断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

カテゴリ:構造物( 17 )

スイスの車窓から

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ヘルシンキ行きの出張の後、スイスに立ち寄り。南部地域からチューリヒに戻る途中の街道筋。ヴァレン湖からチューリヒ湖方面に抜ける地峡部の平地に転々と奇妙な構造物。

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分厚そうなコンクリートの塊。屋根には草が生えている。おそらくこれはトーチカだと思います。街道沿いに転々と設置されているのが不気味です。GoogleMAPで見るとこんな感じ。

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人家の近くにも。スイスの建物は核シェルターの設置が義務付けられているようなので、最初はその類の施設かと思いましたが、これはどう見てもトーチカ。

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遠くにあるトーチカをコンデジで写した拡大画像なので不鮮明ですが、トーチカの中には落書きされたものも。現在は使われているものではないのかもしれません。

車窓越しの写真なので、ガラスに映り込みがでてしまって不鮮明な写真になってしまいましたが、がっつり迷彩されたトーチカも発見。のどかな田園地帯の風景にこういったものが紛れ込んでいるとちょっとドキッとします。


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by hn-nh3 | 2018-09-30 13:54 | 構造物 | Comments(0)

ふたたび船岡山

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8月16日早朝。毎年の盆の京都、今年もまた船岡山に登る。目的は山頂にあるサイレン塔の「追加調査」。昨年の夏に書いた記事(船岡山に登る)の続編。

船岡山の山頂にある謎の構造物は、戦前に作られたサイレン塔というもので、戦時中は空襲警報を鳴らし戦後しばらくは時報を流していた、ということらしい。しかしそれ以上の情報はネットでは得られず、その詳細は不明。

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全景はこんな感じ。高さ6m程度の小さな構造物。船岡山はかつての平安京の中心軸北方に位置する標高差45m程度の小山で平安京の造営基準になったと言われていて、中世の応仁の乱の時には西軍の陣地が築かれたこともあるような周囲から独立した山。周囲からの視認性もよいので、サイレン塔の手前には地図測量用の三角点が据えられている。

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サイレン塔の構造はコンクリート。外壁表面には化粧モルタルが塗られ、現在はペンキ塗り。側面には横長の66cm幅の小窓。木枠が残っているものので、当初は何らかの窓部材があった可能性あり。

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建物裏側には地面に近いところに小さな小窓。何のための開口なのだろう。窓の横には配線を通すための鉄管が残存。


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巻尺とレーザー距離計で簡易計測して図面化してみました。外面寸法で1.7m弱の矩形に内寸50cmの半円形の煙突状の塔が付属する平面構成。

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塔は中空。中から見上げると上に抜けているのがわかる。塔というよりも煙突というべきか。上に抜けているだけなのでサイレンの音を遠くに飛ばす構造には思えず、何のためにこうした形状になっているのかが分からない。まさか煙を焚いて狼煙(のろし)をあげていた訳ではないだろうに。

「煙突」の内側頂部をよく見ると何かの金具が残っているのが確認でき、おそらくは頂部に4方に向けたスピーカーなどが取り付けられていて警報などを発していたのか。この塔は煙突の機能というよりスピーカーを高所に設置するための「台座」として便宜的に形作られたものと想像します。むろん全て憶測の域をでるものではないのですが。


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塔を裏側から見たところ。裏面はフラット。水平に回された2段の庇は正面からの見え方だけのために設置、というデザインの割り切りがすごい。裏側をよく見ると所々に金具の痕跡が見られ、おそらくは梯子がついていたものと推測。庇が裏側にないのはそのため、ということもできる。

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断面図、立面図も作成。塔の高さは2段目の庇までをレーザー距離計で測って頂部までの距離は写真からの推測。平面寸法は作業に必要なスペースなどの機能寸法から導かれたものと思われるが、塔の高さは何を基準に設定されたんでしょうね。2段目の庇の上端までの高さは約4m85cm。尺貫法でいうと、一丈六尺。釈迦の身長といわれる丈六仏の高さと符号しますが、塔の頂部までの高さではないから、特に関連はなさそうです。

塔の曲線を生かした水平の庇を上部に回すデザインは戦前の1930年代に流行したモダン建築に見られるもの。昭和12年(1937)に完成した関西電力京都支店のビルも同様のデザイン。

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内部の壁はコンクリートの素地。西面に奥行30cm程の錆びた鉄箱。上面にはスリット、下部は底がないのか腐食して抜けてしまったのか。箱内部は上下に合計8本の機器(or配線)固定用のペグ。北側の外壁から飛び込む配線用配管が下部に、上部には西側外壁上部に抜ける配管が残存。

今回のサイレン塔調査はここまで。30分ほどの簡易計測なので、図面精度もそのぐらいのものですが、例によってDropBoxリンクでPDF図面をダウンロードできるようにしておきます。


文献資料に関してはやはりネットでは限界あるので、どこかで京都市の図書館にでも行って手がかりを探してみたいところ。

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船岡山は現在、東の山麓に建勲神社、西側は船岡山公園。写真は公園の入口付近にあった案内版を撮ったものなのでガラスの映り込みがあって見づらいところもあるものの、サイレン塔などの位置関係はだいたいこれでわかると思う。
写真で見切れてしまってる部分には昭和10年の開園当初からの広場に「ラジオ塔」が残っています。

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d0360340_09533276.jpg高さ2.5mほど、花崗岩が貼られた四角い塔の上部には四方に四角い開口があり、内部にスピーカーがあるのが網越しに確認できます。胴部にはラジオ塔の由来を書いた銘版があり、それによると昭和10年(1935年)の開園にともなって建設されたものだとか。ニュースやラジオ体操を流していた様子。

現在はラジオ塔は使われていないものの、公園の広場ではラジカセ持参で近所の人たちがラジオ体操してました。


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d0360340_10372286.jpg船岡山の南側の山麓は急峻で斜面にはあちこちにチャート石の露頭が姿を見せていて、山全体が大きな岩盤でできているように思われます。西賀茂断層の一部なのでしょうか。

山の頂にも古代の磐座と思しきチャート石の露頭。隣にある丸い花壇のようなものは正体不明。


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案内図に記載のあった旧猿舎を探すものの特に目立つ痕跡はなし。周囲に低い土留めを築いた丸い土壇が猿の檻があったところなのだろうか。ただの空地。兵どもが夢の跡ではなく猿が夢の跡。

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d0360340_11231391.jpg例によって年代別の空中写真の比較。写真は国土地理院の空中写真閲覧サービスのページから。空中写真は上が北。
上掲の案内板の地図は南が上に描かれているので位置関係が左右逆に見えるのは要注意

2008年(平成20年)、1975(昭和50年)、1946年(昭和21年)の写真で共通に確認できるのは明治期に設置された測量用三角点。サイレン塔もあるはずなのだが解像度の限界で判別はできず。現在、東西2箇所の広場にある円形の花壇のようなものは、1975年の写真では確認できないことから比較的新しい時代のものか。猿舎は2008年、1975年の写真で確認できるように思われるものの像がぼやけていて定かではない。


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猿舎の跡地からの南側の眺め。猿の見た京都もたぶんこんな風景。

by hn-nh3 | 2018-08-18 11:46 | 構造物 | Comments(0)
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このところ模型作る暇なし。製作中のもろもろも絶賛放置中。
だから新しいプラモの購入も控えてたのですが、こいつだけは買ってしまいましたよ。最近発売のMiniartのケーブルドラムセット(no.35583)。
自分では勝手に難民セットと呼んでるMiniartのラゲージセット(no.35582)も一緒に買ったのですが、これはまた改めて紹介するつもり。



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今回はケーブルドラムの話。こんなキット、誰が買うんだろうと思わないでもないですが、買いましたよ、買ってしまいましたよ私。前に記事でネタにした手前、多分に責任払いで買った感は否めないのですが.....
で中身はこんな感じ。組み立て説明書とデカール。そして大小のケーブルドラムのパーツ半分が収められた小さなランナーが6枚だけ。とてもシンプルな構成で、これだけかよーというくらいの潔さ。
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ランナーはこんな感じ。裏と表のディテール。ケーブルドラムは左右対象だから2枚一組で形が出来上がります。大きなドラムが3つ、小さなドラムが3つ。木目も表現も雰囲気は悪くないです。
構成はシンプル。左右のディスクと中央のドラム部分。ドラムは4つのパーツをあわせて樽型をつくるのですが、小口のところに有るか無きかのごとく小さなポッチがあって、これが左右のディスクと合わせる時の組み立てのガイドになる仕組み。しかし整形時にできたバリと間違えて思わず削り取ってしまいそうな小ささなので要注意。はい、私も一つ削ったところで気がつきました。

ディスクの部分をちょっと注意してみてください。ディスクの裏と表(写真のランナーの上と下)は板の方向が90度ずれてるんですね。ディスクの裏と表で木目方向が90度回転しています。これはMiniArtが金型の制作を間違えた、ではなく、裏と表で方向を変えた板を貼り合わせて一枚のディスクを作った構造を再現しているようです。合板などで繊維方向を90度違えた薄板を貼り合わせて強度を出しているように、ケーブルドラムのディスクも板を貼り合わせて作っているようです。

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ディスクの小口にはラインが走って、板の貼り合わせでできていることがわかります。こういうのは作ってみて初めて気がつくことですね。貼り合わせ部分のモールドですが、さすがにこんなものにスライド金型を使う訳にもいかなかったのか、裏と表でサイズを微妙に変えて段差で表現しています。パーティングラインだと思って削り取ってしまわないように注意するところ。
小口にはちょこっとだけ筋彫りして板の合わせ目を追加工作。加工が雑なのは息抜きモデリングなので勘弁してください。30分で作りました。

そして完成。ごろんとしたこの物体。いいですねー。なんとも言えない抽象感漂ってます。以外と好きかも。ティーガーよりもこういうのに血が騒いでしまうのは何故でしょうか。

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大きさを比べるために作りかけのHetzerと並べてみました。はい、これを見て意味がわかったらポーランド人から握手を求められます。たぶん。

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このシーンの再現です。1944年のワルシャワ蜂起の時にポーランド国内軍が鹵獲したHetzer、 Chwat号とケーブルドラムでできたバリケード。前に記事:8月のワルシャワ8月のワルシャワ(vol.2)でも書いているので、そちらも参照。

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Hetzerのキットはプラハ蜂起軍用に作っていたものに、今回急遽出演してもらいました。だから砲身もついていなくてとりあえずのサイズ比較用。履帯がない分だけ若干高さが低めになってしまっていますが、ドラムとの高さはだいたい同じで、このシーンを再現しようと思えば、このケーブルドラムのキットは流用できそう。小型のケーブルドラムはこのシーンには登場しないのですが、今回はキットレビューでもあるので友情出演。

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ディテールの検証。左右のディスクは6本のボルトが中央のディスクをはさみ込む構造となっています。バリケードでつかわれているもの(図の左の写真)は、、MIniArtのキットのもの(図の右)のボルト位置よりも円の中心に近い。ドラムの内側にボルトが配置されるので、ドラムの構造と関係があるのであれば位置の違いがドラムの直径の違い、というようにも読み取れるのだが、ドラム径の違いがあるのかは他のアングルの写真でも確認はできず。

このケーブルドラムにプリントされている文字が「KABELWERK OZAROW」というワルシャワ南郊の街にあるケーブル工場であることは前回の記事で判明。そして今回は文字の再現。
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KABELWERK OZAROW.pdf (クリックでダウンロードできます)

Miniartのキットのデカールには「KABELWERK 」はあったのですが、せっかくならやってみよう、ということで「KABELWERK OZAROW」という文字をイラストレーターで1/35サイズで制作。


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似たようなフォントをパスにそって配置するだけで簡単に作れるような気がして作業を始めたものの、Oの文字が円に近かったり、EやWなど癖のある形をしていて類似フォントが見つからず、結局、EはCを加工。AはUを逆さにして、WはUを並べて制作。AやWなどはもう少し微妙な曲線でできているような気もするのですが、それを始めるとエンドレスになるので、とりあえずは当たらずとも遠からず程度で妥協。

ステンシルの繋ぎの脚も写真を見ながらなんとなくの再現。型板が浮かないようにするためか、よくあるステンシル文字よりも脚が多めですね。上の図面はPDFの1/35スケール原寸ファイルでDropBoxよりダウンロードできるようにしておくので、興味のある人はエッチングで型板つくるなりしてみてください(笑)

ちなみにバリケードで使われている3つのケーブルドラムですが、左側のものはMiniartのキットと同じディスク中央部の座金が角形タイプ。しかし、右の二つは丸い座金。このシーンを本気で再現するときは忘れてはいけない大事な改造ポイント。

by hn-nh3 | 2018-08-11 17:18 | 構造物 | Comments(10)

8月のワルシャワ

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(当時の写真はすべてWikimedia commonsより)

1944年8月のワルシャワ。ナチスドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで、接近しつつあったソ連軍に呼応するようにレジスタンスが武装蜂起を起こすものの、ソ連軍の支援を得られず一月ほどで悲劇的な結末を迎える。
「ワルシャワ蜂起」として知られるこの出来事は、アンジェイ・ワイダの映画「地下水道」や「灰とダイヤモンド」などの映像としても記憶されています。

近年にタミヤからリリースされた無線操縦車ゴリアテやブルムベア突撃砲後期型などがワルシャワで使われた写真が残っていることもあり、AFVモデル的にも気になるところ。映画「地下水道」にもゴリアテがやってくるシーンがありましたね。

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前回の記事でMiniartからリリース予定のケーブルドラムのことを記事に書いたら、かば◎さんからワルシャワのChwat号のバリケードで使われてると指摘があったので、少し気になってあれこれ調べてみました。

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--- フファット(ポーランド語: Chwat)とは、ワルシャワ蜂起中の1944年8月2日にポーランド側が鹵獲したドイツ軍のチェコ製軽駆逐戦車ヘッツァーの愛称である。ポーランド側が火炎瓶を用い乗員を殺害してこの車両を鹵獲した時点で車体の大部分が焼け焦げており、当初はバリケードの一部として使用された。後に修理されたものの、バリケードを崩すことが認められず戦闘に投入されることはなかった。そののちに郵便局の建物に移されたが、この建物が爆撃を受け倒壊した折、瓦礫に埋もれ放棄された --- ( Wikipediaの記述より)


蜂起部隊に鹵獲されたこのHetzerは焼損していたこともあり、もっぱらバリケードの「構成材料」として利用されていた様子。その経緯など詳しく解説したページがあるのでリンク貼っておきます。

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バリケードがあった場所なども同定されているようで、地図にマッピングされてます。


このページの地図をクリックすると大きな地図に移動して、周辺で撮られた当時の写真を見て歩くことができます。
こんなページがあるなんて知りませんでした。蜂起部隊を撮った場所がほぼ同定されてます。

Wikipediaのページにも膨大な写真アーカーイブが整備されていて、ポーランド人の執念を感じます。
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街路にはあちこちでバリケードを構築。車両を使った即興的なものから市電や瓦礫を積んだものまで、さまざまなバリエーション。

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人力で特に重機も使わずに作るとなると、歩道の敷石や瓦礫など近くに転がる「ありあわせの材料」に限定され、件のChwat号もケーブルドラムやバケツと同様にバリケードの構成部材として利用されたのか。

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バリケードに使われてるケーブルドラムの側面には”KABELWERK”とドイツ語のステンシル文字が書いてあるのがなんとなく判読できて、これがドイツ軍の資材であったことが想像できます。
ドラムをよくみると、”KABELWERK”の先にも文字があってMIniartのキットのデカールとは違ってドラムの半周くらいを文字が占めるレイアウト。
"O......ROW" というような綴りと思われるものの、単語は特定できず。

このシーンを再現するなら、Chat号はタミヤのHetzer中期型をベースに初期型の防盾に換装するなど改造。バリケードのケーブルドラムは、規格やステンシル文字など多少の違いを問わなければMiniartのものは利用できそうだし、木箱や椅子の類もキット化されているので流用は可能。
あとはドラムの傍に転がるゴミバケツさえリリースされたら完璧。

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追記:蜂起は結局失敗に終わり、参加した人間は捕まり、街も破壊されてしまったけど、意外なほど写真は撮られていて保存されているんですね。残すべき記憶として。

by hn-nh3 | 2018-07-15 10:17 | 構造物 | Comments(10)

一円陣地

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カンヌでグランプリ(パルムドール)を受賞して話題になってる是枝裕和監督の映画「万引家族」はまだ見に行ってないのですが、その映画に出演していて、前から気になっていた安藤サクラ主演の映画「百円の恋」をツタヤで借りてきて遅ればせながら見る。
... 32歳のニートの主人公(安藤サクラ)と彼氏(新井浩文)のダメ女、ダメ男っぷり、そしてボクシングに目覚めて変わっていく主人公のかっこよさといったら。しびれましたね。

そんなDVDを観たり散歩したりで模型制作はなんとなく停滞気味。KV−1も手を動かしてはいるけど....その話は次回ぐらいかな。

100円ショップのレジ脇にはついで買いを誘うスナック菓子があったりするけど、秋葉原YSのレジで振り返ると、艦船用のカスタムパーツが壁から下がっていて手持ち無沙汰にこっちを眺めていたりするんですよね。

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自分、艦船ものには手をださないようにしてるので、その誘いには乗らない。...はずだったのですが、レジ待ちでふと見たら、なんだか聞き覚えのある高射砲の名前。八九式12.7cm高角砲。

大戦中の戦艦や駆逐艦などに搭載されていたものですが、地上の高射砲陣地にも配備された高射砲だったりします。

もっとも、都内の陣地ではスペックの低い八八式7.5cm高射砲がメインで小岩の陣地には12.7cm砲があったけど単装タイプ。この連装の八九式12.7cm高角砲は、近郊では前に記事にした小坪(逗子披露山)砲台など、横須賀軍港のような重要拠点の周囲に限定的に配備されたと想像します。

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守備範囲外の艦船模型でしたが、このファインモールドの1/700の高射砲のキットだけは、そんなことを理由にわが家に配備されてしまったのです。しかしパーツの細かいこと。ナノ・ドレッドと銘打ったこのシリーズはスチロール樹脂にABSを配合して強度を高めたとかで驚異的な細かいモールドを実現していて、1/35 AFVモデラーには眩暈を覚えるばかり。一箱に4セット入り。

組み立ては両手にピンセットを持って外科医になった気分で悪戦苦闘、パーツを飛ばすなどのアクシデントを乗り越えてなんとかひとつ完成。こんなことを軽々と100回繰り返せる艦船モデラーを尊敬しますね。
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とても小さな高射砲モデル。写真に撮っても小さい。

前に描いた小坪砲台の図面を1/700に縮小してプリントした紙の上に試しに配備してみました。1/700スケールの八九式12.7cm高角砲の陣地の完成。
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直径12mの円形の砲座も1/700スケールに変換すると直径1.7cm。プラ板をサークルカッターで切り出して積層するなどして、コンクリートのすり鉢状の半地下構造を再現したいところでしたが、その小ささにちょっと心が折れました。
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比較のために隣に一円玉。硬貨の直径は2cmだからそれより小さい。

吹けば飛ぶ紙の上に構築された一円陣地はつかの間。身捨つるほどの祖国はありや。
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by hn-nh3 | 2018-06-17 06:18 | 構造物 | Comments(4)

青戸(白鳥)高射砲陣地

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昨年から追跡中の高射砲陣地の跡地サーベイ続編。今回は都内、葛飾区 白鳥三丁目にあった青戸(白鳥)高射砲陣地。

自分の把握している範囲では都下(多摩地区、島嶼部除く)の高射砲陣地は二十数箇所。しかしその殆どは遺構を留めることなく、北の丸公園、白鳥、調布、下仙川に高射砲台座の一部が残るのみ。その中でも白鳥の遺構は街と一体化しているものとしてユニーク。図の赤く色をつけたところがそれ。

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月極駐車場の中に残る高射砲の台座。ターンテーブルのようにも見えるけど、戦前と終戦後に撮られた空中写真でこの位置に高射砲陣地があったことが確認できるので、それと考えて間違いはないと思われます。

d0360340_18514754.jpg測ってみると、円の直径は4.5m。中央にアスファルトが充填されている8角形の穴。穴の周りには9cm幅の縁取りがあることを見ると先に縁取りをつくってコンクリートを流し込んで8角形の穴をつくったと推測。他の事例から、そこに高射砲を固定するボルトが埋め込まれた構造物があったと想像できます。

周囲のコンクリートの一部に9×18cmの長方形の穴があるのが確認できるものの、これが何かは不明。当時からのものだとすれば高射算定器(軌跡計測用の計算機)からの信号ケーブルの取出し管があった可能性あり。

遺構から得られる情報は限られることからディテールの考察はこのくらいに留め、陣地全景を見てみます。

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1944年(昭和19年)11月3日 陸軍撮影の空中写真。不鮮明ではあるものの、扇型に配置された6基の陣地が3組。写真右上の円形に整地された場所は電波標定機(レーダー)サイトと思われます。

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1949年(昭和24年)9月7日 米軍撮影。高射砲陣地の形状がはっきりと確認できます。それぞれの陣地には円形の台座の周囲に3個のボックス状の構造物が配置されてます。即応弾の保管庫と推測。扇型に配置された円陣の扇の要の部分には高射算定具を置く観測所があるのが基本的なパターンで、昭和19年の写真ではおぼろげながら確認できるものの、戦後の写真では既に消失。右上の円形のスペースも消えてしまってます。

しかし、さすがに高射砲本体は撤去されているものの、台座と弾薬庫がほぼそのままの風景が戦後4年経っても残っていたということには少し驚かされます。空中写真はともに国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより。

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陣地を青で表記、現代の地図(黄色)を重ねてみます。道路など街の構造が変わってないので、位置の同定は難しくない作業。

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現在の地図(ゼンリン住宅地図)と戦前の高射砲陣地の関係。

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図の上が北。6基×3組。合計18基の高射砲座は北東方向に向かって展開しているのは、東京全体とこの陣地(赤いフラッグの位置)との関係を見ると明らか。房総半島を大きく迂回して東京都心部に北東方向から侵入しようとする敵機に備えた陣形。

Wikipediaの青戸の項によると昭和20年2月の応戦時にB29の1機に損害を与えたとの記述。もっともその命中弾は、この南側の地区を受け持つ小岩篠崎の陣地からとの説もあるとのこと。このときの空戦で葛飾区役所が全焼したそうで、3月の東京大空襲の少し前の出来事ですね。

近年の映画「この世界の片隅に」を見た人も多いと思います。あれは広島の呉での話でしたが、来襲する敵機に応戦する高射砲の弾幕がどこの陣地から発射されたのかを識別できるように着色弾になっていて空に絵の具を散らしたような雲ができる、というシーンがありました。そうした弾を使わない限り、また夜間の応戦などではどこの陣地の戦果かという識別はなかなか難しかったようですね。

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撮影場所は不詳とのことですが、戦後米軍が撮影した高射砲陣地の鳥瞰。前に記事で紹介した「米軍が見た 東京1945秋」からの引用。扇型に配置された砲座はそれぞれ周囲に配置した即応弾庫を覆うように土塁を築いて防御力を高めています。

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青戸の陣地も戦前の空中写真を見ると、砲座のまわりに土塁が築いてあるようにも見えます。しかし、戦後撮影の写真では北側の列は土塁が残っているように見えるものの、中列、南側の列では、砲座のまわりの3つの即応弾庫が露出していて、これが戦後に土を取り除いたものなのか、元々土塁はなく露座であったのかは不明。

前に記事でも取り上げた下仙川の高射砲陣地でも、周囲に土塁があったか、露座であったのかがはっきりしなかったのですが、その後、他の場所の陣地の空中写真を見るとどう見ても土を取り除いた痕跡のないものもあることから、土塁のあるものと露座のタイプの両方が存在していたのではと想像している。

考えてみれば、戦艦などでもシールド付きの高射砲の横にシールドがない砲座があったりすることから、同様に高射砲陣地でも同じ陣地でも並存していた可能性は大。

駐車場に残る砲座跡を実測、図面化しておきます。(クリックで拡大)
周囲の断薬庫の位置、サイズなどは空中写真から割り出した概略寸法にて作図。中央部の高射砲固定用ボルトの本数などは類似の事例からの推定復元。

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青戸の陣地で確実に現存している砲座は3基。冒頭の写真で紹介した駐車場の砲座は図の6に該当。残る2と3を見てみます。

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d0360340_06044575.jpg図の2。町工場の基礎に化けている台座。「東京の痕跡」(遠藤ユウキ 著:同分館出版 2008)という本でも紹介されている遺構です。実際に見ると果たしてこれがそうなの?という感じがしないでもないけど、位置は確実に空中写真に写る砲座と一致。台座の半分は道路工事で削られ、残りの半分が工場の建物基礎と一体化している模様。

自転車が停められていて全体が見えないのが残念ですが、そこだけ一段高くなっていて、内部の床もそれに合わせて高くなっているようです。

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写真左は、自転車越しに撮った基礎の段差になっている部分。コンクリートの構造体が建物に食い込んでいる様子がわかります。写真右は、切り取られた台座中央部付近に露出する何かの配管。台座の中央部分に該当することから、高射砲に電源を供給するケーブル用の配管であったのかもしれない。

コンクリートの上面は後年の補修が入っているものの、側面は切り取られた台座コンクリートの断面が露出していると思われます。長年の風雨にさらされてコンクリートに混ぜられた砂利が露出。丸みを帯びた川砂利を使っているのは戦前の構造物の特徴。そうでなくても、資源枯渇で河川から砂利の採取が禁止された1960年代以前のものであるのは確か。ちなみにそれ以後のコンクリートは山から採取した砕石を使用しているのでそこで年代の判別が可能。

ちなみに、配備されていた高射砲は99式8cm単装高射砲。(出典:「東京の痕跡」)ドイツ クルップ社の8.8 cm SK C/30をコピーした対空砲で、有名な8.8cm FLAK36/37とは別物のようではあるが、それでも射程は1万mまであったというから、B29に応戦することも可能。

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図の3の台座が残されているのはこのアパートの敷地の奥。通りからはよく見えないのでアパートの階段をすこし登ってみます。

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露出した円形のコンクリートの台座の一部が給水タンクの基礎に転用され、残りの部分は隣の建物の下まで伸びていると想像。
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建物の隙間越しに横から見たところ。台座が3つの建物の敷地にまたがるように存在していて、敷地境界のブロックもその後に怒れたためか、台座を跨ぐような状態になっています。戦後の空中写真を見ると、畑だった民有地に建設されたようで、畑の畝をまたいで配置されているのが確認できます。台座は撤去せずにその畑の持ち主ごとに建物を建てたからこんなことになってしまったのか。左側の建物の中に入って畳を剥がして床下がどんなことになっているのが見てみたい気もします。

不思議なことですが、こういった軍用遺物は戦後に行政の責任で撤去したりしなかったんでしょうかね。あるいは戦後すぐに宅地化して建物が建てられてしまい、その後撤去しようにも敷地境界を跨いでそれぞれの建物基礎に利用してしまっていたので取り除くこともできずに現在に至っているのか。

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図の5の台座の場所には現在は消防団の倉庫といった風情の青い小屋が建ってます。これも何らか関係がありそうですが、地図と照合すると、台座の一部が小屋にラップする関係。小屋を外側から観察する限りは基礎に利用されている形跡はなく、おそらく撤去整地された後に建てられたものと想像。ただ、台座が残っていて使い方を持て余していた土地の利用法として、台座を基礎にこのような小屋を建てて使ったその「用途」が引き継がれて、台座も当初の建物が無くなっても機能し続けているのかもしれない。想像ではあるけど。

これらの青戸(白鳥)高射砲陣地の跡地観察は、このサイトの記事に多くを得ているのでそちらも参照。

そのサイトでは他にも台座残存の可能性を指摘しているので、それも見てきました。

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中列の砲座の多くは現在、8階建てのマンションの敷地になってますが、その一部が残っている可能性について。

d0360340_08320762.jpgマンションの床下に台座が残っている可能性が指摘されてましたが、可能性があるとすれば図の8、9、10の台座が該当。しかし、このような大型の建物で重機があれば撤去できるような障害物をわざわざ残す可能性は少なく、床下に見えたのはおそらく写真のようなマンションの柱の下にある基礎杭の頂部。これは参考までに、撮りやすい場所にあった建物南端の基礎の写真。

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むしろ残存の可能性があるとすれば図の11の台座。マンションの敷地の一角につくられた公園。そこであればマンション建設でも撤去する必要はなく、なんらかの痕跡が残ってるのではと期待して行ったものの、見事にリセット済み.. 兵どもが夢の後。

これを見れば、マンションの床下に台座を残したまま工事を行う可能性はなかったと判断するのが妥当か。

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南側の列の砲座の15、17が残存する可能性ありとのこと。

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図の15。砂利敷きの駐車場の奥にアスファルトで覆われた部分が台座の跡ではと指摘している記事は多いものの、地図と比べると位置が少し違うようだ。地図と航空写真の重ね合わせの精度のこともあるので断言することはできませんが、戦後の空中写真を見る限り台座はもっと道路側、手前の2台の白い車の辺りにあったはず。

このサイトの写真を見ると、その道路に近い位置に何かの構造物の痕跡が露出していた形跡があるのは、おそらくそれが台座の残骸であり、近年にそれは撤去されてしまったと考えます。したがって現在この砂利駐車場の真ん中に残るアスファルトは台座とは関係のないもの。

図の17の台座のあった場所には現在木造平屋の物置が建っていて、通りから覗ける範囲では物置の床がコンクリートになっていることまではわかります。ただそれが台座を利用したものなのかまでは外から眺める限りは判断不能。民有地の建物の中の話なので調べるには所有者の承諾が必要となることもあるため、リサーチはここまで。
この他の場所にも台座が残存する可能性はあるものの、アポなしで観察できる範囲でわかるのはこのぐらい。

今回の追跡で台座が確実に残存すると確認できたのは図の2(町工場基礎).3(タンク/住宅基礎).6(駐車場)の3基となりますが、少し気になっていたのは地上への露出のレベル差。6の駐車場では敷地地面とフラット、道路面からは10cm程度のレベル差。3のタンク/住宅基礎は敷地内地表から15cmほど露出、道路との高低差で考えると25cm程度。2の町工場基礎は、道路面から30cmほどの高低差。
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下仙川の陣地の台座の残骸のように宅地造成の時に撤去移動、町内会看板の土台として再利用したという話であれば地表面から大きく露出していても不思議ではないけど、この青戸の高射砲陣地で当初からの位置が変わらず残っているとすれば、台座間の地形とのレベルのずれは当初からのものだったと想像します。

となると、ここでひとつ推理をすることになりますが、おそらくは6基の砲座を高射算定具と接続して連動制御する都合、射撃精度の確保のため、連動する台座の設置レベルは水平に揃える必要があったのではないか、と。
射撃用の水平なプラットフォームという「仮想地形」と畑の中の建設地というゆるやかに傾斜した原地形との場所によるレベル差が、台座の露出の仕方の差になって、その後の「用途」の違いが生まれたと考えると、ちょっと面白い。
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都下の高射砲陣地については、他にも少し気になったことがあるので、いずれ機会を見つけてまた書いてみる予定。
これまでの高射砲陣地関連の記事を下にINDEXとして整理しておきます。


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by hn-nh3 | 2018-06-11 12:40 | 構造物 | Comments(0)

四谷の穴(後編)

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地下鉄丸ノ内線の四ツ谷駅前にある大きな穴の話の後編。(前編はこちら
駅の改札口と四谷見附の交差点の間に縦横30mほどの未利用の窪地。ここが江戸城の外堀の一部であったことは地図で確かめられたものの、どうして何も使われない穴として残されているのか。

d0360340_16234565.jpg何か手がかりはないかと穴の周囲を観察してみると、厳密には「穴」ではないことに気がつきます。一見すると、周囲から陥没した窪地のように見えるものの、東側のJR中央線の線路敷とを仕切っている通路はコンクリート製のブリッジ。

切り通しのようになっている外堀を埋めてJR中央線の線路を通した堀跡の地形が、ブリッジを超えてそのまま伸びてきて「穴」の底と繋がっているのが確認できます。前回の記事に載せた終戦直後の写真に写っている畑になっていた地形がそのまま残っていると思われます。

d0360340_16495737.jpg低くなっている地形を地図に落とし込んでみます。薄いグレーグリーンで塗ったところが外堀跡の低地と堀の縁の斜面。青い点線は外堀の水面あったところの推定ライン。そして黄緑色の変形5角形の「穴」のエリア。

中央線に沿って連続した堀跡の低地を横断する四谷見附橋と丸ノ内線改札から橋に向かって伸びるブリッジ。丸ノ内線の線路の上に蓋をしてつくらた改札前の小広場で囲まれた部分が結果として穴のように見えていることが、地図に描いてみると理解できます。

穴の底は、かつての水面だったところですが、建物を作ることができない底なし沼のような軟弱地盤ではないことを知るために、大きな地図を作ってみました。

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江戸城があった範囲の地形がわかる地図です。国土地理院の治水地形分類図に江戸城の堀割りを何かの図から抽出してオーバーレイ。濃い青で着色した部分が江戸城の堀やそれにつながる小河川と運河。それにWikipediaにあった地下鉄路線図から銀座線と丸ノ内線を重ねてみました。数ある地下鉄路線からこの2つの路線を選んだのは戦前戦後の早い時期に作られた地下鉄で深度の浅い部分を通しているため、地形との関係がわかりやすいと思ったからです。

オレンジ色のエリアが台地の部分。江戸城は東側の低湿地に向かって伸びる舌状台地の地形を利用しつつ、台地の尾根の部分を土木工事で切断して堀を通して防御力を高めています。尾根部分を切るのは城郭用語で「堀切」という手法で尾根伝いに敵が侵入するのをふせぐ陣地構築法です。江戸城の内堀と外堀の西側のラインはともに「堀切」によって作られているのが見てわかります。図の左側のエリア、件の「穴」のある地下鉄丸ノ内線の四谷駅の辺りは、緑の点線で示すように、尾根の頂部を切断するように切削して堀を通しています。

地下鉄丸ノ内線の線路は、戦後の資金難で地表の浅いところにトンネルを通したため、四ツ谷駅付近の切り通し状になっている堀跡の低地部分では線路が「空中」に露出、再び迎賓館下のトンネルへと吸い込まれる構造になってます。
同じように御茶ノ水駅付近でも、江戸期の治水と防御のため台地の尾根を切って通した神田川を跨ぐように、地下鉄の線路が空中を横断しています。

戦前につくられた銀座線では終点の渋谷駅で空中に線路が飛び出す以外は地下トンネルですが、なるべくトンネルが堀やすいように地盤のいい場所を選んで通しているようにも見えます。東側の新橋から銀座、日本橋、神田そして浅草に至るラインは地形図をみると、江戸時代以前から陸地であった場所で、それをトレースするようにトンネルを掘っているのがわかります。そうした場所に江戸の町が発展していた、ということもできますが。

話を四谷の穴に戻すと、台地の尾根が走っていた地形を切削してつくった堀なので、堀の底は岩盤とは言わないまでも地山のかなり硬い地盤であると考えて間違いはないでしょう。明治期に堀を埋めた埋戻土はさすがに使えないにしても、その下の原地形まで基礎の杭を届かせれば問題なく建物は建つ、はず。
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それでも穴は何十年も穴のまま。という状況には何か別の理由がありそう。

ピンときたのが、法律や権利の関係で建物が作れない場所。というようなこと。
たとえば、河川や池、運河など国が管理する水面は、不動産用語的には「青道」もしくは「青地」と言われていて、土地の用途(地目)が宅地や畑ではなく「青道」となっている場所には原則建物を建てることはできないのです。
たとえば、その昔に水路があった場所で、現在は埋め立てられて周りの土地と平らになっている場所でも法務局にある図面で「青道」となっていると、それが私有地内を通っていたとしてもそこに建物を建てることは法的に許可されません。水路を廃止して国から払い下げを受けて地目を「宅地」に変更して、初めて建物が建てられます。

この穴も昔の堀跡だったことから、未だに「青道」として登録されて国が管理している場所なのでは?と思った訳です。

d0360340_17571484.jpg調べてみました。法務局に登録されている、この穴のある土地の「公図」と「登記簿」。公図は土地の権利の境界を示した図面、登記簿はその土地の用途(地目)や面積、所有権者、変更履歴などが記載された公的書類で、法務局にいけば誰もが閲覧、取得することができます。もちろん有料ですが。
最近はインターネットでもとれるから便利な時代になりましたね。

そして分かったこと。この土地は水路ではなく、「鉄道用地」として登録されていました。穴と丸ノ内線の駅舎とホーム、地上に露出した線路の部分を含めて登記されてました。元々は旧国鉄の用地として国有地だったものが昭和60年に国鉄精算事業団、昭和62年の分割民営化の時にJR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)へと所有権が移転、「民有地」となっていました。

鉄道用地とされていたのは予想の範囲内でしたが、所有が東京メトロ(東京地下鉄株式会社:旧交通営団)ではなくJRのものだったのは意外。地下鉄丸ノ内線の四ツ谷駅駅舎とホーム、付近の線路はJR東日本から土地を借りているという扱いになっているようです。したがって、「穴」も敷地はJR東日本の所有。穴に蓋をして駅前広場にしたりビルを立てたりするにはJRの同意としかるべき賃借料が必要だから、簡単には話が進まないということなのでしょうか。以前に穴の底にあった簡易な建物が撤去されたのも、そのあたりの事情が絡んでいるのかもしれません。

元々はなんとなく国有地というぐらいの扱いだったのでしょうが、国鉄民営化の際に民有地としてJRに払い下げられたことであらためて権利関係が発生したようにも見えます。でもなんでその時に地下鉄:東京メトロの所有地にならなかったのか。

おそらく東京メトロは基本的には地下に線路を敷設、さらに原則として道路や水路、公有地の下を通すことで土地の買収や賃借が発生しないようにしていることが理由かもしれません。駅も基本的に地下ですし。
地下鉄のカーブ部分など民有地の地下を通る場合や、四ッ谷駅付近のように地上に現れる部分に限り、賃借料を払うなどの措置をしていると思われます。なので所有しないまでも、事業的にペイするものであれば土地所有者に費用を払って何かを作ることはできます。

それでも四ッ谷駅前の穴が、雑草の生える穴のまま残っているのは何故?

d0360340_19114489.jpgそれは地下鉄だから。地図に色をつけてわかりました。

たとえば、地上に線路を敷設して地上に駅舎をつくるJRなどであれば、駅舎の前にはバスやタクシーなどのロータリー。駅前広場などをセットで整備するのが、基本的な「駅前整備パターン」になっています。収益アップのため、駅舎の上にテナントビルを建てて大家さん業に勤しむのもその延長。

それに対して、地下鉄は基本は地下に線路も駅もつくるので、土地を所有することもなく、だから駅ビルも必要なく、駅前広場もバス乗り場も整備することなく、ただ、地上との連絡階段を作るだけ。ホームから昆虫の脚のような連絡通路と出入口を伸ばして地上とつながるだけ。

丸ノ内線の四ッ谷駅もその例に漏れず、地形の関係でたまたま地上に露出してしまったけど、メンタル的には「地下」にある駅のパターンのまま、なんですね。

改札口から伸びるのは「地上」の四谷見附橋につながるコンクリートブリッジと四谷見附の交差点につながる通路を整備するのがその仕事の範疇であって、「穴」は「連絡通路の外側の土」と同じ、だったのだと想像します。おそらく。

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ちなみに文中で「四ッ谷」と「四谷」とツをつけるかつけないかを使い分けているのは、その使い方にしたがってます。地名は「四谷」、駅名は「四ッ谷」ということになるようです。 読みやすいようにツをつけてるという話ですが、江戸時代の文献にも「ツ」がつく表記はあるようです。その昔、四つの谷ではなく4軒の家(四ツ家)があったから、だとか。

穴の話は本当はちょっとした話の枕でスナップと都市伝説ぐらいで済ませて本題に入ろうと思ってたのですが、いつものくせでつい深入りしてしまいました。穴の写真を撮ったときは2回もひっぱるとは想像もしなかったですが。

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ツ のつかない四谷の話。「よつや」と聞いてピンとこないモデラーはAFVモデラーではないと言っていいくらいの有名模型店。その名は「四谷仙波堂」。駅から5分ほどの小さなビルの3階にある、店内で人が一人すれ違うのが困難なほど商品の積まれた魔窟のような実店舗よりも、ネット上の存在するグリーンバックのホームページ。
その言説空間はひとつの神話だと思います。
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個人的な話になりますが、インターネットが普及した1990年代後半に模型よりもそっちのほうに興味が移って、積んであったキットも机の中の塗料も接着剤もことごとく処分してもう戻ることはないと思っていたのだけど、2011年にふとしたことでAMAZONでイタレリの「SEMOVENTE da47/32」を見つけて、思わず買ってしまったのが再び模型を作るようになったことのきっかけ。

最初はひとつ作ってやめようと思ってました。この趣味が底なしなのは過去に知っていたから。
資料は買わなくてもネットで写真を集められようになってたし、カッターと接着剤と最低限の塗料だけ買って..

その時に見てしまったのが四谷仙波堂のページ。模型店の販促用ページであるからには、基本セールストークであることは承知するにしても、店主の言葉の世界は魅力的でしたね。新商品につけられたメーカーの売り文句のコピペでもなく、3ミリ広いとか狭いとか、毒にも薬にもならない批評でもなく、キットの再現度についてのクールなコメント、モチーフについての熱を帯びた説明。これは面白かったですね。というよりこのページがなかったらAFV模型はもっと寂しい世界だったかもしれません。
だから90年代にやめたんだし、また続けてもいいかなと思ったんだし。
..そしてまた穴に落ちる。

金額的には量販店にはどうしてもかなわないけど、ホームページのキット紹介を見て購買意欲が高まったキットはここで買うことにしてますよ。情報の対価、表現にたいする対価に疎くなってはいけないと思う。

d0360340_20150247.jpgこの間、四谷仙波堂で買ったキット。MIniartの新製品「東欧の家財道具」(no.35584)。

素朴な形のテーブルと椅子。前にカフェテーブルのセットで椅子があったけどあれはトーネット社の有名な椅子をモチーフにしたから、使えるシーンはどうしても限定されていまったけど、これは考証の縛りも少なく使えそう。
ストーブはスライド金型を使ってディテールを再現。たかがストーブなのに。

食器にスプーン、ソーセージなどの食材、そしてちょっと欲しかったサモワール。
前にICMでも女性下着とともにサモワールを再現したキットがあったけど、ディテールはエッチング部品も組み込んだこっちのほうが高精度か。

しかし、最近のMiniArt。アイテムのチョイスも再現技術も素晴らしいですね。ロシアのクリミア併合で本社の移転を余儀なくされたときはどうなるかと思ってましたが、見事に持ち直した、というか次のステージに進んだ感じですね。最近のキットを見ていると。

「東欧」という言葉を聞くと、つい旧共産圏のポーランド、チェコ、ハンガリーあたりを想像してしまうのですが、サモワールとかがテーブルに乗っているのを見ると、ウクライナやベラルーシなど旧ソ連諸国、ウラル山脈以西のロシア、などロシア文化圏のことを「東欧」と扱ってる気がします。そのカテゴリーからするとポーランドとかは中欧という扱いになるのか。といってだからポーラーンドの設定で使えないかというと、そうではなくお皿に乗っているのはソーセージだし。
四谷仙波堂のページでは、戦争末期の東プロイセン辺りの設定でも..と紹介するあたりは、いや流石ですね。

当事者でなければサモワールも乗ってるから、これはロシアの家財道具(ソーセージが乗っているは侵攻したドイツ軍が使っている設定)と言ってくれたほうがわかりやすいのかもしれないけど、ウクライナのキエフに本拠を置くMiniArtとすれば、そこはロシアではなく東欧、なんでしょうね。やっぱり。
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by hn-nh3 | 2018-06-01 21:43 | 構造物 | Comments(7)

四谷の穴

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そろそろ梅雨が始まるのか、空の青さは先週までの四ツ谷駅。ここで降りるのは迎賓館にお呼ばれする用事か、四谷仙波堂に探し物を見つけにいく時ぐらい。前者は未だ話はなく。

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地下鉄、丸ノ内線の改札を出ると相変わらず目の前には巨大な穴。普通はタクシーロータリーなどありそうなものだが、この駅前はというと、四谷見附の交差点に面して周囲から陥没した30mほどの雑草の生えた穴が空いているのだ。

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Google Mapで見るとこんな感じ。都心の一等地に意味不明の三角形の穴の空いてる謎。Google先生に聞いてもよくわからないんですね。昔ここは江戸城の外堀だったところで地盤が悪くて建物が立てられないとかそんな都市伝説めいた話があるぐらいで。少し前に気になって調べたときはいくつかヒットした話も、もう一度調べたらその記事もなくなってしまっていて、この穴のことはもう誰も気にしていないのか気にしてはいけないのか。

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穴が空いてる理由を考えてみます。画像はiPhoneアプリの「東京時層地図」から。現在から明治までの地図や航空写真などが重ねられていて場所の移り変わりがとてもよくわかるので好きなアプリです。

左が現在の地図。赤い丸で囲んだところが穴の空いている場所。中央の地図は明治16年(1883年)頃の地図。そこが旧江戸城の外堀であったことがわかります。右の図は現在と過去を重ねたもの。外堀だったところにJR中央線(旧甲武鉄道)を通して四ツ谷駅をつくり、戦後に地下鉄の丸ノ内線が開通して地下鉄の四ツ谷駅ができて、その二つの駅に挟まれた部分に、その穴が空いています。

外堀の水面だった部分、かつての堀の底なので地盤が悪くて建物を建てるのに向かないという説もあるようですが、そんなこといったら湾岸の埋立地なんて地下数十メートルまでの杭を打って建物を立ててるぐらいだから今の技術をすればなんら不可能はない話。それに外堀のこの部分は台地を掘削して作ったものだから堀の底には硬い地面があると想像します。これを地盤が悪いといったら、干潟に木杭を打って建物建てたベネツィアなどは未だ水の底。

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同じく「東京時層地図」から空中写真と地図。右の地図は明治42年(1909)年の姿。中央線の線路敷が堀を横断しているのがわかります。その頃は例の穴の部分はまだ水面。中央の写真。終戦直後の昭和22年(1947年)に米軍が撮影したもの。

d0360340_19585924.jpg四ツ谷駅付近を低空から撮った写真。前に紹介した「米軍が見た 東京1945年秋」に掲載の1枚。1945年8月25~9月1日撮影。

四谷見附の交差点の手前、この頃はまだ地下鉄丸ノ内線はなく、穴のある場所は、外堀を埋め立てた低地の状態。戦時中につくったのかその頃は畑になっていた様子。

その横の中央線のホームの手前に、今はない跨線橋が確認できます。現在の迎賓館方面に抜ける出口が当時はあったのでしょうか。

昭和38年(1963年)の空中写真を見ると、地下鉄丸ノ内線(1954年開業)が見えます。この部分は地上に現れる地下鉄の線路敷とその上に高架状につくられた丸ノ内線の駅舎。穴の部分は、鉄道用の付属施設でしょうか、いくつかの建物が並んでいるのが見えます。
(写真と図版はいずれもクリックで拡大)
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1979年と1984年の写真では穴の中の建物はいちど消滅して、1992年には再び現れて現在はまた無くなってます。

ゼンリンから発行されている最新の地図に穴(黄緑に着色した部分)と昔の江戸城の外堀の位置を青い点線で重ねてみました。堀割りのラインは明治の頃の地図を参考にトレースしただけなので、あくまで位置は目安。変遷を見ると、元々の堀割の地形が残る穴の底は、今まで建物が全く建てられなかった訳ではないけど、結果として空地になってしまっているようです。

駅ビルとは言わないまでも穴を埋めてしまってタクシー乗り場にしたら便利なのにとか、せめて駅前広場ぐらいには整備したらいいのに、とも思いますが。ひょっとして穴のままにしておかないといけない理由があるのか?

穴の下には迎賓館へと続く秘密の地下トンネルがあって塞ぐことができない...とか。穴の底にはたどり着けた人の願いが叶う秘密の小部屋があるのに階段を降りて行った人たちは誰も帰ってこなかった...とか。戦時中に動物園から逃げた象が今もかくまわれている..とか。

人知れず囁かれ続ける都市伝説のように妄想は膨らむものの、見えているのはただの空虚な穴。(後編に続く

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by hn-nh3 | 2018-05-31 22:40 | 構造物 | Comments(2)

トーバー

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無事に退院しました。ぼちぼち日常に戻します。
iPhoneに撮りためた写真から。場所は福岡空港。滑走路で見かけた車輪付きの物体。
これは領海侵犯に備えた対艦ロケットランチャー..なんてなんて物騒な代物ではなく「トーバー」と呼ばれる、飛行機を押すための棒。            
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飛行機をエプロンから滑走路に押し出す時に使う、いつもの棒ですね。プッシュバック:wikipediaという作業。トーバー(tow bar)にも機体の規格に合わせたバリエーションがあり、ボーイング用はオレンジ色の棒。残念ながら写真は撮り損ねました。

写真の青い色のトーバーに繋がれているのはボンバルデイアCRJ-200。50人乗りの小さな機体。これで福岡から大阪伊丹空港まで飛びました。
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やっぱり飛行機は窓際に限ります。翼の上の席でも見所たくさん。機体のリベット接合の痕とか気流に沿った汚れ具合とか。飛行機モデルは殆ど作らないけど、どうしてもモデラー目線になってしまいます。"NO STEP" の赤いマーキングもシルバリングも起こさずちゃんと貼れてますね。(だからデカールじゃないって..)

by hn-nh3 | 2018-02-17 22:12 | 構造物 | Comments(0)

プラハの街灯

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プラハの街灯。製作中のGrille改造 3cmFLAKの横に添える街灯のリサーチ。

d0360340_08254563.jpgd0360340_08265064.jpg1945年5月、プラハ蜂起の時の写真。市庁舎前の広場に停車するのは蜂起軍のHETZER駆逐戦車ですが、今日の本題は、その右側に立っているクラシックな街灯。当時の街灯を1/35の模型として復元してみたいと思います。

このタイプは市庁舎のあたりにあったと思われ、いろいろな写真に登場しますが、文様をかたどったようなモチーフが組み込まれていて、いざ作ろうとすると、なかなかどうして大変。アップの写真もないので彫刻の細部も実際よくわからない。
ちょっと日帰りでプラハに行って見てこようかとも考えましたが、どうやら現在はこの街灯はなくなっているらしく、ネットの写真を検索してもこれ以上の写真は見つからず。

2番目の写真も1945年のプラハですが、くるんとシンプルな渦が巻いたタイプでこのくらいなら簡単に作れそう。ミニアートから出ている街灯のキットの柱脚部を流用して上部は針金細工で作れば良いか。
ただ、形がシンプルすぎて実際に作って面白いかというと微妙なところ。

この写真の右隅にちょっと複雑な形状の街灯のフレーム(手前の街灯柱に照明部が隠れていると思われる)が見えていますが、このタイプは現在でも残っているようで最近の観光写真でも見つけることができます。なので、細部のディテールも確認することは可能。しかしちょっと制作難易度高し。

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3番目の写真。実際のGrille改造 3cmFLAKの背景にも街灯が写っています。路面電車の走る大通りにあるのはラインがすっきりしたモダンなタイプ。道路の上にはりめぐらされた路面電車の架線を避けるように設置された新しいものなのでしょう。

こういった近代的なものも当時の写真でよく目にします。実際、こういうタイプのものの方が多かったのでしょう。

現在のプラハの写真を検索すると様式的なノスタルジックなテイストの街灯をいろいろと見ることができますが、おそらくはそういったものは、観光用に古い様式を模して新しく作られたものではないかとおもいます。クラシックなスタイルのものはその時代が過ぎ去った後に懐かしんで作られるパターンが多いですね、古今東西。



d0360340_09002417.jpg4番目の写真。前に紹介したプラハ蜂起の蜂起軍車両写真集(→紹介記事:プラハ 1945.5)より引用。バリケードにされたトラックの横に立つ街灯で、なかなかエキゾチック。
ポールとランプを他キットから流用できれば、あとは針金細工でなんとかなりそうな予感。これを1/35で「復元」することにします。

しかし、この壊れたトラックと歩道の敷石を剥がして積み上げたバリケード。すぐ手に入るものでうまく作ってます。ちなみに、東京の道路の歩道がある一時期を境にアスファルトやコンクリートになったのは、安保闘争や大学紛争の際に歩道の敷石ブロックを砕いて投石に使われたことがあって、その防止策として歩道から敷石が排除されたのだとか。騒乱の季節も遠くなった最近は景観重視で歩道の敷石がまた復活してきてますね。

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このキットを元に作ります。ミニアートのジオラマベース、路面電車敷セット。車両のベースを作ろうとちょっと前に買ったのですが、電車の架線のパーツのランナーにボックスアートにはない街灯のパーツが入ってました。
ランプの部分はシェードの形が目的のものとは違うので、削り込んでなんとなく似たような雰囲気に改造。
ポールはキットのパーツからアームを切り離して、ポールの先端のディテールを上下ひっくり返して付け替えたりして、これまたそれらしく。なんとなく映画のセットを作ってるみたいで楽しい作業。
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0.7mmの針金をくるくるとリングを細工していきます。モデルとする街灯のサイズは正確にはわからないので、ランプの大きさ合わせで写真を拡大縮小して、それを下敷きに形を作っていきます。リングとポールのジョイントは、図面を描いてプラ板から切り出しました。ここまでできれば、あとはランプのガラスキャノピー。

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0.3ミリの透明塩ビ板に向かって弾丸を打ち込みます。

というのは嘘で、キャノピーの型をエポキシパテで作って温めて柔らかくした塩ビ板に押し付けて成形。いわゆる「ヒートプレス」ですね。大きめに切った塩ビ板の両側を割り箸で挟んで固定して、ガスコンロの上で塩ビがグニャグニャ似なるまで温めて、ペン先につけたプレス型を押し当てて一気に形を作りました。ちなみに、ガラスキャノピーの形をしたプレス型はペンのキャップにエポキシパテを詰め込んで制作。

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キャノピーの形状は直径に比べて奥行きが長いので、塩ビにエポキシパテで作ったプレス型を押し当てるだけで、ここまで絞り込める気はしなかったので、プレス型より一回り大きい円を切り抜いたプラ板を成型時に外側からかぶせて直径を絞り込みました。

形ができたら、ナイフで切り出して完成。ヒートプレスなんて5年ぶりぐらいにやったので、ちょっと不安でしたが、うまく行きました。作業風景は超ローテクで見られたものではなかったけど、出来上がってみれば、こんなもん。

プレス型は残してあるので、注文があれば量産できますね。プラハのメインストリートを1/35で作るとか...

形状チェックのために本体にセットしてみました。モデルとした写真の街灯と比べると、ガラスキャノピーの外径がランプシェードより少し小さめな感もあるものの、当たらずとも遠からず。

大きさのズレは、キャノピーのプレス型のガイドにしたペンキャップのサイズで決まってしまったのだけど、その辺りはご愛嬌ということで。
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by hn-nh3 | 2017-10-26 12:12 | 構造物 | Comments(2)