断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

一円陣地

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カンヌでグランプリ(パルムドール)を受賞して話題になってる是枝裕和監督の映画「万引家族」はまだ見に行ってないのですが、その映画に出演していて、前から気になっていた安藤サクラ主演の映画「百円の恋」をツタヤで借りてきて遅ればせながら見る。
... 32歳のニートの主人公(安藤サクラ)と彼氏(新井浩文)のダメ女、ダメ男っぷり、そしてボクシングに目覚めて変わっていく主人公のかっこよさといったら。しびれましたね。

そんなDVDを観たり散歩したりで模型制作はなんとなく停滞気味。KV−1も手を動かしてはいるけど....その話は次回ぐらいかな。

100円ショップのレジ脇にはついで買いを誘うスナック菓子があったりするけど、秋葉原YSのレジで振り返ると、艦船用のカスタムパーツが壁から下がっていて手持ち無沙汰にこっちを眺めていたりするんですよね。

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自分、艦船ものには手をださないようにしてるので、その誘いには乗らない。...はずだったのですが、レジ待ちでふと見たら、なんだか聞き覚えのある高射砲の名前。八九式12.7cm高角砲。

大戦中の戦艦や駆逐艦などに搭載されていたものですが、地上の高射砲陣地にも配備された高射砲だったりします。

もっとも、都内の陣地ではスペックの低い八八式7.5cm高射砲がメインで小岩の陣地には12.7cm砲があったけど単装タイプ。この連装の八九式12.7cm高角砲は、近郊では前に記事にした小坪(逗子披露山)砲台など、横須賀軍港のような重要拠点の周囲に限定的に配備されたと想像します。

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守備範囲外の艦船模型でしたが、このファインモールドの1/700の高射砲のキットだけは、そんなことを理由にわが家に配備されてしまったのです。しかしパーツの細かいこと。ナノ・ドレッドと銘打ったこのシリーズはスチロール樹脂にABSを配合して強度を高めたとかで驚異的な細かいモールドを実現していて、1/35 AFVモデラーには眩暈を覚えるばかり。一箱に4セット入り。

組み立ては両手にピンセットを持って外科医になった気分で悪戦苦闘、パーツを飛ばすなどのアクシデントを乗り越えてなんとかひとつ完成。こんなことを軽々と100回繰り返せる艦船モデラーを尊敬しますね。
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とても小さな高射砲モデル。写真に撮っても小さい。

前に描いた小坪砲台の図面を1/700に縮小してプリントした紙の上に試しに配備してみました。1/700スケールの八九式12.7cm高角砲の陣地の完成。
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直径12mの円形の砲座も1/700スケールに変換すると直径1.7cm。プラ板をサークルカッターで切り出して積層するなどして、コンクリートのすり鉢状の半地下構造を再現したいところでしたが、その小ささにちょっと心が折れました。
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比較のために隣に一円玉。硬貨の直径は2cmだからそれより小さい。

吹けば飛ぶ紙の上に構築された一円陣地はつかの間。身捨つるほどの祖国はありや。
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# by hn-nh3 | 2018-06-17 06:18 | 構造物 | Comments(4)

青戸(白鳥)高射砲陣地

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昨年から追跡中の高射砲陣地の跡地サーベイ続編。今回は都内、葛飾区 白鳥三丁目にあった青戸(白鳥)高射砲陣地。

自分の把握している範囲では都下(多摩地区、島嶼部除く)の高射砲陣地は二十数箇所。しかしその殆どは遺構を留めることなく、北の丸公園、白鳥、調布、下仙川に高射砲台座の一部が残るのみ。その中でも白鳥の遺構は街と一体化しているものとしてユニーク。図の赤く色をつけたところがそれ。

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月極駐車場の中に残る高射砲の台座。ターンテーブルのようにも見えるけど、戦前と終戦後に撮られた空中写真でこの位置に高射砲陣地があったことが確認できるので、それと考えて間違いはないと思われます。

d0360340_18514754.jpg測ってみると、円の直径は4.5m。中央にアスファルトが充填されている8角形の穴。穴の周りには9cm幅の縁取りがあることを見ると先に縁取りをつくってコンクリートを流し込んで8角形の穴をつくったと推測。他の事例から、そこに高射砲を固定するボルトが埋め込まれた構造物があったと想像できます。

周囲のコンクリートの一部に9×18cmの長方形の穴があるのが確認できるものの、これが何かは不明。当時からのものだとすれば高射算定器(軌跡計測用の計算機)からの信号ケーブルの取出し管があった可能性あり。

遺構から得られる情報は限られることからディテールの考察はこのくらいに留め、陣地全景を見てみます。

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1944年(昭和19年)11月3日 陸軍撮影の空中写真。不鮮明ではあるものの、扇型に配置された6基の陣地が3組。写真右上の円形に整地された場所は電波標定機(レーダー)サイトと思われます。

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1949年(昭和24年)9月7日 米軍撮影。高射砲陣地の形状がはっきりと確認できます。それぞれの陣地には円形の台座の周囲に3個のボックス状の構造物が配置されてます。即応弾の保管庫と推測。扇型に配置された円陣の扇の要の部分には高射算定具を置く観測所があるのが基本的なパターンで、昭和19年の写真ではおぼろげながら確認できるものの、戦後の写真では既に消失。右上の円形のスペースも消えてしまってます。

しかし、さすがに高射砲本体は撤去されているものの、台座と弾薬庫がほぼそのままの風景が戦後4年経っても残っていたということには少し驚かされます。空中写真はともに国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより。

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陣地を青で表記、現代の地図(黄色)を重ねてみます。道路など街の構造が変わってないので、位置の同定は難しくない作業。

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現在の地図(ゼンリン住宅地図)と戦前の高射砲陣地の関係。

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図の上が北。6基×3組。合計18基の高射砲座は北東方向に向かって展開しているのは、東京全体とこの陣地(赤いフラッグの位置)との関係を見ると明らか。房総半島を大きく迂回して東京都心部に北東方向から侵入しようとする敵機に備えた陣形。

Wikipediaの青戸の項によると昭和20年2月の応戦時にB29の1機に損害を与えたとの記述。もっともその命中弾は、この南側の地区を受け持つ小岩篠崎の陣地からとの説もあるとのこと。このときの空戦で葛飾区役所が全焼したそうで、3月の東京大空襲の少し前の出来事ですね。

近年の映画「この世界の片隅に」を見た人も多いと思います。あれは広島の呉での話でしたが、来襲する敵機に応戦する高射砲の弾幕がどこの陣地から発射されたのかを識別できるように着色弾になっていて空に絵の具を散らしたような雲ができる、というシーンがありました。そうした弾を使わない限り、また夜間の応戦などではどこの陣地の戦果かという識別はなかなか難しかったようですね。

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撮影場所は不詳とのことですが、戦後米軍が撮影した高射砲陣地の鳥瞰。前に記事で紹介した「米軍が見た 東京1945秋」からの引用。扇型に配置された砲座はそれぞれ周囲に配置した即応弾庫を覆うように土塁を築いて防御力を高めています。

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青戸の陣地も戦前の空中写真を見ると、砲座のまわりに土塁が築いてあるようにも見えます。しかし、戦後撮影の写真では北側の列は土塁が残っているように見えるものの、中列、南側の列では、砲座のまわりの3つの即応弾庫が露出していて、これが戦後に土を取り除いたものなのか、元々土塁はなく露座であったのかは不明。

前に記事でも取り上げた下仙川の高射砲陣地でも、周囲に土塁があったか、露座であったのかがはっきりしなかったのですが、その後、他の場所の陣地の空中写真を見るとどう見ても土を取り除いた痕跡のないものもあることから、土塁のあるものと露座のタイプの両方が存在していたのではと想像している。

考えてみれば、戦艦などでもシールド付きの高射砲の横にシールドがない砲座があったりすることから、同様に高射砲陣地でも同じ陣地でも並存していた可能性は大。

駐車場に残る砲座跡を実測、図面化しておきます。(クリックで拡大)
周囲の断薬庫の位置、サイズなどは空中写真から割り出した概略寸法にて作図。中央部の高射砲固定用ボルトの本数などは類似の事例からの推定復元。

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青戸の陣地で確実に現存している砲座は3基。冒頭の写真で紹介した駐車場の砲座は図の6に該当。残る2と3を見てみます。

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d0360340_06044575.jpg図の2。町工場の基礎に化けている台座。「東京の痕跡」(遠藤ユウキ 著:同分館出版 2008)という本でも紹介されている遺構です。実際に見ると果たしてこれがそうなの?という感じがしないでもないけど、位置は確実に空中写真に写る砲座と一致。台座の半分は道路工事で削られ、残りの半分が工場の建物基礎と一体化している模様。

自転車が停められていて全体が見えないのが残念ですが、そこだけ一段高くなっていて、内部の床もそれに合わせて高くなっているようです。

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写真左は、自転車越しに撮った基礎の段差になっている部分。コンクリートの構造体が建物に食い込んでいる様子がわかります。写真右は、切り取られた台座中央部付近に露出する何かの配管。台座の中央部分に該当することから、高射砲に電源を供給するケーブル用の配管であったのかもしれない。

コンクリートの上面は後年の補修が入っているものの、側面は切り取られた台座コンクリートの断面が露出していると思われます。長年の風雨にさらされてコンクリートに混ぜられた砂利が露出。丸みを帯びた川砂利を使っているのは戦前の構造物の特徴。そうでなくても、資源枯渇で河川から砂利の採取が禁止された1960年代以前のものであるのは確か。ちなみにそれ以後のコンクリートは山から採取した砕石を使用しているのでそこで年代の判別が可能。

ちなみに、配備されていた高射砲は99式8cm単装高射砲。(出典:「東京の痕跡」)ドイツ クルップ社の8.8 cm SK C/30をコピーした対空砲で、有名な8.8cm FLAK36/37とは別物のようではあるが、それでも射程は1万mまであったというから、B29に応戦することも可能。

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図の3の台座が残されているのはこのアパートの敷地の奥。通りからはよく見えないのでアパートの階段をすこし登ってみます。

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露出した円形のコンクリートの台座の一部が給水タンクの基礎に転用され、残りの部分は隣の建物の下まで伸びていると想像。
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建物の隙間越しに横から見たところ。台座が3つの建物の敷地にまたがるように存在していて、敷地境界のブロックもその後に怒れたためか、台座を跨ぐような状態になっています。戦後の空中写真を見ると、畑だった民有地に建設されたようで、畑の畝をまたいで配置されているのが確認できます。台座は撤去せずにその畑の持ち主ごとに建物を建てたからこんなことになってしまったのか。左側の建物の中に入って畳を剥がして床下がどんなことになっているのが見てみたい気もします。

不思議なことですが、こういった軍用遺物は戦後に行政の責任で撤去したりしなかったんでしょうかね。あるいは戦後すぐに宅地化して建物が建てられてしまい、その後撤去しようにも敷地境界を跨いでそれぞれの建物基礎に利用してしまっていたので取り除くこともできずに現在に至っているのか。

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図の5の台座の場所には現在は消防団の倉庫といった風情の青い小屋が建ってます。これも何らか関係がありそうですが、地図と照合すると、台座の一部が小屋にラップする関係。小屋を外側から観察する限りは基礎に利用されている形跡はなく、おそらく撤去整地された後に建てられたものと想像。ただ、台座が残っていて使い方を持て余していた土地の利用法として、台座を基礎にこのような小屋を建てて使ったその「用途」が引き継がれて、台座も当初の建物が無くなっても機能し続けているのかもしれない。想像ではあるけど。

これらの青戸(白鳥)高射砲陣地の跡地観察は、このサイトの記事に多くを得ているのでそちらも参照。

そのサイトでは他にも台座残存の可能性を指摘しているので、それも見てきました。

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中列の砲座の多くは現在、8階建てのマンションの敷地になってますが、その一部が残っている可能性について。

d0360340_08320762.jpgマンションの床下に台座が残っている可能性が指摘されてましたが、可能性があるとすれば図の8、9、10の台座が該当。しかし、このような大型の建物で重機があれば撤去できるような障害物をわざわざ残す可能性は少なく、床下に見えたのはおそらく写真のようなマンションの柱の下にある基礎杭の頂部。これは参考までに、撮りやすい場所にあった建物南端の基礎の写真。

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むしろ残存の可能性があるとすれば図の11の台座。マンションの敷地の一角につくられた公園。そこであればマンション建設でも撤去する必要はなく、なんらかの痕跡が残ってるのではと期待して行ったものの、見事にリセット済み.. 兵どもが夢の後。

これを見れば、マンションの床下に台座を残したまま工事を行う可能性はなかったと判断するのが妥当か。

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南側の列の砲座の15、17が残存する可能性ありとのこと。

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図の15。砂利敷きの駐車場の奥にアスファルトで覆われた部分が台座の跡ではと指摘している記事は多いものの、地図と比べると位置が少し違うようだ。地図と航空写真の重ね合わせの精度のこともあるので断言することはできませんが、戦後の空中写真を見る限り台座はもっと道路側、手前の2台の白い車の辺りにあったはず。

このサイトの写真を見ると、その道路に近い位置に何かの構造物の痕跡が露出していた形跡があるのは、おそらくそれが台座の残骸であり、近年にそれは撤去されてしまったと考えます。したがって現在この砂利駐車場の真ん中に残るアスファルトは台座とは関係のないもの。

図の17の台座のあった場所には現在木造平屋の物置が建っていて、通りから覗ける範囲では物置の床がコンクリートになっていることまではわかります。ただそれが台座を利用したものなのかまでは外から眺める限りは判断不能。民有地の建物の中の話なので調べるには所有者の承諾が必要となることもあるため、リサーチはここまで。
この他の場所にも台座が残存する可能性はあるものの、アポなしで観察できる範囲でわかるのはこのぐらい。

今回の追跡で台座が確実に残存すると確認できたのは図の2(町工場基礎).3(タンク/住宅基礎).6(駐車場)の3基となりますが、少し気になっていたのは地上への露出のレベル差。6の駐車場では敷地地面とフラット、道路面からは10cm程度のレベル差。3のタンク/住宅基礎は敷地内地表から15cmほど露出、道路との高低差で考えると25cm程度。2の町工場基礎は、道路面から30cmほどの高低差。
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下仙川の陣地の台座の残骸のように宅地造成の時に撤去移動、町内会看板の土台として再利用したという話であれば地表面から大きく露出していても不思議ではないけど、この青戸の高射砲陣地で当初からの位置が変わらず残っているとすれば、台座間の地形とのレベルのずれは当初からのものだったと想像します。

となると、ここでひとつ推理をすることになりますが、おそらくは6基の砲座を高射算定具と接続して連動制御する都合、射撃精度の確保のため、連動する台座の設置レベルは水平に揃える必要があったのではないか、と。
射撃用の水平なプラットフォームという「仮想地形」と畑の中の建設地というゆるやかに傾斜した原地形との場所によるレベル差が、台座の露出の仕方の差になって、その後の「用途」の違いが生まれたと考えると、ちょっと面白い。
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都下の高射砲陣地については、他にも少し気になったことがあるので、いずれ機会を見つけてまた書いてみる予定。
これまでの高射砲陣地関連の記事を下にINDEXとして整理しておきます。


More
# by hn-nh3 | 2018-06-11 12:40 | 構造物 | Comments(0)

7年目(Semovente da47/32)


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何を隠そう、デモデリ1号:Semovente da47/32。2011.12-
ずっと離れていた模型趣味が復活するきっかけとなったイタリアの小型自走砲。AMAZONでたまたま見つけて、とっくに模型作りをやめていたのにどうにも抑えきれなくなって買ってしまったのが7年前。

カッターだけは他にも使うことあったから残してあったけど、ニッパーも接着剤も塗料も資料も全て処分。模型を作る環境がきれいになくなっていたから、届いてしまったAMAZONの箱の中のキットを前に呆然としましたね。100円ショップでニッパー買って、パテ替わりにする瞬間接着剤をコンビニで買って、ヨドバシカメラでリモネンセメントという「身体にいい」接着剤買って、これを作ったら.. ふたたびこの気持ちに蓋をしようと思いつつ。

d0360340_13024370.jpgキットはイタレリ。 イタリア軍の軽戦車L6をベースに47mm対戦車砲を搭載したオープントップの車両。300台が作られて、チュニジア、シチリア、そしてイタリア降伏後のドイツ軍でも使用。
 
小型車両が好きで自走砲好み、イタリア車両が好きだったので、これ見たら、やっぱり作るしかないという気持ちになってしまいました。2011年の暮れの頃。

しかし、制作は大変でしたね。長いブランクあったし、モールドは繊細でも嵌合はいまひとつで歪みがでないように隙間を埋めたりしながらの作業。おまけにリモネンセメントが初期強度が低いなんて知らなかったから、パーツがくっつくまで手で押さて息を止めて、履帯なんか1コマ1コマ接着しながら組み立てましたよ。

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塗料は水性アクリル系のライフカラーを四谷仙波堂で購入。内部の塗装、タイヤのゴム、履帯や車載工具など鉄部を塗り分けて、さて.. マーキングとウェザリングはどうしよう? と手が止まったところで長考に入ってそのまま現在に至る。

とりあえずの基本塗装が終わった段階です。これをブログに載せるかどうかはちょっと迷ってましたね。組み立て途中だったらどう見ても未完成の姿で「経過報告」というスタイルをとることもできるけど、基本塗装完了という状態は一番始末が悪い。作品としての完成には程遠いけどプラモ的には完成ということもできる訳で..
だけど、恥を忍んで見せてしまいましょう。箱の奥にしまい込んでいても仕方がないし。Let It Be.. ありのままに、なすがままに。

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イタリア戦車の後ろ姿、いいですね。CV33 ..L6/40軽戦車系、..M13/40中戦車系..と基本的なパターンは不変。

戦闘室内にコードを加したり、車体後部のワイヤーを電線ほぐした銅線を捻って自作、ワイヤーを引っ掛けるフックをエッチングパーツの余りの真鍮板で自作したぐらいで後はほぼ素組み。また時期を見てウェザリングとか手を入れてみたいですね。

これ完成させたらもう一度やめようと思ってたけど、まだ未完成。結局7年もまたこの趣味続けてます。


追伸)
Let It Be.. 何気なく文中でこの言葉を使って、久しく聞いてないことを思い出した。
あらためて聞いてみるとやっぱりいいね。泣けてきた。
The Beatles:Let It Be (album ver.)



# by hn-nh3 | 2018-06-06 14:09 | Semovente | Comments(8)

四谷の穴(後編)

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地下鉄丸ノ内線の四ツ谷駅前にある大きな穴の話の後編。(前編はこちら
駅の改札口と四谷見附の交差点の間に縦横30mほどの未利用の窪地。ここが江戸城の外堀の一部であったことは地図で確かめられたものの、どうして何も使われない穴として残されているのか。

d0360340_16234565.jpg何か手がかりはないかと穴の周囲を観察してみると、厳密には「穴」ではないことに気がつきます。一見すると、周囲から陥没した窪地のように見えるものの、東側のJR中央線の線路敷とを仕切っている通路はコンクリート製のブリッジ。

切り通しのようになっている外堀を埋めてJR中央線の線路を通した堀跡の地形が、ブリッジを超えてそのまま伸びてきて「穴」の底と繋がっているのが確認できます。前回の記事に載せた終戦直後の写真に写っている畑になっていた地形がそのまま残っていると思われます。

d0360340_16495737.jpg低くなっている地形を地図に落とし込んでみます。薄いグレーグリーンで塗ったところが外堀跡の低地と堀の縁の斜面。青い点線は外堀の水面あったところの推定ライン。そして黄緑色の変形5角形の「穴」のエリア。

中央線に沿って連続した堀跡の低地を横断する四谷見附橋と丸ノ内線改札から橋に向かって伸びるブリッジ。丸ノ内線の線路の上に蓋をしてつくらた改札前の小広場で囲まれた部分が結果として穴のように見えていることが、地図に描いてみると理解できます。

穴の底は、かつての水面だったところですが、建物を作ることができない底なし沼のような軟弱地盤ではないことを知るために、大きな地図を作ってみました。

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江戸城があった範囲の地形がわかる地図です。国土地理院の治水地形分類図に江戸城の堀割りを何かの図から抽出してオーバーレイ。濃い青で着色した部分が江戸城の堀やそれにつながる小河川と運河。それにWikipediaにあった地下鉄路線図から銀座線と丸ノ内線を重ねてみました。数ある地下鉄路線からこの2つの路線を選んだのは戦前戦後の早い時期に作られた地下鉄で深度の浅い部分を通しているため、地形との関係がわかりやすいと思ったからです。

オレンジ色のエリアが台地の部分。江戸城は東側の低湿地に向かって伸びる舌状台地の地形を利用しつつ、台地の尾根の部分を土木工事で切断して堀を通して防御力を高めています。尾根部分を切るのは城郭用語で「堀切」という手法で尾根伝いに敵が侵入するのをふせぐ陣地構築法です。江戸城の内堀と外堀の西側のラインはともに「堀切」によって作られているのが見てわかります。図の左側のエリア、件の「穴」のある地下鉄丸ノ内線の四谷駅の辺りは、緑の点線で示すように、尾根の頂部を切断するように切削して堀を通しています。

地下鉄丸ノ内線の線路は、戦後の資金難で地表の浅いところにトンネルを通したため、四ツ谷駅付近の切り通し状になっている堀跡の低地部分では線路が「空中」に露出、再び迎賓館下のトンネルへと吸い込まれる構造になってます。
同じように御茶ノ水駅付近でも、江戸期の治水と防御のため台地の尾根を切って通した神田川を跨ぐように、地下鉄の線路が空中を横断しています。

戦前につくられた銀座線では終点の渋谷駅で空中に線路が飛び出す以外は地下トンネルですが、なるべくトンネルが堀やすいように地盤のいい場所を選んで通しているようにも見えます。東側の新橋から銀座、日本橋、神田そして浅草に至るラインは地形図をみると、江戸時代以前から陸地であった場所で、それをトレースするようにトンネルを掘っているのがわかります。そうした場所に江戸の町が発展していた、ということもできますが。

話を四谷の穴に戻すと、台地の尾根が走っていた地形を切削してつくった堀なので、堀の底は岩盤とは言わないまでも地山のかなり硬い地盤であると考えて間違いはないでしょう。明治期に堀を埋めた埋戻土はさすがに使えないにしても、その下の原地形まで基礎の杭を届かせれば問題なく建物は建つ、はず。
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それでも穴は何十年も穴のまま。という状況には何か別の理由がありそう。

ピンときたのが、法律や権利の関係で建物が作れない場所。というようなこと。
たとえば、河川や池、運河など国が管理する水面は、不動産用語的には「青道」もしくは「青地」と言われていて、土地の用途(地目)が宅地や畑ではなく「青道」となっている場所には原則建物を建てることはできないのです。
たとえば、その昔に水路があった場所で、現在は埋め立てられて周りの土地と平らになっている場所でも法務局にある図面で「青道」となっていると、それが私有地内を通っていたとしてもそこに建物を建てることは法的に許可されません。水路を廃止して国から払い下げを受けて地目を「宅地」に変更して、初めて建物が建てられます。

この穴も昔の堀跡だったことから、未だに「青道」として登録されて国が管理している場所なのでは?と思った訳です。

d0360340_17571484.jpg調べてみました。法務局に登録されている、この穴のある土地の「公図」と「登記簿」。公図は土地の権利の境界を示した図面、登記簿はその土地の用途(地目)や面積、所有権者、変更履歴などが記載された公的書類で、法務局にいけば誰もが閲覧、取得することができます。もちろん有料ですが。
最近はインターネットでもとれるから便利な時代になりましたね。

そして分かったこと。この土地は水路ではなく、「鉄道用地」として登録されていました。穴と丸ノ内線の駅舎とホーム、地上に露出した線路の部分を含めて登記されてました。元々は旧国鉄の用地として国有地だったものが昭和60年に国鉄精算事業団、昭和62年の分割民営化の時にJR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)へと所有権が移転、「民有地」となっていました。

鉄道用地とされていたのは予想の範囲内でしたが、所有が東京メトロ(東京地下鉄株式会社:旧交通営団)ではなくJRのものだったのは意外。地下鉄丸ノ内線の四ツ谷駅駅舎とホーム、付近の線路はJR東日本から土地を借りているという扱いになっているようです。したがって、「穴」も敷地はJR東日本の所有。穴に蓋をして駅前広場にしたりビルを立てたりするにはJRの同意としかるべき賃借料が必要だから、簡単には話が進まないということなのでしょうか。以前に穴の底にあった簡易な建物が撤去されたのも、そのあたりの事情が絡んでいるのかもしれません。

元々はなんとなく国有地というぐらいの扱いだったのでしょうが、国鉄民営化の際に民有地としてJRに払い下げられたことであらためて権利関係が発生したようにも見えます。でもなんでその時に地下鉄:東京メトロの所有地にならなかったのか。

おそらく東京メトロは基本的には地下に線路を敷設、さらに原則として道路や水路、公有地の下を通すことで土地の買収や賃借が発生しないようにしていることが理由かもしれません。駅も基本的に地下ですし。
地下鉄のカーブ部分など民有地の地下を通る場合や、四ッ谷駅付近のように地上に現れる部分に限り、賃借料を払うなどの措置をしていると思われます。なので所有しないまでも、事業的にペイするものであれば土地所有者に費用を払って何かを作ることはできます。

それでも四ッ谷駅前の穴が、雑草の生える穴のまま残っているのは何故?

d0360340_19114489.jpgそれは地下鉄だから。地図に色をつけてわかりました。

たとえば、地上に線路を敷設して地上に駅舎をつくるJRなどであれば、駅舎の前にはバスやタクシーなどのロータリー。駅前広場などをセットで整備するのが、基本的な「駅前整備パターン」になっています。収益アップのため、駅舎の上にテナントビルを建てて大家さん業に勤しむのもその延長。

それに対して、地下鉄は基本は地下に線路も駅もつくるので、土地を所有することもなく、だから駅ビルも必要なく、駅前広場もバス乗り場も整備することなく、ただ、地上との連絡階段を作るだけ。ホームから昆虫の脚のような連絡通路と出入口を伸ばして地上とつながるだけ。

丸ノ内線の四ッ谷駅もその例に漏れず、地形の関係でたまたま地上に露出してしまったけど、メンタル的には「地下」にある駅のパターンのまま、なんですね。

改札口から伸びるのは「地上」の四谷見附橋につながるコンクリートブリッジと四谷見附の交差点につながる通路を整備するのがその仕事の範疇であって、「穴」は「連絡通路の外側の土」と同じ、だったのだと想像します。おそらく。

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ちなみに文中で「四ッ谷」と「四谷」とツをつけるかつけないかを使い分けているのは、その使い方にしたがってます。地名は「四谷」、駅名は「四ッ谷」ということになるようです。 読みやすいようにツをつけてるという話ですが、江戸時代の文献にも「ツ」がつく表記はあるようです。その昔、四つの谷ではなく4軒の家(四ツ家)があったから、だとか。

穴の話は本当はちょっとした話の枕でスナップと都市伝説ぐらいで済ませて本題に入ろうと思ってたのですが、いつものくせでつい深入りしてしまいました。穴の写真を撮ったときは2回もひっぱるとは想像もしなかったですが。

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ツ のつかない四谷の話。「よつや」と聞いてピンとこないモデラーはAFVモデラーではないと言っていいくらいの有名模型店。その名は「四谷仙波堂」。駅から5分ほどの小さなビルの3階にある、店内で人が一人すれ違うのが困難なほど商品の積まれた魔窟のような実店舗よりも、ネット上の存在するグリーンバックのホームページ。
その言説空間はひとつの神話だと思います。
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個人的な話になりますが、インターネットが普及した1990年代後半に模型よりもそっちのほうに興味が移って、積んであったキットも机の中の塗料も接着剤もことごとく処分してもう戻ることはないと思っていたのだけど、2011年にふとしたことでAMAZONでイタレリの「SEMOVENTE da47/32」を見つけて、思わず買ってしまったのが再び模型を作るようになったことのきっかけ。

最初はひとつ作ってやめようと思ってました。この趣味が底なしなのは過去に知っていたから。
資料は買わなくてもネットで写真を集められようになってたし、カッターと接着剤と最低限の塗料だけ買って..

その時に見てしまったのが四谷仙波堂のページ。模型店の販促用ページであるからには、基本セールストークであることは承知するにしても、店主の言葉の世界は魅力的でしたね。新商品につけられたメーカーの売り文句のコピペでもなく、3ミリ広いとか狭いとか、毒にも薬にもならない批評でもなく、キットの再現度についてのクールなコメント、モチーフについての熱を帯びた説明。これは面白かったですね。というよりこのページがなかったらAFV模型はもっと寂しい世界だったかもしれません。
だから90年代にやめたんだし、また続けてもいいかなと思ったんだし。
..そしてまた穴に落ちる。

金額的には量販店にはどうしてもかなわないけど、ホームページのキット紹介を見て購買意欲が高まったキットはここで買うことにしてますよ。情報の対価、表現にたいする対価に疎くなってはいけないと思う。

d0360340_20150247.jpgこの間、四谷仙波堂で買ったキット。MIniartの新製品「東欧の家財道具」(no.35584)。

素朴な形のテーブルと椅子。前にカフェテーブルのセットで椅子があったけどあれはトーネット社の有名な椅子をモチーフにしたから、使えるシーンはどうしても限定されていまったけど、これは考証の縛りも少なく使えそう。
ストーブはスライド金型を使ってディテールを再現。たかがストーブなのに。

食器にスプーン、ソーセージなどの食材、そしてちょっと欲しかったサモワール。
前にICMでも女性下着とともにサモワールを再現したキットがあったけど、ディテールはエッチング部品も組み込んだこっちのほうが高精度か。

しかし、最近のMiniArt。アイテムのチョイスも再現技術も素晴らしいですね。ロシアのクリミア併合で本社の移転を余儀なくされたときはどうなるかと思ってましたが、見事に持ち直した、というか次のステージに進んだ感じですね。最近のキットを見ていると。

「東欧」という言葉を聞くと、つい旧共産圏のポーランド、チェコ、ハンガリーあたりを想像してしまうのですが、サモワールとかがテーブルに乗っているのを見ると、ウクライナやベラルーシなど旧ソ連諸国、ウラル山脈以西のロシア、などロシア文化圏のことを「東欧」と扱ってる気がします。そのカテゴリーからするとポーランドとかは中欧という扱いになるのか。といってだからポーラーンドの設定で使えないかというと、そうではなくお皿に乗っているのはソーセージだし。
四谷仙波堂のページでは、戦争末期の東プロイセン辺りの設定でも..と紹介するあたりは、いや流石ですね。

当事者でなければサモワールも乗ってるから、これはロシアの家財道具(ソーセージが乗っているは侵攻したドイツ軍が使っている設定)と言ってくれたほうがわかりやすいのかもしれないけど、ウクライナのキエフに本拠を置くMiniArtとすれば、そこはロシアではなく東欧、なんでしょうね。やっぱり。
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# by hn-nh3 | 2018-06-01 21:43 | 構造物 | Comments(7)

四谷の穴

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そろそろ梅雨が始まるのか、空の青さは先週までの四ツ谷駅。ここで降りるのは迎賓館にお呼ばれする用事か、四谷仙波堂に探し物を見つけにいく時ぐらい。前者は未だ話はなく。

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地下鉄、丸ノ内線の改札を出ると相変わらず目の前には巨大な穴。普通はタクシーロータリーなどありそうなものだが、この駅前はというと、四谷見附の交差点に面して周囲から陥没した30mほどの雑草の生えた穴が空いているのだ。

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Google Mapで見るとこんな感じ。都心の一等地に意味不明の三角形の穴の空いてる謎。Google先生に聞いてもよくわからないんですね。昔ここは江戸城の外堀だったところで地盤が悪くて建物が立てられないとかそんな都市伝説めいた話があるぐらいで。少し前に気になって調べたときはいくつかヒットした話も、もう一度調べたらその記事もなくなってしまっていて、この穴のことはもう誰も気にしていないのか気にしてはいけないのか。

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穴が空いてる理由を考えてみます。画像はiPhoneアプリの「東京時層地図」から。現在から明治までの地図や航空写真などが重ねられていて場所の移り変わりがとてもよくわかるので好きなアプリです。

左が現在の地図。赤い丸で囲んだところが穴の空いている場所。中央の地図は明治16年(1883年)頃の地図。そこが旧江戸城の外堀であったことがわかります。右の図は現在と過去を重ねたもの。外堀だったところにJR中央線(旧甲武鉄道)を通して四ツ谷駅をつくり、戦後に地下鉄の丸ノ内線が開通して地下鉄の四ツ谷駅ができて、その二つの駅に挟まれた部分に、その穴が空いています。

外堀の水面だった部分、かつての堀の底なので地盤が悪くて建物を建てるのに向かないという説もあるようですが、そんなこといったら湾岸の埋立地なんて地下数十メートルまでの杭を打って建物を立ててるぐらいだから今の技術をすればなんら不可能はない話。それに外堀のこの部分は台地を掘削して作ったものだから堀の底には硬い地面があると想像します。これを地盤が悪いといったら、干潟に木杭を打って建物建てたベネツィアなどは未だ水の底。

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同じく「東京時層地図」から空中写真と地図。右の地図は明治42年(1909)年の姿。中央線の線路敷が堀を横断しているのがわかります。その頃は例の穴の部分はまだ水面。中央の写真。終戦直後の昭和22年(1947年)に米軍が撮影したもの。

d0360340_19585924.jpg四ツ谷駅付近を低空から撮った写真。前に紹介した「米軍が見た 東京1945年秋」に掲載の1枚。1945年8月25~9月1日撮影。

四谷見附の交差点の手前、この頃はまだ地下鉄丸ノ内線はなく、穴のある場所は、外堀を埋め立てた低地の状態。戦時中につくったのかその頃は畑になっていた様子。

その横の中央線のホームの手前に、今はない跨線橋が確認できます。現在の迎賓館方面に抜ける出口が当時はあったのでしょうか。

昭和38年(1963年)の空中写真を見ると、地下鉄丸ノ内線(1954年開業)が見えます。この部分は地上に現れる地下鉄の線路敷とその上に高架状につくられた丸ノ内線の駅舎。穴の部分は、鉄道用の付属施設でしょうか、いくつかの建物が並んでいるのが見えます。
(写真と図版はいずれもクリックで拡大)
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1979年と1984年の写真では穴の中の建物はいちど消滅して、1992年には再び現れて現在はまた無くなってます。

ゼンリンから発行されている最新の地図に穴(黄緑に着色した部分)と昔の江戸城の外堀の位置を青い点線で重ねてみました。堀割りのラインは明治の頃の地図を参考にトレースしただけなので、あくまで位置は目安。変遷を見ると、元々の堀割の地形が残る穴の底は、今まで建物が全く建てられなかった訳ではないけど、結果として空地になってしまっているようです。

駅ビルとは言わないまでも穴を埋めてしまってタクシー乗り場にしたら便利なのにとか、せめて駅前広場ぐらいには整備したらいいのに、とも思いますが。ひょっとして穴のままにしておかないといけない理由があるのか?

穴の下には迎賓館へと続く秘密の地下トンネルがあって塞ぐことができない...とか。穴の底にはたどり着けた人の願いが叶う秘密の小部屋があるのに階段を降りて行った人たちは誰も帰ってこなかった...とか。戦時中に動物園から逃げた象が今もかくまわれている..とか。

人知れず囁かれ続ける都市伝説のように妄想は膨らむものの、見えているのはただの空虚な穴。(後編に続く

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# by hn-nh3 | 2018-05-31 22:40 | 構造物 | Comments(2)

難民カート

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MiniArtからメールマガジンが届きます。何か登録したっけな?と思いつつ、好きなメーカーではあるからそのままにしてますが。

LUGGAGE SET(No.35582)がもうすぐリリースとのお知らせ。2018年のカタログにホワイトバックのモデリング画像で発表されたときになんとなく気になってましたが、このボックスアートを見て、やっぱりそうなのかと。
タイトルは1930〜40年代荷物セットとなってるけど、廃墟の街を背にした荷物は、夏のバカンスのためのものではなく、これは故郷を追われる人々の荷物なのだと。
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d0360340_19281217.jpg難民の話はこの前の記事:荷車メモ で少し触れましたが、このキットから想像されるのは1945年のドイツ人追放

敗戦で1200万人とも1600万人とも言われるドイツ人が旧領土や占領地から追放されたと言われています。当時のドイツ人の5人に1人くらいの人が住む場所を失った、ということでしょうか。着の身着のまま身の回りのものをカバンに詰めて、ベビーカーにもありったけの荷物を積んで西に移動する姿が写真に残ってます。

王道楽土の開拓からの引き輪げではなく、戦争の結果の国境変更により故郷を追われた人々。ドイツ国境は戦後に東側がごっそりポーランドになってるんですね。ポーランド自体も東半分をソ連に持ってかれて西側をドイツから得て、国自体が西にスライドしてるような有様。フィンランドも然り。国境はあくまで結果です。
そうしたヨーロッパの状況を知ると、北の島々が元の持ち主に返されるなんて幻想だってのがわかります。まあ元の持ち主って誰?という話もあるけど。

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もちろんキットの使い方はそれだけではないし、モデリングとしての個人的な興味の範疇は荷車系のベビーカーと小型カート。

キットのパーツランナーを見ると、MiniArtらしい繊細さでベビーカーの華奢な感じがうまく表現されてますね。PEパーツに走らずプラパーツのみで再現できるのは嬉しいですね。ハンドルは折れてしまいそうな細さでさすがに真鍮線で作り直したほうが良さそう。

スケルトンタイプの小型カートは牛乳缶セット(No.35580)に入ってるのと同じもので、ゴートカートとかドッグカートと呼ばれる当時一般的なタイプのもののようです。キットの箱絵のようにジャガイモ袋を積んでもいいしトランクを載せてもいいし、毛布を自作して積み込んでもリアル。

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ベビーカーと小型カート。前回の記事の時は「農業用カート」で検索しても当時の小型カートの写真をなかなか見つけられなかったけど、「難民」をキーワードに検索すると荷車やベビーカーの写真が続々と出てきます。キットと同じスケルトンタイプの4輪の小型カートの写真も見つかりました。
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d0360340_19434443.jpg上の写真は1946年7月、チェコからドイツ本国に向かう人の列。ベビーカーで荷物を運んでいる人の多いこと。確かに、普通の一般家庭にある車輪つきのカートというとベビーカーぐらい。

キット化されたタイプも見かけます。側面の模様に違いはあるものの一般的なメーカーのものだったのでしょう。それがどこのなにかまでは突き止められず。

ベビーカーやカートが写っている動画も見つけました。


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敗戦後のベルリン。避難先から戻ってきた市民でしょうか。3:45秒にベビーカー、3分50秒と4分00秒にカート、5分10秒頃にベビーカー。街はまだまだ廃墟。破壊された車両も転がったまま。ガソリンなしで動けるから便利なのか、自転車乗ってる市民が目に付きます。


その他、こんな写真を見つけました。
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1945年3月、ドイツ国内ベンスハイム。廃墟を前に呆然とする女性の名前はアンナ・ミックス。64歳。写真はWikimedia Commonsより。

この人、どこかで見たことある、と思ったら、これ。
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MiniArtのフィギュアセット:1930~40年代のドイツ市民(No.38015)。真ん中のお婆さんのモデルですね。といっても全く同じではなく、モデルの女性は60代のメガネをかけたシルバーマダムですが、キットではもう少し年配、70過ぎの老婆といった感じで脚色されてます。

彼女に限らずMiniArtのフィギュアには当時の写真の中にモデルがいたりするので、ひょんなところで出会ったりすると楽しいですね。右端の警官もキットにコンパーチブルで入っている制帽をかぶった姿でいるのを、上記の記録フィルム(5分05秒頃)の中で見かけましたよ。

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去年のSUMICONの時に作ってみたもの。フィギュアの塗装は出戻り後初めてだったので、顔の塗り方とかまだまだですね。すべて油彩です。右手の杖は真鍮線で作り直してあります。使うシーンにあわせて左手の角度はキットのオリジナルのポジションから少し調整したと思います。

フィギュアは塗装作業とベースへの固定のために足裏に打ったピンを洗濯はさみに固定して写真を撮ってますが、ピンなしでも自立するように足先の向きとか微妙な角度を調整してます。これに限らず静止した立ち姿のフィギュアは足の角度や腰とか背中の向きを微調整して、支えなしでも自立するように調整するといい感じになります。両足がつくる台形の地面のエリアに重心を納めればフィギュアは自然に立つようになります。

もちろん実際の人体とフィギュアでは身体部位の重量バランスが違うので厳密には違うのですが、人間が立つというのはそういうことですから。自分の中の言葉では「重心が見えるようになる」までポーズを微調整します。
歩いている、動いてる姿勢の時は、重心を足先から外すようにします。外れた重心に向かって身体を移動させて再び安定させようとする随意反応が「運動」だから。

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製作記事:Grille弾薬運搬車改造3.0cmFLAK 1945.5 Praha

1945年5月、戦争終結時のプラハで我が身の行く末を案じるドイツ系女性、という設定で登場してもらいましたが、見立てはだいたい間違ってなかったですね。

この時は、車両の塗装やジオラマベースの製作そしてフィギュアの製作など、最後はバタバタでろくに製作記事も残さず完成させてしまったので、どこかで機会をつくってそれも書き留めておきたい気もします。車両に載せた新聞とかパンの「焼き方」とか、いつか忘れないうちに。


# by hn-nh3 | 2018-05-26 09:41 | 資料 | Comments(4)

ロコムモデル

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超解像度のエッチングパーツを発表するROCHM MODEL(ロコムモデル)。その恐るべきディテールと考証密度は圧倒的。四谷仙波堂でもページを割いて詳しく紹介していますね。

(写真はいずれもロコムモデルから)
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見てるとクラクラしてきます。エッチングパーツを発表しているのは今のところ殆どパンターとティーガー関連で自分にとってはどちらの車両も「今期の生産計画」には入ってないこともあって、これを使うことはないだろうなとスルーしていたのですが、たまたまメーカーのホームページを見て、ちょっと心を掴まれました。

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ホワイトバックの写真が印象的なページデザイン。エッチング製品の紹介コーナーもさることながら、それ以上に主催者のRochmCheng氏の制作する模型の数々:Workbench が素敵です。
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未完成キットのパレード。上の写真は紹介用にこちらでレイアウトしたインデックスなので、ホームページで直接見てもらったほうがいいと思いますが、キットのオリジナルの部分と手をいれたところのバランス感。これを見ているとプラモデルって完成してなくてもいいのかも...というより、未完成の状態こそが模型の美しさなのでは、と思ってしまいます。

自分の模型が完成しない言い訳に使うつもりではないけど。

もちろん、模型は塗装までして完成させても魅力的。RochmCheng氏の完成模型のGalleryも必見。
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詳しくはページを直接見てもらいたいのですが、これまた超解像度の塗装表現。
現実の車両の塗装の光沢感とうっすらと積もった土埃。いつもそんなに汚れたりあちこち錆びたりしている訳でない戦車のリアリズムが追求されています。そして、足回りの泥汚れやレインマーク、排気の煤やグリースオイルの染みも車両の設定にあわせて本当に必要なものだけが的確に。

この作品群を見てると、流行のウェザリング商材の塗装見本的なテクニックというものが、リアルさの追求からいつの間にか遠くなった様式的な表現にも思えてきます。我が身も反省。

# by hn-nh3 | 2018-05-23 08:36 | 資料 | Comments(6)
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オチキス改造自走砲、Panzerjager 39(H)7.5cm続編。 
自走砲って好きです。オープントップの車両は、戦車だと分厚い装甲板に隠されてしまう内部の複雑な機構が全部見えたりして、模型としての見せ場が多いところでしょうか。作るのに手間がかかるから完成までたどりつかなかったりするのですけど。

思えば、デモドリ1号はセモベンテL40 da47/32(イタレリ)、2号は Sdkfz.138/1 15cm自走重歩兵砲 グリレH型-極初期型(ドラゴン白箱)、そして3号がこのオチキス改造自走対戦車砲(ブロンコ)。

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d0360340_07201052.jpg戦闘室内部の造作はBLAST Modelのレジンキットを利用。当時の写真で内部がわかる写真も少ないのでよくリサーチされたこういうアフターパーツがあると助かります。

対戦車砲型では現存車両はないものの、10.5cm榴弾砲搭載型はソミュールに現存。それも内部工作の参考になります。ただし戦闘室デッキ後部の床板が失われているなど不完全な状態なので、車両の正確な再現とはいかず、その他断片的な資料とあわせての推測になる部分も。

戦闘室後部、エンジンデッキの脇にセットバックしたニッチ状の窪みは何のスペースなのか。ここは資料のない部分ですが、海外のモデラーが即応弾ラックの場所と推測していたのに倣って、想像で作ってみました。ロレーヌシュレッパー車台の対戦車自走砲:Marder1にも即応弾ラックはあるので、その可能性はありそう。

外から見える部分の戦闘室内の塗装は、車体色のパンツァーグレー。砲架下から運転席への隠れる部分は室内色の白で塗ってあります。この塗り分けはハーフトラック(Sdkfz251)やグリレH型の当時の写真で確認できるパターンを踏襲してます。エンジンのミッションやキャブレターは、オチキス戦車の内部塗装色を調べて、ライトグリーンとブルーで塗装。実際には改装時に車体色と同じグレーで塗りつぶしてしまっているような気もしますが、そこは模型的なアクセントとしての判断。

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1944年のノルマンディ戦で使われたのに...何故イエローベースの3色迷彩ではなく、グレーで塗っているのかということに対する答えはコレ。

残っている数少ない記録写真で確認できる内部塗装色はダークイエローよりも暗い色。左下の写真でよくわかります。PAK40の砲尾は明るいダークイエロー。防盾内側はそれよりはるかに暗い色。装甲板の角度で暗く見えているということを考慮しても、ダークイエローではないことは確か。BLAST Model の組立て説明書にも内部色はグリーンかグレーかもね、との言及あり。

右下の破壊された車両の矢印部分。側面装甲板が吹き飛んで、インナーシールドに色ムラはが見えます。外部がダークイエローでオーバーペイントされたとき、側面装甲板が邪魔になって塗料が届かなかった部分にロールアウト時のグレーが残っているのだと想像します。戦闘室内も暗色に見えますが、これは装甲板の角度で暗く見えてたり、火災でススがついた可能性もあるので、内部がグレーで塗り残されていたのか外部同様にダークイエローでオーバーペイントされていたのかは判断がつかず。

右上の内部写真は左上の後ろ姿の車両と同一車両のものと思われますが、影になって色調の判別は難しいところですが、機銃架や無線機ラックはダークイエローか。戦闘室の後ろ扉は内側にもダークイエロー、3色迷彩が施されているのがわかります。これは戦車のハッチの内側を車内色でなく車体外部色に塗って、解放時にも目立たないようにしていたのと同じ塗り方。

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正面、側面の写真。周囲の建物から判断して、上図左上の後ろ姿の写真と同一車両と思われます。いろいろな角度から撮ってあってグッドジョブ。この写真の原版までたどり着ければ他の部分も写したカットなどまだまだ発見がありそうだけど、いずれも原典不明。

d0360340_09514518.jpgこれは10.5cm砲タイプですが、戦闘室内部のディテールがわかる貴重な写真。
原典はWaffen-Revue70か。

この写真を見ると、戦闘室内部は外側のダークイエローとは全く違う暗色で塗られていることがわかります。
外防楯と砲身はダークイエロー。内部は製造時に塗られていたと思われるフランス車両系のグリーンか、1943年までの独軍制式色のパンツァーグレー。

ルノーR35を改造した4.7cm対戦車自走砲の塗装色はグレー、ロレーヌシュレッパー自走砲で同じくグレー塗装のカラー写真があることから判断すると、製造が1942年のこの車両もロールアウト時には内外ともにパンツァーグレーで塗られていたのでしょう。
そしてこの車両に限らず、その後の制式色の変更にあわせて車体をダークイエローに塗り替えが行われ、必要に応じて迷彩も施されたと想像します。

オープントップの戦闘室内側の塗り替えをどうしたのかは、車両ごとケースバイケースだったと判断しています。たとえば、ロレーヌシュレッパー15cm自走砲の戦闘室内側にも迷彩(イエロー+グリーン)が施されている車両などの写真も残ってます。後記のPANZERWRECKS15に掲載されたパリのバリケードに使われたオチキス車台対戦車自走砲の戦闘室内側はダークイエローに塗られていたことが写真で確認できます。

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というわけで、製作中のキットはとりあえずロールアウト時の塗装色の状態。ラッカー系の錆止色サフに水性アクリル系のライフカラーで塗装。カッターを引っ掻いて塗装剥がれを表現してみたけどまだるっこしかったのでアルコールで拭いてみたらごっそり塗膜が剥がれました。加減が難しい。

この後、ダークイエローでオーバーペイントして三色迷彩にする予定でしたが、内部までダークイエローを吹くのか迷彩はどんなパターンにするのか思案しつつ、そして5年の月日が流れすぎ...
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車体底面。ここはイエローでオーバースプレーはされない場所になるので、グレーのまま使い続けられた設定。ピグメントで汚してみました。底面の丸い脱出ハッチは、プラ板で追加工作、サスペンションの取り付け基部のプレートもキットでは省略されていたので、実車の写真を見ながらそれらしく追加。

戦車の裏面がわかる写真は博物館車両でもなかなかなくて、ましてや記録写真となると...
リサーチしていたとき、ノルマンディ戦で使われていたフランス系車両の写真を追跡しているおもしろい記事があったので、参考までにリンク貼っておきます。

道端でひっくり返っているルノーR35やオチキスH39。1944年でも結構使われてるんですね。

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その他、このオチキス車台の7.5cm対戦車自走砲を詳しく分析しているペーパーを見つけたので、レファランスとして載せておきます。
これは本来は参照元にリンクを貼るか、引用元を明記すべきものなのですが、見つけたときから時間が立ってしまい、元ページにたどり着けず、検索してもわからなくなってしまっていることもあるので、モデリングの参考までに、ひとまず別サーバーにアップしたものにリンク貼っておきます:Marder l : A quick guide 1-3

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必要な資料は後になって発見される、というのもよくあること。

キットのフォルムがなんか変だと気になってリサーチして海外のモデラーも同じこと気にしてた記事も見つけたりして、それらを参考にキットの戦闘室の装甲板の角度を改修。BLAST Modelsのパッケージ写真でもわかるように、キットのフォルムからはずいぶんと正確になったと満足していたのですが、その後発売されたPANZERWRECKS15(p8-9)を見て真っ青。
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防楯が失われて戦闘室装甲板の前部形状がはっきりとわかるその写真は、前面装甲板が車体と接続する箇所ががフェンダーと車体の接する部分ではなく、だいぶ内側に入り込んだところにラインがあるのを確認できます。

確かに、そこに切り替わりのラインがあると、キットでは防楯の装甲板の角度と戦闘室装甲板の角度が大きくずれているのが、より自然な関係になるので合点のいく話。
これは気がつかなかったなー。ついついドイルさんの元図面に引きずられて、切り替わりのポイントは現存する10.5cm砲搭載型と同じフェンダーと車体の接する部分だと思い込んでた....

しかしそうと知ったら、他の写真もなんとなくそんな感じで見えてくるから人間の目というのは信用ならない。

# by hn-nh3 | 2018-05-20 11:58 | Hotchkiss系列 | Comments(4)
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7.5cm PaK40 (Sf) auf Geschutzwagen 39H (f)

急ぎの仕事で立て込んでいるのと、メッシュパーツの調達待ちでKV-1戦車の制作は停滞。今週はブログ記事落とすと思いきや、ありますよ.溜め込んでいるネタいろいろ。そういう時のために作りかけの模型が山のように。

旧作紹介。デモドリ3号のPanzerjager 39(H)7.5cm。2012年5月〜

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下地塗装まで進んだところで中断していたキット。1940年のフランス戦で大量に鹵獲したオチキス戦車の車体上部を取り払って、7.5cm対戦車砲搭載の自走砲に改造したこの車両。1942年に24両が作られて、44年6月のノルマンディ戦に投入されたと言われています。このオチキス車台の自走砲は、Marder1でひとくくりにされたり、7.5cm PaK40 (Sf) auf Geschutzwagen 39H (f)という表記だったり、簡単で的確な呼び名がないのが残念。

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この対戦車自走砲を作ったのは、魔改造先生こと、アルフレート・ベッカー少佐のBaukommando Becker。
この話はどこかでやりたいと思ってました。ロレーヌシュレッパー車台に対戦車砲を乗せたMarder Iとか、ソミュアMGCハーフトラックにロケットランチャー積んだり、みんなこの人の仕業。
(写真出典:wikipedia commons)

中古のフランス製車両にドイツ製戦闘用品を積んだ強引なシルエットとか、即興仕事のようで無線機は抜け目なく積んでたり、こういうハイブリッドな感じは好みです。

38(t)戦車車台をベースにしたHETZERを好きなのも同じ構図だから。あれはドイツ戦車じゃなくてチェコ製戦車ですね。搭載砲だけドイツ製。
自走砲で最強のナースホルンとか最強駆逐戦車のヤークトパンターなどは美しいシルエットですが、純正品のソツのなさというか、イマイチ面白みに欠けるというか。

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オチキス車台の自走砲には対戦車砲型と榴弾砲搭載型の2タイプあって、10.5cm砲を搭載したものは、その昔、グンゼのハイテクキットでリリースされたことがありました。お値段もハイテクで当時高校生だった自分には手の届かないものでしたが。

時代が変わり、10.5cm砲搭載型も7.5cm対戦車砲型もインジェクションキットとしてリリースされるなんて、そんな未来がくるなんて信じられなかったですね。タイムマシンと、どこでもドアは未だに実現してませんが.. あの頃は、AMAZONという名の有料4次元ポケットも想像の外側。

この自走砲はBroncoとTranpeterの2社からリリースされていて、データー盗用があったとかないとか言われてますが、こんなの競い合って出してどうしたんだという気もしますが。
私はBronco版で制作しました。メーカー初期の製品だったりして、ディテールとかパーツ勘合とかイマイ微妙。もっとも制作当時は出戻ったばかりでドラゴンのスマートキットなど21世紀水準のキットに疎かっちゃのでそんなに苦にはならなかったです。


しかし。それ以上に問題だったのは、「実車に全然似ていない」という話。
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(YouTube:Rommel Reviews the 21st Panzer Division/0:10)

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ロンメル将軍の謁見を受ける第21戦車師団の動画、 冒頭10秒ぐらいにちらりと映るこの車両のシルエットと、この側面図(トランペッターのキットのインストにあったものの左右反転)が全く違う。トラペのキットもブロンコのキットのどちらも図面のようなシルエット。前面装甲板の角度がまったく違う。

なんでこんなこと起きたかということには理由があります。両社のキットの設計の元になっているのがドイル先生の作った図面で、この側面図もそれを下敷きにしたものです。しかし、このシルエットは7.5cm対戦車砲型のものではなく、10.5cm榴弾砲搭載型。おそらくはソミュールに現存する10.5cm榴弾砲搭載型を測って起こした図面を元に、搭載砲と正面シールドだけ7.5cm対戦車砲に置き換えたからです。
対戦車砲と榴弾砲では砲架の大きさが違って、榴弾砲型では前面装甲板の角度が垂直に近い形状になっているのをそのまま対戦車砲型に当てはめてしまったからだと思われます。

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動画からキャチャした画像に加筆して正しいシルエットを探ります。これを元にキットの戦闘室装甲板を切断、前面装甲板の角度を修正しました。
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製作中に撮った写真をどこかになくしてしまったので、どこまでがキットの部材でどこがプラ板細工なのかが見せられないのは残念ですが、とにかく修正後はこんな感じ。錆止め塗料のレッドサイドカラーのサフェーサー吹いて、パンツアーグレーを吹いてアルコールで塗料を少し落としてみた段階。
ノルマンディ戦の頃はダークイエローにグリーンとブラウンの三色迷彩を施されてますが、工場からのロールアウトは1942年なのでおそらくは最初はこの色だったと想定。この後にダークイエロー単色迷彩の状態でロンメルの謁見を受けて、連合軍の上陸の前に三色迷彩を施されたと思われる、その過程を塗料のハゲなどで再現してみようと考えてました。そこで現在に至る...という状態。
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オープントップの車両の魅力は戦闘室内の工作。戦闘室前面の2重装甲はプラ板で制作。7.5cmPAK40 対戦車砲はタミヤのMarderⅢから流用。砲架のまわりの半円紡錘状のインナーシールドはプラ板を湯呑みに巻きつけてお湯を張った鍋でことこと煮て整形。無線機、MGドラム弾倉ラック、砲弾ラックはBrast Modelのレジンパーツを利用。無線機にはエナメル線で配線追加。MG架はキットのエッチングパーツをベースにディテールアップ。
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足まわりはキットのものを使ってますが、かなりファジーでしたね。鋼製転輪はリムが厚ぼったかったので、手持ちドリルレースで内側から薄く切削。誘導輪は実車はプレス部品なのかエッジ部分に返しがある形状になっているのがキットでは再現できていなかったので、精密マイナスドライバーを当てて削り込み。ホイールキャップ周りのリベットも追加したかな?
昔のことで記憶が曖昧。フェンダーは薄々加工。車体前面の鋳造スポンソンの形状も修正したように思います。写真に撮っておくかメモ残しておかないと忘れてしまいますね。あちこち埃にまみれてるのはご愛嬌。ウェザリングではありません。
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後ろ姿。見よこのブサカワぶり。よわよわナースホルンという雰囲気がなんとも。
リメイクという訳ではないけど、ぼちぼち制作再開して時間を経て3色迷彩になった塗装の質感を再現したいと思ってます。ぼちぼち。

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そう、SUMICONで来月くらいから制作開始する、同じくBaukommando Becker製のロレーヌシュレッパー15cm自走砲。そのちょっと個性的な迷彩塗装の習作のつもりで、この機会に積年の未完成キットを完成させてみようという魂胆、なのです。
そんな訳で唐突に伏線回収。

デモドリ3号、不定期連載(の予定)




# by hn-nh3 | 2018-05-16 21:45 | Hotchkiss系列 | Comments(6)

荷車メモ

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At the market in Baryssau, Russia 1942:Franz Krieger

1942年、旧ソ連領内(現ベラルーシ)ミンスク近郊の都市、ボリソフ(Барысаў)の市場での一枚。撮影はフランツ・クリガー(1914-93)。オーストリアの写真家で戦時中はPKに所属。> LENS | World War II Mystery Solved in a Few Hours
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AT THE BERESINA NEAR BARYSSAU, RUSSIA 1942:Franz Krieger

写真はいずれも PIXPAST より。カラーフィルムのプライベートコレクションで、WEBで公開されている大戦期のカラー写真はフィルムからの色再現が見事で当時の実際の色調を知ることができる貴重な資料。
AFVに限定した写真コレクションではないので、それを期待すると少しがっかりしますが、それでも独ソ線初期のソ連戦車(BT,T-35)やドイツ軍(3号戦車、8輪装甲車、ソフトスキン)やフランス線で遺棄された仏軍戦車など、原版自体の発色や退色で再現しきれてない色もあるけど、このコレクションに登場する戦車や車両の色調は模型製作の参考になります。白眉はアフリカでロンメルが使用していた”MAX”のカラー写真でしょうか。個人的には当時の街や村の風景、人々の姿などAFV写真集では得られない情報がたくさんあって好きですね。
写真にはいずれも著作権があるので、上記2点は有料データー購入。



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製作中のKV-1戦車は、必要なメッシュ材料の調達や細部仕様の確定作業で、ちょこっと休憩タイム。(そのまま中断、ってことにはならないので大丈夫..) 

今日のお題は当時の写真に登場する農業用カート。

秋葉原のパーツバラ売りコーナーでちょっと前に購入。
このコーナーは戦車のキットのパーツランナーをバラ売りしていて、欲しい部品の調達に便利だったりしますが、フィギュアセットもランナーを細切れにしてフィギュア単体でバラ売りしてたりします。セットはいらないけどあの人は気になるなーなんていうときに、出会えると嬉しいですね。

もちろん全てのキットが並ぶ訳ではないので(どっちかというと在庫処分?)パーツとの出会いは一期一会。使うあてもないのに、つい買ってしまったりします。
                        
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小型のカートのパーツはMasterBox 3567「第二次大戦期の西欧市民」のセットに入っているもの。キットの箱絵には姿は描かれてません。農夫の傍に置く小道具にでもとセットされたのでしょうが、しかし2人の大人と少年少女が並ぶシーンにはちょっとそぐわないので表紙からは省かれたのか。いずれにせよ、このキット(セット未購入)に小型のカートが入ってるなんて知りませんでした。

d0360340_13394751.jpg余談ではあるけど、このキットにはシリアスな話題に触れてしまう部分があって、ボックスアートの右側に登場するヒゲを生やしたおじさんは実はユダヤ人だというような話。
これについては、かつて ”赤軍博物館別院 別当日誌”や模型慕情さんが記事で扱っていたのでそちらも参照。

ボックスアートの裏側には小型のカートと4人の組立図。帽子姿のヒゲのおじさんはキッパ(ユダヤ帽)とのコンパーチブル。少年も帽子を選べます ..軍帽をかぶって台車で何を運ぶんでしょうね。箱裏絵の構図からなんだかいろいろと想像してしまう。

どうしたものか、荷車の風景写真でピックアップした冒頭の2枚。意図したものではなかったのだけど、ボリソフ、ミンスクという街は、避けがたくそのことに関わる場所だったようです。
それ以上はここで語ることはしませんが。

話題を変えましょう。
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組み立ては一瞬です。荷台のフレームや車輪のスポークなどパーティングラインの処理は少し面倒だったけど、簡単に組みあがります。
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カートの裏側。前輪は引棒にあわせて方向転換できるように構造。引棒も高さを変えられるようなディテール。接着してしまいましたが、真鍮線を軸打ちすれば可動にもできそうです。動かして遊ぶことはないと思うけど。
なんとなくひっくり返ったカブトムシみたい。本来は何を運ぶためのカートなんでしょうね。

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このタイプのカートはポピュラーなのか、MiniArtの最近作:「ミルク缶と小型カート」(no.35580) のセットにも入ってますね。荷台のコーナーに柱のないタイプでMasterBoxのものとは細部が異なります。特にどこかのメーカーが専売特許で生産しているものではないだろうから、いろいろなバリエーションはありそうです。

d0360340_14285900.jpgMiniartnのキットの組立て説明図を見ると、前輪周りも少し複雑な構成。どちらが正解というものでもなさそうですが、モールドなどはこちらのほうがシャープな予感。ミルク缶は使う用事ないしとスルーしてたけど、買わないとだめかな。

この小型カートはアンティークとしても人気があるようで、Farm CartとかGoat Cartで検索すると、e-Bayなどで売ってるのが見つかります。花屋とかパン屋の店先においたら可愛いのでしょうね。

名前の話。Farm Cartというのはわかりますが、なんで「Goat Cart」というのか。検索するとヤギに牽かせた小さな馬車の写真がでてきて、「Goat Cart」というのは、総じて子供が馬車遊びをするためのおもちゃと思われます。しかし、それは2輪のいわゆるリンバーの子供版がほとんどで、キットでも再現されたタイプの4輪のカートをヤギで引いている事例は見つからず、なぜこの4輪カートも「Goat Cart」というのかは結局わからず。馬車とか西洋アンティークに詳しくないのではっきりとしたことは分からないけど、小型のトイカートのことをゴート・カートと呼ぶのかもしれません。ひょっとして、ゴーカートというのもそこからきてるのか?

この小型のカートが当時の写真に写っているのを探したのですが、見つかりませんでした。考えてみれば、目の前をティーガーとかパンターとか通り過ぎるのはカメラマンもすかさず写真に撮るけど、スターリン戦車に背を向けてこんな民生用カートを撮ったりはしないと思うし。

(築地市場でターレーを撮らずにゴミ収集ビークルにカメラを向けるようなもの...)

とはいえ、意地もあるから見つけました。キットのタイプそのものではないけど。
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YouTubeの動画:Rhineland-Palatinate in April 1945 (in color and HD) 10:00頃に登場

荷台がフレームのスケルトンタイプではなくて板で組まれた箱型タイプ。スケルトンタイプはミルク缶とか干し草運んだりするには便利ですが、小物を入れて避難するにはこっちの箱型タイプのほうが役に立ちそうです。暇なときにでもキットの荷台をこのタイプに改造してみようかしら。

この動画が撮られたのは1945年4月。ラインラント=プファルツ州ということで地理的にはベルギー、ルクセンブルグ、フランスと国境を接するあたりか。

「Goat Cart」は検索すると、German Farm Cart という名前ででてきたりもするから、ロシアや東欧ではなく、ドイツやフランスなど西ヨーロッパで一般的な小型荷車という気もします。(要確認)

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1/35スケールのキットで民生用/非武装カートにどんなものがあるかを集めてみました。軍用タイプは除いて、その他にも、件のMasterBoxのゴートカートのようにボックスアートに載ってないもの、一輪車など手押車のタイプ、見落としたものなどまだまだあるかも知れません。レンジキットメーカー:スターリングラードから出ている農業用カートはまさに冒頭の写真に登場するようなタイプ。タイトルにロシアの荷車とかウクライナの荷車とかありますが、地方によってどう違うのかはちょっと調べたくらいではわからない奥深き世界。

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レジンメーカーのスターリングラードからは、荷車に避難民を乗せたセットも出てます。上掲の動画もそうですが、民間用カートが登場する風景を探すと、従軍カメラマンが写真を撮ってる場所というと、やはり戦場から避難する、占領地から逃れる難民の写真にぶつかります。

この母子が荷車に乗った写真はドイツ軍がいなくなった村に帰還する時の写真のようですが、いずれにせよ戦争は抽象的な戦場ともいう無人の荒野で専ら行われていた訳ではなく、日常の街や村、畑があったところで起きていたことなんだなと..

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小さなカートが気になってキャプチャした写真ですが、背景は完全に破壊された村。

MasterBoxの小型カートのキットは、この前のSUMICONで制作したT-60のジオラマで使えるかと思って買い込んだものでした。
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記事は:ROSTOV 1942.8 :T-60 (Plant no.264) INDEX 参照

舞台設定はスターリングラードの前哨戦、近郊都市ロストフ陥落の少し後の風景。撤退、そして新たな戦線に送られる兵士、占領された街や村から逃れる住民の姿など、小さなベースの外側で起きている出来事が見えてくるように、何かベースの中に関連した小物を配置したくて、その候補のひとつで買ったのがMasterBoxの小型カート。

結局、スペース的な制約もあったし、小物の設定に作り込みが足りないと冗長になるだけなので、壊れたカートを配置するのはやめましたが...
戦場ではあるけど同時にそこは誰かが普通に暮らしていた日常でもあるような。
それもあって、戦車に踏み荒らされるのは草原ではなく麦畑。

戦車の模型を作る以上は、反戦を声高に訴えるとか戦争の悲惨さを伝えよう、なんてこと言うつもりは全くありません。しかし、戦車の模型を置くための「ベースという模型」は戦車がくる前からそこにあった場所、ともいうような日常世界をどこか表現しておきたいという気持ちがいつもあります。戦場だけど日常世界でもあるベース、の表現。 兵士たちがトランプに興じる戦場の日常ということではなくて。
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なんとなく雨の日は内省モード。





# by hn-nh3 | 2018-05-13 18:23 | 資料 | Comments(4)