断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

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3年後

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1944年8月のワルシャワ蜂起の話の3回目。ひとまず今回でいったん区切ります。
前回、前々回とポーランド側からの視点で書いたこともあり、以前に書いたプラハ蜂起関連の記事など話題の傾向が、なんだか反乱軍モデラーの様相を呈してきたので、ちょっとバランスをとってドイツ側から撮った写真も載せておきます。

(写真はBundesarchiv、Wikimedia commonsより)
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蜂起部隊を攻撃するのはパンターのような対戦車攻撃能力の高い戦車ではなく、ブルムベアや60cmカール自走臼砲などの重砲兵器、28/32cmロケット弾、ゴリアテやボルグバルトⅣといった遠隔操縦の爆薬搭載車.. なにか圧倒的に非対称な戦争。
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そして、三年後。1947年8月のワルシャワ。徹底的に破壊された傷跡が戦後2年経ってもそのまま残る風景が痛々しい。
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カラー写真を撮影したのは、アメリカ人のHenry N. Cobb。ニューヨークの建築家。
戦後の復興の研究でイングランド、チェコスロバキア、ポーランドを回った時の写真のようです。

蜂起軍部隊の自作装甲車クブシュの塗装色の手がかりはないかと、終戦前後のワルシャワのカラー写真はないかと探してそのサイトにたどり着きました。探し物は見つからなかったけど、廃墟と生い茂る雑草の鮮やかなコントラストが目に焼きつきます。

(カラー写真はいずれも Henry N. Cobb 撮影)

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とはいえ、気になるのはやっぱりこういう物たち。タイヤのついた荷車。

この時代、馬が曳くカートは木製のスポークが主流ですが、戦後の物資欠乏の時期にしては不釣り合いなほど立派なゴムタイヤを装着しています。戦時中は戦略物資として貴重だったゴムタイヤをこんなに荷車に供給していたはずはなくて、そう、これは放棄された軍用車両から収穫したものと考えて間違いはないと思います。戦車などでも放置されたものは車輪からなくなったと聞きます。
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(写真はクリックで拡大)

いったい何の車輪だったのかしらと、ちょっと観察してみました。
1枚目の写真の荷車の後輪は、どうやらSdkfz.250系の車輪。このタイヤは火砲牽引用のハンガーでもよく使われていたので、簡単に手に入ったと想像します。前輪はSdkfz.251系のものに見えます。ハブの周りのボルトなど特徴が一致します。

2枚目の写真の荷車の車輪はどうかというと、写真が小さくて判然とはしないのですが、5穴ホイールはフォードもしくはGAZ系のホイールと推定。前輪は何だろう... 後輪よりは小径で円錐状のホイール。軽車両用のトレーラーのものとも違うし、小型乗用車のホイールでも、ちょっと思い当たるものがない。独軍車両でなければ、ポルスキフィアット辺り..と思ったけどそれでもなさそう。

もっとも、これが判明したところで、何かの成果になるものでもないけれど。  

by hn-nh3 | 2018-07-19 21:00 | 写真 | Comments(0)
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散乱する独裁者の肖像 1944.8 ワルシャワ:撮影:Eugeniusz Lokajski

ワルシャワ蜂起の話の続編。
特に準備もなく書いた話題ですが、前回調べきれなかったことや調べているうちに知ったことなど、忘れないように書き留めておきます。

先ずは蜂起部隊(ポーランド国内軍)鹵獲Hetzer「Chwat号」のバリケードのケーブルドラム検証続編。
前回の記事で判明してなかった、ドラム側面のステンシル文字の内容が判明。
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バリケードの全貌が写った写真を見つけました。出展はワルシャワ蜂起博物館の写真アーカイブから。この写真自体はWikimedia Commons にも公開されていたものですが、それはトリミング版であり、転がるケーブルドラムの内、右側2個しか見えなかったもの。アーカイブで見つけたのはフレームがそれより広くドラムが3個あったことが確認できます。ただし上の写真も訳あって不要部分をトリミングしたもの。

その理由は、写真に博物館のクレジットが入っていて「使いたかったら理由を書いてメールしてね!」とサイトに書いてあったから。個人的には著作権の問題は他人事ではないので、Bundesarchiv(ドイツ 連邦公文書館)や NARA(アメリカ公文書館)、Wikimedia Commonsなどでパブリック・ドメインとして公開されているもの、(+ネットで事実上共有状態になっているもの)でない限りは、プライベートコレクションなど著作権で保護されていて使用料が必要なものは極力購入するようにしてますが、ワルシャワ蜂起博物館のものは、e-Bay簡単決済ではなく、先ずはメールで使途を述べて、見積が送られて...と手続きは煩雑、しかもポーランド語のやりとりなんてこれまたハードルは高い。

という訳で、この写真は「無断借用」。ただし「引用」です。(WikimediaCommonsの解説によると著作権法が発表後50年から死後50年(アメリカ、EU、ロシアなどは70年)に切り替わった90年代後半以前に著作権が切れているはずなんですが)

d0360340_19111819.jpg脱線しましたが本題です。ドラム部分の拡大。側面の文字は"KABELWERK OZAROW”と読めます。ようやく判明しました。
ワルシャワ南郊のオジャルフという街にある電線ケーブル製造会社のようです。ドイツ占領下にあるのでドイツ語表記。検索すると、この会社まだあるみたいですね。...労働者のストでなんたらかんたら、という記述が見つかります。

Ożarów という街。戦時中はゲットーが設けられていたらしいです。市民の64%がホロコーストの犠牲になったとか。ドイツ支配の影の部分ですね。時として、知らなくてもいいことを知ってしまいます。たかがジオラマ・アクセサリーを通して。

もうひとつの話題。「写真」の話。
ワルシャワ蜂起に関しては、ワルシャワ蜂起博物館という展示構成もとてもよくできた博物館があるようで、そこのサイトに膨大な写真アーカイブが整備されています。
バリケードの写真などもそこで閲覧可能 >fototeka / barykady

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Eugeniusz Lokajski (1908-1944/9/25)

写真家、エウジェニウス・ロカフスキ。戦前はスポース選手で槍投げのポーランド代表。従軍してソ連軍の捕虜になり例のカチンの森の事件から逃れる。職業写真家ではなかったようだが、能力を見込まれライカを与えられてワルシャワ蜂起に関する1000枚あまりの写真を撮影。1944年9月、ビルの爆破に巻き込まれて死亡。

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彼の名を知らず前回の記事で使った写真(冒頭および文末)、そして今回の冒頭で使った写真は彼の撮影によるもの。
報道記録という目的を超えたいい写真だなと思います。他にも気になって拾った写真の多くは彼の撮影でした。

従軍カメラマンで有名なロバート・キャパのように写真史にその名を残した訳ではないけど、見る人の記憶に残るような写真を撮ってた人がここにまた一人いました。写真の資料的価値という以上にこういうものは個人的には気になります。

件のワルシャワ蜂起博物館にも彼の写真アーカイブがあります。>Eugeniusz Lokajski

パブリック・ドメインと明示されているWikimedia Commonsから彼の写真のINDEXをアップしておきます。(記事中の写真はいずれもクリックで拡大)

Chwat号の有名な写真も彼によるものでした。ただ、タテイチ構図の写真が多くて、(個人的にはタテイチ写真好きですが)WEB記事のレイアウト泣かせ。当時としても新聞雑誌などに掲載しにくい構図は、彼が仕事としての写真を撮っていた訳ではなかったことを物語っているような気がします。
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by hn-nh3 | 2018-07-17 20:59 | 写真 | Comments(2)

SATELLITES

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1961年4月、ユーリィ・ガガーリンは、ボストーク1号に乗って地球の周りを一周、1時間48分の人類初の有人宇宙飛行のミッションに成功。
写真は地球に帰還した再突入カプセル。大気圏突入時の焼け焦げがリアル。
ソ連の宇宙船が戻ってくる時に、アメリカのアポロ計画のように海に着水するのではなく、ソ連南部(現カザフスタン)の草原砂漠に落ちるというのを知ったのはずっと後になってからだが、この写真を見てると別の惑星に着陸したSF風景のようでもあり、最新技術を駆使した宇宙船といえど物体を空にを打ち上げてそれが再び地上に落ちてくるだけというような妙な物質的生々しさを感じる。
旧ソ連のSF映画、例えば「惑星ソラリス」とか「不思議惑星キンザザ」に感じるざらっとした非日常感はそんなところから来てたのかもしれない。

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Satellites -Photographs from Fringes of the former Soviet Union:Jonas Bendiksen 2006

草原に舞う白い蝶と宇宙船の残骸。まるでSF世界のような不思議な写真に惹かれてこの本を買ったのはずいぶん前のことだった。落下してくる衛星の残骸と、そんな宇宙からゴミが降ってくる日常があるソ連の辺境地帯(衛星都市、衛星国家)、社会主義というイデオロギーで諸民族をまとめた実験国家の残骸。Satellitesという本のタイトルに何か響くものがあった。

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”Satellites -Photographs from Fringes of the former Soviet Union”

写真家 Jonas Bendiksen が世界の果てのようなソ連の周辺地帯の日常風景を撮り歩いた写真集。版形18.3×23.7cm 152P 出版 2006年

当時、5000円くらいで買ったような記憶がありますが、なんだかいつの間にかプレミアついてしまってますね。でも今は本を買わなくとも彼のサイトで掲載写真を閲覧することができるようになってます。
>Jonas Bendiksen Satellites

ロケットの打ち上げは赤道に近い方が有利なのだそうです。ロケットの加速に地球の遠心力を利用することで燃料を節約できて打ち上げの費用を抑えることが可能。だから大抵はその国の南側、例えばアメリカはフロリダのヒューストン、日本は種子島のJAXA宇宙センターなど、周囲に人家の少ない海の側にロケット基地を作っています。
ソ連は南側に海はなく、広大な草原や砂漠のある南部地域(現カザフスタン)にバイコヌール宇宙基地を作ってロケットの打ち上げと宇宙船の回収を行ってます。

スペースシャトルが退役して以降、ISSなど宇宙施設への往復は専らロシアのソユーズロケットが使われるようになって、帰りの宇宙船がカザフスタンの草原に着陸(落下)する風景はテレビでも目にするようになりましたが、打ち上げの際のブースターロケットなどの「宇宙ゴミ」も草原地帯に降ってくるということはあまり知られてない事実です。

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写真出展:Satellites -Photographs from Fringes of the former Soviet Union:Jonas Bendiksen 2006

この本では「宇宙ゴミ」の降る日常が写ってます。まだ燃料が残って炎をあげたまま落下するブースターロケット。残骸を金属屑として回収するブローカー。上の写真はどことなくファンタジックな風景にも見えるけど、またそれが日々の糧になっている現実。発がん性物質を含む有害なロケット燃料による環境汚染といった問題も。

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落下したロケットや人工衛星の写真集かと思って買うとある意味がっかりするのですが、この本の主題はそこではなく、旧ソ連の辺境のエリアだった場所で暮らす人たちの風景にあります。

辺境、周縁などという言葉を使うと、それは中央からの視点になってしまいますが、モスクワからは遠く離れて目の届かないような場所、見捨てられた街、世界の果てのような遠い現実のような風景。そんな世界の片隅もそこは紛れもなく現実。
ソ連崩壊後の民族運動と内戦、宗教的な迫害、国境地帯の麻薬の密輸。ロケットの落下する日常も。

バイコヌール宇宙基地は、初の人工衛星スプートニクやガガーリンの宇宙初飛行など旧ソ連の宇宙開発の輝かしい歴史を担った場所です。ソ連崩壊後、その地はカザフスタン共和国になったため、ロシアは年間1億6500万ドルを払って租借しているそうです。落下事故や環境汚染といった問題も抱えつつもカザフスタン国家にとってはいい家賃収入になっているのかも知れません。

ちょうど朝のテレビのニュースで日本人宇宙飛行士がソユーズで宇宙に飛び立ったことを伝えていますが、TVの向こう側の村ではまたいつもの天気予報のようにロケットが降っているのでしょうか。


by hn-nh3 | 2017-12-20 08:28 | 写真 | Comments(0)

8月のプラハ(1968)

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プラハと写真の話の続き。前回の記事(「5月のプラハ」)で少し触れた写真家 ジョセフ・クーデルカ。彼が1968年のチェコ事件に遭遇して撮影したものをまとめた写真集があったので、思わず買ってしまいました。2014年に東京国立近代美術館であった彼の回顧展は行った記憶がありますが、2011年に東京都写真美術館で行われた「プラハ侵攻 1968」の展覧会は未見でした。その時に合わせて出版された日本語版写真集(原典は2008年に発表)

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ジョセフ・クーデルカ Invasion 68 Prague /プラハ侵攻 1968 平凡社 2011刊

版形は31.8×24.6cm 厚み2.6cm 295 ページ。でかいです。
表紙はシルバーに黒のロゴタイポでまとめられて至ってシンプル、かっこいいです。大きさの比較で、机の中に眠っていた未現像のフィルムを横に置いてみました。と言ってもフィルムなんか最近使わないから、大きさのイメージが掴めないですね..

Amazonで中古本を買ったのですが、表紙に少し使用痕がある程度で美品。プレミアついて当時の価格よりも高いですが、それでも中身の質と洋書を買うこと考えたら、全然お買い得。

この本の出来事の前提として少し説明しておくと、1968年1月、ワルシャワ条約機構の一員として社会主義国だったチェコスロバキアで、A.ドプチェクがチェコ共産党第一書記に就任。「人間の顔をした社会主義」を掲げて、検閲の廃止や市場経済の導入など、「プラハの春」と呼ばれる民主化の流れが生まれます。改革はやがて体制批判など党の存在基盤を揺るがす話にもなり、波及を恐れたソ連が突如、同盟国であるはずのチェコに軍事介入。ドプチェクは拘束、モスクワに連行されてしまいます。

(以下、写真出典は全てこの本より)
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冒頭に当時のラジオ局の放送の内容。1968年8月21日の未明にソ連軍が国境を超えてチェコ国内に侵攻。暴動などソ連軍に占領の口実を与えるような動きをしないよう市民に呼びかけるなど、緊迫した状況を伝えてきます。チェコとスロバキアとの微妙な空気感の違いも読み取れて興味深いです。

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侵攻するソ連軍と国旗を掲げて抗議するプラハ市民。銃を持っての武力抵抗にエスカレートしなかったのは、ラジオ局の放送が功を奏したのか。ソ連兵の乗る装甲車はBTR-40でしょうか。この時代の車両にはあまり詳しくはないのですが、ミリタリーモデラーのブログとしてはその辺りも少し触れておきます。

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プラハを占領するソ連軍車両。車両はASU-85空挺戦車か。撮影したジョセフ・クーデルカ(チェコ語読みではヨゼフ・コウデルカ)は当時30歳、航空技術者の職を辞して写真家としての道を歩み始めたところで、ルーマニアでのジプシーの撮影旅行から前日に帰国してこの事件に遭遇、その後の人生を大きく変えていく写真を撮ることになるのです。

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夜が明けて現れたソ連軍。戦車はT-54/55。BTR-152装甲車なんかも写ってます。識別マークとして白いラインを車体に描いているのがわかります。

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抵抗するプラハ市民。バスのバリケードを突破しようとするASU-85の姿が当時のニュースフィルムにも残ってます。

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抗議のデモに向かう市民の車列。撮影はプラハ市内のCKD工場の裏だそうです。CKDと言うとドイツ占領時代はBMM工場という名前で38(t)戦車やHetzer駆逐戦車を作ってた場所ですね。ミリオタ以外にはどうでもいい話ですが

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デモ隊の運転するこの車はなんだろう? こういうの好きなんですが、知識がなくて車種がわかりません。

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抗議集会。長くなるので紹介しませんが、抵抗する市民の姿をクーデルカは克明に追っています。見開きで30×50cmの写真はとにかく圧巻。これらの写真は当局の目を盗んで西側に持ち出され、匿名の写真家の撮影したものとして事件の真実を伝える大きな役目を果たします。
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クーデルカ自身は1970年にイギリスに亡命。これらの写真が自分の撮影であると名乗ることができたのは、国内に残る父親が亡くなり家族への迫害の危険が去った後の1984年。ロシアでゴルバチョフのペレストロイカが始まったのが1985年だから遠い話ではないことに気づかされます

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トレーラーの落書き。モスクワに帰れ!というメッセージ。1968年のソ連軍侵攻、1938年ミュンヘン会談で決まったナチスドイツによるチェコ併合。大国の都合で翻弄される小国の歴史の哀しみが伝わってきます。

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チェコ事件を伝えるこれらの写真は、映画「存在の耐えられない軽さ」でのプラハの騒乱のシーンの考証に使われたそうです。
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「存在の耐えられない軽さ」監督:フィリップ・カウフマン 1988年製作 171分

ミラン・クンデラ原作の小説の映画化。自由の風が流れ始めた1968年のプラハを舞台にダニエル・デイ・ルイス演じる脳外科医のトマシュ(ただし無類の女たらし)と彼に恋をしてしまった写真家志望のテレーザを演じるのはジュリエット・ビノシュ。彼らも否応なく事件に巻き込まれてしまいます。
ニコニコ動画ですが、http://www.nicovideo.jp/watch/sm6119205
この動画の11分あたりから騒乱のシーンが再現されてます。当時のニュースフィルムと再現映像をつなぎ合わせて、ソ連軍の侵攻してきたその時、彼らが本当にそこに生きていたかのように見せてます。

深夜のプラハに戦車がやってくる映像はさすがにT−55は借りてこれなかったのかT-34/85が「代役」を勤めているのはご愛嬌ですが、深夜の痴話喧嘩の最中に突然地響きでテーブルのグラスがカタカタと音を立て始めて異変が起きていることを気づかせ、そのまま広場を埋め尽くす群衆と戦車のシーンに繋がっていく編集は見事。テレーザは夢中で写真を撮りまくり、取材に来ていた西側の記者にフィルムを託すくだりはクーデルカの姿がダブります。

映画のこのシーンの続き(http://www.nicovideo.jp/watch/sm6120939)では、少しネタバレになりますが真実を伝えるために撮った写真が当局によってデモに参加した市民の告発に使われます。西側の記者に託してニューヨークタイムズに掲載された写真が「証拠」として使われてしまうシーンはたまらなく切ない。

それにしても、この頃のジュリエット・ビノシュは可愛かったですね。当時、招待券をもらったとかでガールフレンドと試写会に行った記憶があります。レオス・カラックスの「汚れた血」に出演してた時もよかったな。
...こんなこと言ってると、歳がバレるのですが。

by hn-nh3 | 2017-11-19 18:19 | 写真 | Comments(8)

5月のプラハ

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1945年5月5日、ベルリン陥落の後、当時ドイツ領出会ったチェコに侵攻してくるソ連軍に呼応してプラハ市民が武装蜂起。5月9日にはドイツ降伏となるので、いわゆるプラハ蜂起は都合4日程で終結。その時の混乱の中でも写真は意外に残されていて、冒頭のベルゲパンター?に37mmFLAKを搭載した改造車両など戦争末期の風変わりな車両がいろいろと記録されています。

蜂起軍のクレジットには載ってこないようなので、ドイツ軍がこの車両を使用している状況(蜂起部隊を警戒中?)を写したものと推測されます。
広場に面した窓から撮ったこの写真は、いったい誰がここから撮ったのだろう?

忘れがちではあるけど、写真は「誰かが写した」ものということ。忘れがちだけど。
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決起したプラハ市民を写した写真。この緊迫した場面でカメラを構えていた人間は間違いなくチェコ民兵と同じ側に立つ「味方」のカメラマンであったと思われます。だからこそ、立ち上がった市民が銃を構える場面を撮ることができて蜂起の瞬間を間近に記録した貴重な写真を今に伝えています。
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ここで気になるのは状況の複雑さ。このような写真は決して「普通の市民」が散歩の合間にポケットカメラで撮ったものではなく、その殆どは目的を持って「写真家」が記録した写真だったのではないか。というような話。

チェコスロバキアは1938年にナチスドイツに併合されて、ドイツ軍として連合国相手に戦っていたのだから、チェコの工場で生産される戦車(38t戦車やHetzer駆逐戦車)はドイツ戦車として前線に送られていたように、写真を撮ることを仕事としていたなら、当然にドイツ軍の様子を記録するカメラマンでもあったのかもしれない。
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この写真はいわゆる「プラハのヘッツアー」を撮ったもの。プラハ市内の工場で最終組立てをしてドイツ戦車として完成する前に蜂起部隊が奪取して未完成のまま使用した蜂起軍車両です。昨日まではドイツ軍に所属してドイツ戦車を撮っていた写真家も、その翌日には蜂起軍側で蜂起軍車両の写真を撮っていたのかもしれない。この戦車のように。

もちろん、中立的に撮っていたカメラマンもいただろうし、戦場カメラマンには弾は当たらない(敵味方の双方から撃たれない)という話もあるけど、蜂起したプラハ市民が勝利するのかドイツ軍に制圧されるのか帰趨がわからない状況で「何処に立って何を撮るのか」という問題は決して簡単な話ではなかったはずだ。そう思うと、残された写真にはカメラマンの立ち位置も写り込んでいるような気がしてくる。

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5月9日。ソ連軍はプラハを占領する。ドイツ残存部隊の掃討は11日頃まで続く。果たして赤軍は解放軍であったのか。首都にやってきた遠い国の戦車がどのように見えたのか、今となっては確かめようもないけど。

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最後の写真はその23年後。1968年8月のプラハ。
チェコスロバキアにソ連軍が侵攻。「プラハの春」と言われる民主化の運動はあっけなく潰されます。
プラハに侵入したソ連戦車とそれに抵抗する市民の様子を写した写真は密かに西側に持ち出されて、撮影した写真家の名は伏せられた匿名の写真としてロバートキャパ・ゴールドメダルを受賞。その有名な写真がジョセフ・クーデルカの撮影であったと明かされたのは、その16年後(1984年)のことだったという。
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by hn-nh3 | 2017-11-13 21:52 | 写真 | Comments(8)