再現度は現在の目からすると少々難あり。アカデミーのものは車体の長さが違ってたり転輪の立体感がいまひとつだったりと、後発のキットであるにも関わらずアドバンテージに乏しい。近年、ドラゴンからリリースされたヘッツァー車台の自走砲で足回りのパーツがリニューアルされていて、なかなか雰囲気はよいのでそれを利用するという手もあったが、もうちょっと手軽に作れるキットをと思い、今回はタミヤのヘッツァー(no.35285)を調達。

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タミヤのヘッツァーは1944年8〜9月頃の中期型の仕様のため、初期型を再現しようとなると防盾や砲身を交換する必要があり、DEFモデルのアフターパーツを利用するのが近道。
と、ここまでが前の記事で予告した製作のポイント。

しかし、調べてみると5~7月生産車にはこの他にも違いがあることに気がつく。軽い気持ちで初めて深みにはまるいつものパターンですが、要改造ポイントを書き留めておくと。
・初期型の防盾と先端にねじ切りのある段つきの砲身:DEFモデルのパーツを流用
・初期型のボルト耳付きマントレット:タミヤのパーツを切削改造
・車体天板にピルツがない:タミヤのパーツを修正
・車長ハッチに小ハッチがない:タミヤのパーツを修正
・車体上面後部に冷却水用ハッチがない:タミヤのパーツを修正
・同上部分に予備履帯:タミヤのパーツを利用追加
・排気管マフラーに防熱のパンチングガードがある:MSmodelsのエッチングパーツを利用
・車体後面誘導輪基部の履帯テンション調整具の形状が違う:38t戦車のジャンクパーツ流用
・リーフスプリングの基部のディテールが違う:タミヤのパーツを修正
・上部転輪の基部に5つボルトとリブ:あまり見えないからスルー?

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先ずはサスペンションのリーフスプリング基部の修正。初期型は板バネを束ねる部分がフラットで軸受け部分に軽め穴があいている。修正はプラ板で段を埋めて、ドリルで開口して穴の形を拡張整形。写真は途中段階で穴がヨレヨレしてますが、この後もう少しきれいに整えましたよ。

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といってもこの程度。穴の形になんとなくバラツキが出てしまっているのは手仕事の限界。
転輪をつければ隙間からちらりと見えるか見えないかなので、これで良しとして作業を「前進」。

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初期型のサスペンションは実車でも確認できます。この写真は戦後の修復時のものですが、ちょうど
第二転輪が外れていて基部の軽め穴があるのが見えてます。

ヘッツァーの生産が本格化した時期(1944年5月〜)とワルシャワで鹵獲された時期(1944年8月)から考えれば自明なことではあるのだけど、Chwat号は鹵獲修理時に撮影された写真や鮮明な動画フィルムがそれなりに残っていることもあり、実車でも詳しく確認できるのはありがたい。

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タミヤのキットは中期型の仕様であるため、履帯のテンション調整金具の形が初期型のものとは違う。
初期は38t戦車由来のパーツを利用していて固定ボルトが2穴であったが、中期型以降の金具では車体側板の角度にあわせてリファイン、ボルト穴が一つに減っている。

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初期型の金具はドラゴンの38t戦車系自走砲を作った時のジャンクパーツから流用。こういう時に役に立つから不要パーツはなかなか捨てられない。。

しかし38t戦車の部品がそのまま流用できる訳ではなく、ヘッツァーで斜めに角度のついた車体側板の角度にあわせて履帯テンション調整金具の取り付けプレートの上部が台形にテーパーカットされている。その様子を現存する初期型車両のディテール写真を見ながら修正。

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「Chwat」号の修理時の記録フィルムでも後部のディテールを確認。テーパーカットされた2つ穴の履帯テンション調整金具。排気管マフラーにはパンチングメタルの防熱ガード。後部上面のラジエーター冷却水補充用の小ハッチはまだなく、その部分に予備履帯を搭載。後部向かって右下の冷却水加熱口の蓋に増設される足掛けステップは、この頃はまだ未装備。なので、キットの足掛けステップのモールドは切除。

写真をよく見ると、エンジン始動クランクのキャップが脱落していたり、ワイヤーロープや予備履帯をつけたまま迷彩塗装をかけた痕跡など、「Chwat」号に固有の特徴も確認できるのですが、それを再現するのはもう少し先の作業になるかな? 

先ずは初期型の標準仕様へのキットの改修を進めます。(次回は車体上部)


# by hn-nh3 | 2019-07-28 09:48 | HETZER | Comments(8)

1/36 :朝顔図屏風

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暑中見舞い申し上げます。梅雨も心も晴れずの日々の気分転換をかねて、郵便局で買い求めた朝顔の切手を「組み立て」屏風仕立てにしてみました。

切手のモチーフとなっているのが、江戸時代後期は琳派の画家、鈴木其一の「朝顔図屏風」。六曲一双、各178cm×380cm

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(サントリー美術館「鈴木其一」展 2016.9.10-10.30)

数年前に鈴木其一の大規模な回顧展があり、メトロポリタン美術館所蔵のこの朝顔図も出品されると聞いて実物を拝みに行ったものです。やっぱり実物大で見る本物の作品はきれいでしたよ。

ただ、想像以上ではなかったという印象もありました。前に「キッテレビュー」でとりあげた尾形光琳の燕子花図屏風の実物を根津美術館に見に行ったときの体験に似ています。

どちらの作品も紛れもない傑作であることは事実。草花の複雑な自然の造形の写生に止まらず、グラフィックの「図案」のような抽象化を行って屏風絵という装飾性に見事に応えてます。しかしそれ故か、どこか実在感が希薄というか何というか。

絵に何を求めるのか、という話になってくるのだけど、上野の博物館で長谷川等伯の松林図屏風の実物を見たときは墨のついた筆をバサバサッと叩きつけたような筆致など、作品集の小さな画面ではわからなかった「原寸の質感」に心が震えたものです。
それに対して鈴木其一の朝顔図は型紙を使って描いたかのような朝顔の花の葉のミニマルな反復。拡大も縮小も可能なパターンというか、絵画特有の原寸の物質性を逃れるような軽やかさとでもいうのか。

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そんな意味ではこの朝顔図屏風の切手は、スケールを変えても美しさが維持されるというこの作品の特質をうまく捉えてます。ちなみにこの切手は今年(2019)年の切手趣味週間の切手として4月に発売されたもの。ゴールデンウィークの頃に1シートは買っておいたのですがその時は朝顔の季節には早いかなと、今回のレビューであらためて1シート追加購入。近所の郵便局にはまだ残ってましたよ。

プラモよろしく台紙から切り離して屏風に組んでみます。縮小スケールを計算すると、約1/36。惜しい!(何が..)
前にレビューした光琳の「燕子花図屏風」の切手は図柄の上下がトリミングされてしまっていて、正確なスケールモデルとは言い難いところがあったけど、今回の朝顔図屏風はほぼほぼ原画のプロポーションが維持されてます。

ただし、切手のフォーマットの制約で本来なら12分割(六曲一双)となるべきところが、10枚組(五曲一双)となってしまってるのが同様に惜しむべきところ。

それでも、こうやってスケールモデルの楽しみ方ができることろはモデラー的にはうれしいですね。

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余興で1/35の兵士を屏風の隣に立たせてみたよ。屏風は高さ方向は 1/37ぐらいの縮尺に相当にするので、実物より少し小さく見えるけど、だいたいこんな感じ。
銃を構えた米兵は、MiniArtの(no.35089)第101空挺師団 ノルマンディ1944 から。特に修正も追加工作もなく組んでこのプロポーションの良さ。これもまた名作なり。

朝顔に つるべとられて もらひ水(加賀千代女)

# by hn-nh3 | 2019-07-20 17:34 | 草花 | Comments(2)

ドラゴン・トラップ


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残念なお知らせです。
前々回の記事でDragonのlll号着弾観測戦車のキットには旧式の起動輪にスペーサーをはめて400mm履帯をつかえるようにした改修型起動輪がパーツで新たに起こしてある。これは絶対に買い! と言ってしまったのですが、どうやらこのパーツには罠がある模様。。

写真左側の丸穴があいたものがE~G型まで標準的に使われた360mm履帯用起動輪にスペーサーをかませた改良型。右端はH型後期以降に使われた400mm履帯用の新型起動輪。

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真横から見るとこんな感じ。左側が400mm履帯用新型スプロケット。手持ちのJ初期型熱帯仕様のキットのものから。継ぎ目にパテがラフに塗りつけてあるのは気にしないでください。パテの乾燥中でだいたい三年くらい寝かした状態。
そして右側のものが、スペーサーをかませた旧型タイプ。400mm履帯が使用できるように幅が拡張してあるのがわかります。

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仮組した状態。美しいディテールです。
ドラゴンはマニアックなバリエーションキットを展開するために、こうしたちょっとしたパーツの金型を追加で起こしたりするフットワークのよさは見事でしたね。(過去形)
このパーツでは歯車の裏側にリング状のスペーサーをかませて丸穴のあいたディスク部分との段差が大きくなった改修型の特徴を再現してます。

と、ここまではいいのですが...

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実車の写真と比較してみると、ん? キットのパーツのほうが段差が浅くない??

目の錯覚かなとあれこれと事例写真と見比べても、やっぱり実車のほうが段差が深い。
改修型スプロケットをつけてる現存車両もあるので、Primeportalのこの写真と比べてもやっぱり実車のスペーサーのほうが厚くみえる。その写真を見て他にわかることは、スペーサーリングには、ボルト穴を兼ねた軽量化の穴がリングに沿ってびっしりと並ぶ部材であることだ。鉄板を切り抜いたものではなく、鋳造部品なのだろう。

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試しに上の実車写真と同じアングルで撮ってみました。車体は撮影用に作りかけのJ型車体で代用。
確実にキットのパーツはスペーサーが薄いですね。実車と比べて丸穴ディスク部分との段差が不足気味。

Primeprtalのこの写真でスペーサーの厚みがよくわかります。
車体側の歯車と外側の歯車にはめられてるスペーサーの厚みに違いがあるのです。内側のものは薄く外側のものは厚い。
それなのにキットのパーツは内側も外側も同じ厚みのスペーサーで設計されてしまってるのです。やっちまったね、ドラゴン。。

内側と外側のスペーサーの厚みの違いは、360mm履帯から400mm履帯へと対応させる際に、中心振り分け両側20mmに拡張すると内側では車体の干渉がでてくるので外側により大きく拡張させるようにしたのだと思われます。

3号戦車の履帯の変遷は初期の360mm時代の次に380mm履帯が登場、それにあわせて転輪も75mm幅から95mm幅に拡張。そして400mm履帯では起動輪もそれにあわせた対応が必要に。。
その経緯を踏まえると、380mm時代に両側に10mmずつ軌道を拡張、400mm履帯対応では内側10mmを維持して外側に30mmオフセットさせてトータル40mm(360→400)のスプロケット幅の拡張を行ったのか。

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手持ちの資料をあらためて読み返したら、GROUNDPOWERの2019/ 5月号 ドイツlll号戦車(3) の寺田光男氏の記事に書いてありました。「...旧型起動輪へのスペーサーリングは、内側10mm幅、外側30mm幅のものが取り付けられた。」p21-22
この変更で履帯の軌道の中心線が10mm外側にオフセットした訳ですが、それに対応するため当初は転輪取付部に10mmのスペーサーをセットしていたなど、この履帯幅拡張に関しても詳しく解説してありました。。。資料は眺めるものでなく、読むものですね(^^;)

Panzertractsなども詳しく読めばそういう情報もあるのかもしれないですが、ハローというところでアロハと言っちゃうぐらいの語学力の身には、こうした日本語の詳細記事は助かります。寺田氏の記事はモデラー目線に応える情報が多く信頼性も高いので掲載号は保存版です。

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キットのパーツも修正したくなるところですが、実行するかは正直微妙ですね。
確かにスペーサーの30mmと20mmの違いは大きい。たかが10mmだけどスペーサーの厚みの差は1.5倍。1/35スケールで0.3mmプラ板ほどの厚みが不足。
レザーソーで地道に歯車を切り離してサークルカッターで切り出したプラ板のリングをはさんで..と、やってやれないことはないのでしょうけど、問題はその先。スプロケットの修正で0.3mm外側にシフトした履帯の軌道にあわせて、転輪や誘導輪も調整するのか、あるいは起動輪のデフレンシャルギアケースを削って帳尻をあわせるのか、地獄の扉を開けてしまいそうで。。。

# by hn-nh3 | 2019-07-14 12:16 | lll号戦車 | Comments(8)

迷彩工場

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1948年(昭和23年)3月。東京都北区豊島5丁目上空。米軍が戦後、全国を撮影した空中写真の一部は現在国土地理院のサイトで閲覧可能。この写真もそこから引用;写真No.USA-M866-34 の一部拡大

戦時中の高射砲陣地の痕跡についてブログで何度も記事にしてますが、その場所が明らかになってない陣地の場所を特定するのに米軍撮影の航空写真を見て回っていると、時々こんなものも見つけます。

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上の写真の部分を拡大。工場の屋根にちょっと不思議な市松模様が描いてあります。これは戦時中に軍需工場など爆撃機からカムフラージュするために描いた迷彩パターン。一帯の工場を住宅街に見せるために屋根に描いた模様が戦後三年が経ってもそのままになってたようです。

建物の迷彩は戦時中に熱心に研究されていたようで、当時の書籍で「擬装方法」を解説した本を見たことがあります。屋根や壁面に塗装で明暗差をつけて建物ボリュームを撹乱することを意図していて、周囲の建物のスケールに似せたパターンをつけるといい、というようなことが書かれてました。国会議事堂や東京丸の内のビルにも迷彩が施されていたことは、前に書籍:「米軍が見た 東京1945 秋」のレビュー記事で書いたのでそちらを参照。

しかし、工場の屋根に迷彩を描いた写真は意外に少ない。地上からの写真では当然のごとく写るものではなく、戦後に撮影された米軍の空中写真では、(迷彩が施されていた)軍需工場は空襲でことごとく破壊されて、その焼け跡ばかり。

米軍の艦載機が地方都市を機銃掃射した時に記録されたガンカメラの映像が残ってます。機銃発射と同時に撮影する仕掛けになってたようですが、それにカラーフィルムを使うところに米軍の底力を感じます。戦時中の地方都市をカラーで捉えたということでも貴重な映像ですが、そのなかにいくつか工場の迷彩が映ってました。

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フィルムの撮影された場所を特定するサイト”内地への機銃掃射(ガンカメラ)映像・改”から引用紹介

厚木飛行場のフィルムでは迷彩工場はほんとにちらっとしか写りませんが、なんというか。。制空権完全喪失の状況が痛々しいです。


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話を戻して豊島5丁目。ここの工場が空襲を受けなかった理由は定かではありませんが、肥料を作っていた工場(大日本人造肥料株式会社)だから爆撃の対象にはなってなかったとも想像します。しかし、このページを見てわかるように、北区には軍事施設や関連工場などが多くあった関係でこの工場も攻撃から逃れるために迷彩が施されたのかもしれません。

ここは蛇行する隅田川が荒川に極端に接近するちょっと面白い場所。戦後、工場が公害問題で移転した後、1972-73(昭和47-48年)に巨大な団地「豊島5丁目団地」が作られます。

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GoogleMapのキャプチャー。川に囲まれた巨大団地。陸の孤島につくられた人工世界。団地マニアなら一度はいくべき。
首都高速(中央環状線)江北ジャンクションから見るここのパノラマ風景は美しく、東京郊外の風景のなかでもピカイチではないかと勝手に思ってます。

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# by hn-nh3 | 2019-07-11 21:01 | 構造物 | Comments(4)

7月スタート

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いつの間にか7月。今年の半分が過ぎたことになるけど、何か完成したものあったかしら? まわりはどんどん動いてます。築地市場の跡地も解体がどんどん進められて、そこにあった記憶は巨大な空白に..  なくなるというのはこういうこと。

備忘録がてら始めたブログもとりあえず3年目。前に書いた「OVMは何色だったのか(後編)」はキラーコンテンツなのか、ブログ内のランキングはいつも上位。やっぱりOVMの塗装で悩む人は多いから当然の成り行きでそこに何の不思議はないのだけど、四谷駅前の謎の穴の話「四谷の穴」「四谷の穴(後編)」が最近、何故かランキング急浮上。四谷駅で降りる事もなくなってしまったので駅前の穴が今どうなっているのか知らないけど、何かが起きたのかしら? 気になる人はやっぱりいるんだね。


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去年の暮れの東京AFVの会の時にかば◎さんにもらった(押し付けられた) エレール1/72 コードロンシムーンの近況。
組み立ては最終段階。主翼を固定してキャノピーパーツも接着。このパーツは透明なガラス部分だけではなくキャノピー周囲のボディも含んだ成形になってしまっているので、継ぎ目を瞬間接着剤で埋めてサンディング。タミヤの瞬間接着剤「イージーサンディング」はクリアパーツが曇らないので重宝します。隙間を埋めるには瞬間接着材だけでは傷のリペアぐらいがやっとなので、ベビーパウダーを混ぜてどろどろのパテ状にして使用。

ピトー菅はWAVEのC-パイプを組み合わせたもの利用。プロペラのスピナーはパーツの形状がちょっとぽってりしすぎる感があったので削り込んでペーパーがけ。これで工作はほぼ完了。

こんなの2ヶ月ぐらいで完成だね、なんて考えてたけどもう半年。ようやく塗装に入れます。


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夏が来たことだし、そろそろ新しいアイテムもスタート。ワルシャワ放棄でポーランド国内軍(AK)が鹵獲使用したヘッツアーのChwat(フファット)号を作ります。作りかけのケーブルドラムも並べてバリケード仕立てにしたいなと。

興味はあれどそのままになってたアイテムですが、vol de nuitさんのサイトでワルシャワ放棄の時に使われた車両についてワイワイやったりしてワルシャワ熱がふたたび高まってきたこともあり、ここらで思い切ってスタート。(というか、少し前からちょこちょことは始めてました。)

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使うのはタミヤのヘッツアーですが中期型のモデルなので、Chwat号の初期型ヘッツアーに仕立て上げるには多少の改造の必要あり。初期型のキットはドラゴンやアカデミーから出てたりするんですが、それぞれに難ありなのでタミヤのをベースで行きます。初期型の防盾と砲身はDEFモデルのものを調達。

タミヤのキットは戦車砲の 装填部など車内造作がまるっと省略されているのですが、Chwat号は鹵獲時の火災で戦闘室天板が浮き上がってたりして隙間から砲尾部分がちらっと見えそうな予感。インテリアの完全再現ということは目指してないけど、覗いて何かあるかな程度には再現しておきたい。搭載砲は48口径の7.5cmPak39。手持ちのストックには流用できるちょうどいいものがなかったのでタミヤのラング用砲身追加パーツを購入、これで代用します。しかしラング用は70口径7.5cmPak42なので砲尾のガード部分の形状が48口径用とは少し違う。パーツを削り込んだり接着剤で溶かしたプラを盛ったりチマチマと修正。と言ってもハッチからはチラ見え程度なので改造はあくまでそれらしく。ほどほどに。


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もうひとつ新アイテムの準備。lll号着弾観測戦車を作ろうと作戦準備中。キットはドラゴンのno.6792。

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ドラゴンのlll号戦車のシリーズはどれも傑作揃いですが、そのバリエーションキットになります。通常の戦車型を砲兵隊の着弾観測用にカスタマイズした車両で砲塔にはカムフラージュで偽砲をつけるなどちょっと変わったシルエットが魅力。

特徴的な防盾や砲塔に増設された観測用のペリスコープといった着弾観測用車両ならではのパーツの他に、このキットでは旧式となったF型をベースに改装した車体を再現。操縦席前面には鉄板を切り抜いただけのような増加装甲。

足回りはH型以降で標準の40cm履帯を履かせるため旧型のドライブスプロケットにスペーサーをかませて幅を拡げた状態をしっかり再現してきてます。

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スペーサー付き旧型スプロケットはこのキットで初めて再現されたんじゃなかったかな。このためだけにでもこのキットを買う価値あり。lll号戦車H初期型(no.6641)でそれこそ必要なはずのこの「Wランナー」は入ってなかったみたいだし。

(最近ドラゴンから発表されたlll号突撃砲B型のキットにはスペーサー付き旧型スプロケットが同梱されてそうな予感)

lll号着弾観測戦車は1942~45年に使用されているので、写真のISU152の横で朽ちてる車両のように砲塔シュルツェンを装備している車両を見かけます。そんな仕様で再現したいのだけど、しかし残念ながらキットにシュルツェンパーツはなし。

ドラゴンのM/N型に出来のいいパーツがインジェクションで再現してあったりもするけど、そのためだけに買うのはもったいない。サードパーティのものでいいのはないかと探してみると、これが意外にない。Ⅳ号戦車用はいくつものメーカーから出ているのですが、lll号戦車用となると...
そしてようやく見つけたのがE.T.modelのエッチングパーツ。これを使ってみようと思う。

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# by hn-nh3 | 2019-07-06 13:03 | 日々 | Comments(9)

ブタ公園

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公園のブタ。東京都杉並区の大宮児童公園にて
善福寺川沿いの森に大宮八幡宮という神社がある。その昔、源頼義の奥州征伐にまつわる伝説があったりと古い歴史を持つ社なのだが、それ以前からの聖地だったようで古墳時代の祭祀跡があったり、川を挟んだ高台には縄文時代の大集落があったらしい。台地の先端には戦時中に高射砲の砲台(松の木陣地)が作られたことも。これについては機会を見て取り上げたい話題だけど、今日は公園のブタの話。

公園ファイルその1:大宮児童公園
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環状7号線の少し外側。善福寺川沿いの森にある神社の横の赤い星のところがその公園。

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神社の土地を区が借りて公園整備をしたのだろうか。静かな森のほとりにブタが3匹。
地図と空中写真はGoogleMapよりキャプチャ。

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コンクリートでできたブタ。この類の遊具を専門用語では象形遊具、というらしい。
ここには親豚1匹と子豚2匹。初詣にも訪れる神社なのでよく知ってる場所なのだが、近年にペンキの塗り替えで子豚が青くなるという事件が起こった。

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青の悲劇。。。なんでブタさんが青いの?と子供に聞かれたら答えに困る。既成概念にとらわれてはダメだよ、と教えたらいいのか。


公園ファイル2:玉川上水第三公園
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先の公園から南下して、神田川沿いの台地の端。中央高速につながる首都高4号線のすぐ北側。江戸時代の水道用水だった玉川上水の水路跡地を公園にした場所。

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この公園には敷地のあちこちに動物がいます。黄色く囲った場所にもたくさんの動物遊具が。

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キリンやゾウ、シロクマ、イノシシにオットセイ。写ってないけどワニやカバ、ウサギにカメもいます。すべてコンクリート製、同じ形のものが他の公園にもあるので、おそらくは型抜きでつくった量産品。

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このエリアにはブタが4匹。子ブタが2匹にひとまわりおおきい兄ブタとでもいうのかそれが2匹。

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子ブタを横から。正式は呼び方は知らないのでとりあえず分類の都合、子ブタをブタ(S)、兄ブタをブタ(M)、大宮児童公園にいた長い親豚をブタ(L)としておきます。

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ブタ(S)の4面図


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ブタ(M)の横姿。ぶた(S)は鋭い目がペンキで書いてあったけど、こちらは穏やかな寝顔。

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ブタ(M)の4面図

ぶたの形をMとSを比べて見ると、体格の違いもあるけど鼻の形が違うなど微妙な造形的変化もつけてあるようだ。尻尾の巻き方も違う。芸が細かい。


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Googleの検索でブタのいる公園を調べてみる。地元でブタ公園と呼ばれているものは結構あるらしく、それなりの数がリストアップされた。面白くなってきたので、ブタのいる公園を地図にプロットしてみた。キーワード検索で見つかったものをプロットしているので、実際のブタ型動物遊具の分布とは異なっている可能性はあるものの、東京23区内の広範に生息域を持つことが判明。杉並区、世田谷区、板橋区に多数生息。なかでも前回の東京オリンピックの時に整備された駒沢公園にあるぶた公園は有名で、センスよく塗られたブタたちがいるインスタ映えスポット。

港区や品川区、千代田区や中央区ではブタ公園は見つからず。都会にブタは住めないのか?
もっともGoogle検索ではリサーチに限界があって、単純に公園のブタに興味を持って写真を撮ってる人がいる場所といないエリア、ということが浮かび上がっただけかもしれない。

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検索エリアを南関東に広げてみる。
ぶた公園の分布を調べてみようと思ったのは、「大宮公園ぶた公園」というかば◎さんのブログ記事なのだが、その囃し唄の広まった一帯にはブタ公園が多数存在すると思いきや、埼玉の大宮市や千葉、茨城にはブタ遊具の置いてある公園は発見できず。そもそもブタはいないのか、あるいは絶滅したのかは不明。神奈川方面では横浜にはいるけど川崎では見つからないなどの地域偏差も。

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全国レベルに広げてみると。基本的な分布は東京23区とその近郊に限定されることが明らかに。
大阪の住吉公園にそれなりの生息数が確認できるものの、近畿圏では別の種類の動物遊具が多く、基本的には別の生態系。北海道の室蘭にある祝津公園が今のところ確認できてる生息の北限。

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渋谷区 代々木大山公園のゾウ型滑り台(撮影2007年 ※現存)

公園の動物遊具にはゾウの形をした滑り台とかタコの遊具など個性的なものも多い。そうした大型の遊具は現場制作の一品造形。それに対して、ブタ型遊具は明らかに同じ(S/M/Lのサイズの違う3種類の)型からつくられた量産品。だからあちこちの公園に設置が可能で普及もしたのでしょう。とはいえコンクリート製で重量もあるから遠距離輸送には難があり、さすがに全国的な広がりを持つことはできず、ローカルな生息圏にとどまっていると想像します。

ブタ公園がつくられた年代を調べたら、昭和40年代に集中していることがわかりました。高度成長期に増加する子供に対して自治体が児童公園を整備したときに大量に作られて設置されたのでしょう。団地の公園でよく見かけるのも同じ理由でしょうか。
郊外が都市化していく時代とブタの分布は重なるのかもしれません。

地域的な偏差に関して、たとえば新宿区にはいるけど隣の中野区にはいなくて、その隣の杉並区には多数生息、というようなブタの多い自治体とそうでないところがあるのは、児童公園整備の公共工事入札にブタ遊具のメーカーが入り込めたところとそうでないところの差なのかもしれません。想像ですが。

調べてわかったブタ公園のリストを貼っておきました。ここにもブタがいるよ、というのがあったらお知らせください。
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# by hn-nh3 | 2019-07-04 04:30 | 動物系 | Comments(6)