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断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

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戦災焼失区域表示

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東京戦災区域地図。先の戦争で空襲を受けて東京の燃えた範囲を赤く塗り分けた地図が作られている。

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こんな本がある。「戦災表示区域表示 コンサイス 東京都35区 区分地図帖」昭和21年刊 その復刻版である。

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1985年に復刻されたものを、確か新宿の紀伊国屋書店で見つけて買い求めた。それもたぶん15年くらい前の話。

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ページをめくると東京空襲のリスト。昭和17年4月のドーリットル空襲は航空母艦からの奇襲攻撃であったが、本格化するのはサイパン陥落後の昭和19年の11月から。20年3月10日には下町大空襲。死者行方不明者10万、焼失家屋26万8千戸。

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20年5月29日の空襲を最後に、目標は焼け野原となった東京から地方都市に移る。前の記事で触れた米軍艦載機のガンカメラ映像はその時期のもの。 都内各地の高射砲陣地に配属されていた部隊が空襲の無くなった東京から地方都市へと転属するのもこの時期である。8月8日に東京空襲が復活して8月15日の青梅空襲まで続くのは、広島と長崎への原爆投下と絡めた最後通告的な意味合いがあったのだろうか。

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空襲で燃えたエリアが地図上で赤く塗られている。皇居の周囲も丸の内界隈や千鳥ヶ淵のイギリス大使館を残して赤塗り。東京駅も燃えている。

現在この地図はWeb上でも見ることができる。>古地図で見る東京大空襲
以下の地図はそこからのキャプチャ。

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東京の主要部はほぼ全域が空襲にあっているが、地図を詳しく見ていくと燃えなかったエリア(地図の白く塗り残された範囲)もそれなりに残っていることに気がつく。

たとえば上野の界隈。上野の博物館や東京大学を爆撃対象から外していたのだろう。そのおかげで谷中、根津、本郷の一帯が戦禍を逃れている。いわゆる谷根千エリアに古い街並みが残り散歩の名所になっているのは、それが理由。本郷から菊坂を下ったところの路地の奥に樋口一葉旧宅跡の井戸が残っていたり。

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御茶ノ水から神保町にかけてのエリアも焼失を免れている。古書街で有名なエリアだが、紙といういちばん燃えやすいものがある本の街が燃えずに残ったというのも面白い。貴重な文献資料が集積する街を米軍が爆撃対象から外したという説もあるが、その真偽はどうなのだろう。

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10年以上前に撮った写真であるが、神保町界隈には戦前に建てられた味わいのある建物がたくさん残っていた。靖国通り沿い、ビアホール"ランチョン"の向かい、地図のちょうど白く塗り残されたエリアになる。

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九段下ビル 1927年竣工 2012年解体

東京の街を散歩していて古い建物に出会うのは、地図上の白い場所。その昔、賑わっていた街でも地図で赤く塗られた場所は空襲で燃えてしまっているので、出かけていっても街には何も残っていない。そう、長い間この本は昔の風景が残る街を探すためのバイブルだったんですよ。

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小石川の高射砲陣地跡:1947/08/08(昭22) no.USA-M698-99 国土地理院空中写真アーカイブより

本棚にそんな本もあったなと思い出したのは、毎年8月という季節的な話題もあるけど、都下に多数あった高射砲陣地と空襲被害を免れたエリアに関連はあるのかと調べていて気になったから。それで久しぶりにこの地図を見返してみたのだけど、高射砲で街が守られたというようなことは全く読み取れなかった。

by hn-nh3 | 2019-08-02 23:31 | 資料 | Comments(2)

迷彩工場

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1948年(昭和23年)3月。東京都北区豊島5丁目上空。米軍が戦後、全国を撮影した空中写真の一部は現在国土地理院のサイトで閲覧可能。この写真もそこから引用;写真No.USA-M866-34 の一部拡大

戦時中の高射砲陣地の痕跡についてブログで何度も記事にしてますが、その場所が明らかになってない陣地の場所を特定するのに米軍撮影の航空写真を見て回っていると、時々こんなものも見つけます。

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上の写真の部分を拡大。工場の屋根にちょっと不思議な市松模様が描いてあります。これは戦時中に軍需工場など爆撃機からカムフラージュするために描いた迷彩パターン。一帯の工場を住宅街に見せるために屋根に描いた模様が戦後三年が経ってもそのままになってたようです。

建物の迷彩は戦時中に熱心に研究されていたようで、当時の書籍で「擬装方法」を解説した本を見たことがあります。屋根や壁面に塗装で明暗差をつけて建物ボリュームを撹乱することを意図していて、周囲の建物のスケールに似せたパターンをつけるといい、というようなことが書かれてました。国会議事堂や東京丸の内のビルにも迷彩が施されていたことは、前に書籍:「米軍が見た 東京1945 秋」のレビュー記事で書いたのでそちらを参照。

しかし、工場の屋根に迷彩を描いた写真は意外に少ない。地上からの写真では当然のごとく写るものではなく、戦後に撮影された米軍の空中写真では、(迷彩が施されていた)軍需工場は空襲でことごとく破壊されて、その焼け跡ばかり。

米軍の艦載機が地方都市を機銃掃射した時に記録されたガンカメラの映像が残ってます。機銃発射と同時に撮影する仕掛けになってたようですが、それにカラーフィルムを使うところに米軍の底力を感じます。戦時中の地方都市をカラーで捉えたということでも貴重な映像ですが、そのなかにいくつか工場の迷彩が映ってました。

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フィルムの撮影された場所を特定するサイト”内地への機銃掃射(ガンカメラ)映像・改”から引用紹介

厚木飛行場のフィルムでは迷彩工場はほんとにちらっとしか写りませんが、なんというか。。制空権完全喪失の状況が痛々しいです。


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話を戻して豊島5丁目。ここの工場が空襲を受けなかった理由は定かではありませんが、肥料を作っていた工場(大日本人造肥料株式会社)だから爆撃の対象にはなってなかったとも想像します。しかし、このページを見てわかるように、北区には軍事施設や関連工場などが多くあった関係でこの工場も攻撃から逃れるために迷彩が施されたのかもしれません。

ここは蛇行する隅田川が荒川に極端に接近するちょっと面白い場所。戦後、工場が公害問題で移転した後、1972-73(昭和47-48年)に巨大な団地「豊島5丁目団地」が作られます。

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GoogleMapのキャプチャー。川に囲まれた巨大団地。陸の孤島につくられた人工世界。団地マニアなら一度はいくべき。
首都高速(中央環状線)江北ジャンクションから見るここのパノラマ風景は美しく、東京郊外の風景のなかでもピカイチではないかと勝手に思ってます。

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by hn-nh3 | 2019-07-11 21:01 | 構造物 | Comments(4)
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披露山公園建設中の風景 1957年12月頃(逗子フォト 逗子市HP より)

逗子市のホームページに「逗子フォト」というコーナーがある。市の広報用に収集した逗子の昔の写真をオープンソースで公開していて、逗子市民でなくても見ていて楽しい。
逐次更新されているようで、また新しい写真がアップされていた。上の写真は"建設中の披露山公園(昭和32年)"から。

逗子市きっての高級住宅街のある高台の一角にある市民公園の建設中の風景。とタイトルだけ見ればその公園で遊んだ記憶もなければ、はいそうですか、で終わってしまう写真なのだが、よく見ると写ってるものがヘンなのだ。それは作りかけの公園遊具ではなく、戦時中に作られた高角砲の砲座なのだ。

横須賀軍港の防衛のため、逗子海岸に面した山の上築かれた高角砲砲台は、戦後に無用となって普通はこの類のものは取り壊されるのだけど逗子市の場合は、なんと公園の施設に転用されたのだ。3基あった砲座は花壇、展望台、猿舎となって現在も使われている。冒頭の写真は展望台となる砲座から猿舎を見たところか。
 ※建設中の写真は花壇になる砲座から指揮所跡につくられたゲストハウス方向を見たものではないかとの指摘あり。以下関連記述は後日修正します。

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写真は2017年に訪れたときのもの。日付を見たら6月23日。ちょうど2年前。
砲座の上に作られた展望台(右)と猿舎(左奥)。花壇は写真を写している場所の背後。

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猿舎は円形の砲座を囲むようにオリが建てられ、内部にはすり鉢状の構造物がほぼそのまま残っている。
この様子については、以前に記事をいくつか書いた。


この砲台のことを教えていただいた かば◎さんもレポートを書いている。

かば◎さんの記事の中で逗子フォトに戦後間もないころの砲座の写真が掲載されていることを知り、猿舎の小檻の奥に隠れてよくわからなかった待避所と思われる場所の形状がわかってきた。先日のレポートではその部分の現状を実地に検分した写真をアップしている。

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披露山公園高角砲台跡(逗子フォト 逗子市HP より)

戦後間もない頃の写真を見て分かることは、高角砲を据え付ける部分は艦載用に開発された高角砲のターンテーブルを納めるためか丸くくぼんだ形状になっている。階段脇の向かって左の壁龕は他の弾薬保管用の穴とは違ってアーチ型の開講形状。これは現在はコンクリートで塞がれているもののその痕跡が見て取れることをかば◎さんが確認している。その左隣には円形の砲座のすり鉢からはみ出すように待避所のニッチが作られている。奥に待避壕でもあるのか、壁に開口。床も砲座プラットフォームから一段低くなっているようだ。この場所は現在は小さな檻がつけられていて、中の様子は人間には見えないようになっている。

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以前に描いた砲台の推定復元図をアップデートしてみました。前ははっきりわからなかった。アーチ型の壁龕と待避所の部分を修正した。階段も9段ではなく8段に修正。
待避所の張り出しは扇型で作図したものの、スクエアな形状のほうが作りやすかったのではという気もします。
しかし、かば◎さんレポートを見ると、外周は円弧になっているらしい痕跡が確認できる。

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砲座の上に作られた猿の檻。中心部の池は砲座の円形の窪みの部分を利用していて、池の縁取りと丸い穴の隙間は砂か何かで埋められてる模様。

冒頭の公園建設中の写真を見ると、展望台の砲座にもアーチ型壁龕が写っているの、3つの砲座はほぼ共通の要素を備えていたことは想像できる。ただしアーチ型壁龕の配置は猿舎のものと少し異なっていて階段の隣にあるわけではないようだ。おそらくは3基の砲座の配置の関係で個別に位置を設定したものではないか。

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ゼンリンの住宅地図を下敷きに猿舎と展望台の砲座を配置してみる。展望台砲座のアーチ型壁龕の位置は写真から推定。ひょっとすると角度的にはもうひとつ隣かもしれない。同じく展望台砲座の待避所の位置は想像。
そこと想定したのは、展望台足元にある不思議なステージというかベンチが展望台を作る時に階段と待避所を埋めるために計画されたのではないかとの推理。

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全体配置。南から猿舎(黒)、展望台(赤)、花壇(緑)の砲座。戦後米軍が撮影した空中写真(1946/08/15_USA-R227-A-3-81)から階段の方向はほぼ一定と推定。周囲に存在した土塁の影から待避所の位置がなんとなく想定できる。砲座間の距離は地図から35mと割り出した。

例のアーチ型壁龕や待避所の配置を見ると、それらが地下壕で繋がれていたのではないかと想像もできるが、それを裏付けるような資料や物証は確認できていない。
配置図の北側の黄色い四角は指揮所があった場所。南側斜面の小屋らしきものは何の施設だろうか。

配備されていたのは、八九式十二糎七高角砲(2連装 127mm 40口径)が2門。
豆知識ではあるが、海軍では高角砲、陸軍では高射砲、と呼び表していたので、このブログの記事もそれに倣っている。

by hn-nh3 | 2019-06-23 08:31 | 構造物 | Comments(6)
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前回前々回に続き、青戸高射砲陣地 のリサーチの続編。

葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要に現存遺構についての話が掲載されていると、"葛飾音頭"さんよりお知らせいただき、現地リサーチの帰りに博物館に行ってきました。

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葛飾区郷土と天文の博物館 博物館研究紀要 第5号 1988.3発行。館内のライブラリーでも閲覧とコピーはできますが、受付で販売もしていたので購入。1260円なり。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

調査記録は地元の人へのヒアリングや部隊編成の記録収集など、それこそインターネットが普及する以前の「足を使った研究作業」で頭が下がります。

青砥(白鳥)の陣地に配属されていたのは高射第1師団、高射砲第115連隊第2大隊の第9、11、12中隊。中隊はそれぞれ指揮小隊と2つの小隊で構成され1小隊には3基の高射砲。3+3で中隊には6基、それが3列で合計18台の九九式8cm高射砲が配備されていたようだ。このうち第12中隊は、米軍の爆撃対象が地方都市に移行、また米軍の上陸に備えて水戸に転属との記述。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

米軍撮影の戦後の空中写真から砲台位置を特定、その他兵舎などの撮影時(1947)年頃にはすでに撤去されて写真では確認できない建物の位置も聞き取り調査などで明らかにしている。陸軍が1944年に空中写真を撮影したものが現在では国土地理院の情報サービスで閲覧可能だが、この調査当時(1988年)はまだその資料が入手できなかったのか、砲台列の中心部にあったと推定される高射算定具の設置場所についての言及はないものの、配備の記録のある「た」号電波探知機の設置エリアをヒアリングにより陣地北東部ではないかと推定している。陸軍の空中写真には円形に整地された場所が陣地北東部にあることが確認できるので、そこがレーダーサイトであったと特定して間違いはないだろう。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

現在、公道からも確認できる3つの台座遺構を紹介。前回の記事で取り上げた(当ブログ地図のNo.15の台座)遺構についても、12本の直径8cmの鉄パイプが地上部に露出する経緯などが記録されている。台座上部30cmほどコンクリートは削り取ったところで撤去作業を打ち切ったとのことで、現在も地中に台座下部が残存していると思われる。

このヒアリングの中で、台座周囲にコンクリート構造物(厚さ十数センチ、縦横1m四方)がそれぞれ3箇所あって、戦後は子供のかくれんぼの遊び場になっていたこと、コンクリートは鉄筋の代わりに竹が使われていて簡単に壊せたことなど、貴重な証言が採録されている。これが弾薬庫であって、3箇所で30発の弾薬が保管されていた、ということを著者は類似の事例(狭山の山口高射砲陣地の元隊員の証言記録)から推測していて、これらの弾薬庫を囲んで台座周囲に掩体として土嚢を積み上げていたと記している。

掩体が造成の土盛りではなく土嚢の積み上げであったという記述が、白鳥の住人へのヒアリングから得られたものなのか、件の山口高射砲陣地の証言から類推したものなのかは、記述の言葉が足りず、判然としない。

以上が紀要から得られた情報。

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(高射砲陣地築設要領 :1943年 参謀本部)

これは別資料からの引用ですが、戦時中の標準的な高射砲陣地の構造規定。半地下式の円形のプラットフォームの周囲3箇所にコンクリート製の弾薬庫。弾薬庫を覆い隠すようにプラットフォーム周囲を土盛り(掩体)して、1箇所出入りの通路を確保。これは7cm高射砲用の図面ではあるが、他の口径の高射砲でも基本構造は一緒。掩体の作り方は周辺地形との関係でバリエーションがあるようだ。

青砥(白鳥)の陣地では、砲台のプラットフォームは半地下式ではなく地表より30cmほど高いレベルに台座が据えられている。一帯が川沿いの低地であったため田畑に土をいれて地表より30cmほど高いレベルで造成したのだろうか。

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台座周囲の掩体(土盛り)が実際にはどうだったのか、というのがいまひとつ解らない。
戦後の写真を見ると、北側の列は台座周囲に土盛りの掩体があったような痕跡。不鮮明ではあるが戦時中の44年に撮影された写真での掩体らしき土盛りのサークルの影が確認可能。

しかし、中央の列と南側の列は戦後写真では掩体はなく、円形プラットフォーム周囲3箇所の弾薬庫が露出。戦後二年の間に土盛りが撤去されたという可能性も大ではあるが、戦時中の写真を見ると、中列の砲台は影の形から見て、その当時から掩体が存在しなかったようにも見える。たとえば、土嚢を積んだ簡単なものだったのか... 土盛りを築く前に水戸に中隊が転属になりその必要がなくなったのか... どれも想像の域を出るものではないにしろ、何か理由はありそう。

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周辺の高射砲陣地。葛飾区の青砥(白鳥)陣地の南側には江戸川区 小岩篠崎、北側には足立区 保木間に高射砲陣地があり、それぞれ12cm高射砲が6門が配備されていたとのこと。青砥のものよりも陣容が大きく重要拠点であったことが伺われる。青砥はこの2つの中間を埋める補完的な陣地だったのだろうか。いずれにしても東京の西側各地に作られた高射砲陣地より格段に規模が大きいのは、米軍の首都上陸や爆撃ルートを房総半島側からと想定してのことか。

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昨年から国土地理院の空中写真閲覧サービルで戦後の東京を「飛行」して高射砲陣地の位置を特定する作業を密かに進めてたりするのですが、似たような人はいるらしくGoogleの地図に高射砲陣地の位置がいつの間にか多数登録されているのに気がつきました。

未登録の場所もまだあるし、検索ワードによるのか、ここに保木間の陣地が表示から落ちてたりと不完全ではあるものの、こうやって全体像が見えるとまた別の話ができそう。

by hn-nh3 | 2019-06-02 12:35 | 構造物 | Comments(3)
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前回からのつづき。青戸高射砲陣地の2019年近況の後編。
隣家が建て替えで解体されて、これまで把握しづらかった全貌がわかるようになったのでざっくりと実測してきました。

d0360340_06363822.jpg円形台座の半径は2250mm。直径にすると4500mm。これは近隣の駐車場に残る台座とも寸法が一致。コンクリートの厚みは右側のアパート敷地の地面から20cmほどの高さが露出、左側の建て替え敷地側は基礎工事の都合で掘り下げてあるのか30~40cm程度が見えていて、まだ地中に続いている。

中央部のコンクリート円盤は外形900mm、中心に頂部外形240mmの円錐台形の突起。高さは5cm程度(実測忘れ..)で鉄管で補強された8cmぐらいの穴が開いている。
このコンクリート円盤は周辺とは少し材質が違うようだ。高射砲との連結で中心部は施工精度が必要とされたために工場で制作したプレキャスト部材ではないだろうか。これを現地に据えた後に周囲にコンクリートを流して固定したと想像。

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現地では前日に降った雨で周囲が濡れているだけかと思っていたのですが、こうやって写真を見ると円盤周囲のコンクリートは粒子が荒く少し柔らかそうな印象。ひょっとするとコンクリートでもないのかもしれない。機会があれば材質の違いを再確認してみたいところ。

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駐車場の台座にはこの中央部の円盤部材は残っていない。あればこんな感じかというのを黄色で写真に加筆してみた。周囲とは別部材で充填材が硬くなかったため撤去が容易だったのではと想像できます。現在はアスファルトが充填されている。
これらの実測、観察を整理したものが下の図。
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周囲の3箇所の弾薬庫など点線部分は推定です。弾薬庫はコンクリートで作られていたものの、鉄筋の替わりに竹が代用されていたとの話もあって簡単に壊せたようです。台座直径が4.5mは実測。弾薬庫の配置が直径8m程度の円に外接するのは戦後米軍が撮影した航空写真地図から推定。設置されていた99式8cm砲は、図面が見つからなかったので、元になったクルップ8.8cmSK C/30のもので代用。違いは照準器ぐらいとのこと(wiki)

直径4.5mの円形台座には内接1.9mの8角形の開口縁取りがあり、その中央部に直径90cmの円盤状部材をはめ込み、周囲を充填固定する構造。その充填部分、図でいうグレーに塗った8角形のエリアには12本の固定用ボルトが埋め込まれているはずだが、今回のリサーチでは未確認。

今回、隣家建て替えの情報をいただいた葛飾音頭さんから、最新のストリートビューに建物解体時の状況が写ってるとの追加情報。ストリートビューからのキャプチャー画面を貼っておきます。

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円形の台座が完全な形で残っていたのがわかります。その上に前に建っていた木造家屋の基礎工事で損傷した痕跡も見えないので、それこそ台座をそのまま基礎に利用していたのではないかと推測します。解体時の状況が見れたら面白かったかも。
例の中央の8角形の充填部のエリアがわずかに凹んでいるが見てわかります。

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今回リサーチの台座は図のA列3番の台座。駐車場に残っているのは6番の台座。このA~C列、No.1~18までの番号は私が便宜的につけているもので、公式に振られた番号ではないので間違いのようにお願いします。
このほかには2番の台座の半分が建物基礎に転用保存されているのがわかっていて、C列15番の台座の下部が地中に埋まっているとのこと。

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15番の台座が埋まっている駐車場の現在。地上面に痕跡はなく、葛飾音頭さんからの情報によれと解体時に12本のボルトが露出、それが地表に露出していた、とのこと。
はたと思いついて、ストリートビューの時間さかのぼり機能がリサーチに使えるかも、と試してみました。

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ストリートビューの左上に表示される撮影インデックスに時計のマークがついてる箇所は、過去のストリートビュー画像を見ることができます。この場所は2010年の撮影まで遡れました。

見つけました! ありましたよ、ボルトが。駐車する車のタイヤを痛めないようにかゴムシートを被せてますが、ボルト用の鉄管の頂部が地表面に並んでいるのが写ってました。2013年ストリートビュー画像ぐらいまで残っているのが確認できます。何だかタイムマシンみたい。

by hn-nh3 | 2019-05-26 08:08 | 構造物 | Comments(8)
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荒川を渡る。京成押上線、四つ木付近。荒川土手と並走する首都高速中央環状線の高架は好きな風景。ちなみにPerfumeのマカロニのPVの後半が撮影されたのはこの辺り。今回は聖地巡礼の旅ではないので素通りしてその先のお花茶屋駅で下車。

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駅から歩いて10分。白鳥3丁目にあった青戸高射砲陣地の跡に残るコンクリートの台座。陣地は半円形の布陣で6門×3列。計18基あったものの一つがこの駐車場に残る台座。この他に2基が住宅街の中に現存しているのが確認できてます。

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これについて去年、リサーチして記事にしているので詳しくはそちらを参照。>青戸(白鳥)高射砲陣地

一年ぶりの再訪となったのは、その記事を読んでコメントいただいた”葛飾音頭’さんからの報告。最近、3番目の台座にかぶっていた家屋(緑で着色した部分)が建て替えで解体されたらしく、家の下から台座がでてきたのが確認できた、とのこと。

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家が壊されて下から完全な形で台座が出てきて「中心部分には円錐台状の凸部が残っている」ことが確認できた、とのこと。
そして既に新しい建物の工事が始まってしまっている、ということも。

その情報を聞いて、何とか今週の水曜日(5月22日)に時間を作って行ってみました。話を聞いてから1週間も経ってしまっていたので、おそらくは工事をするのに邪魔だからその台座は解体撤去されてしまって行っても何もない状態なのが想像できたけど、なくなってしまったことを記録に撮っておくのも大事かな、と。

案の定、住宅か何かの建物の工事の真っ最中。北側のアパート側から恐る恐る覗いてみたら、アパート側にかかってる部分の台座は以前のまま。

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円形の台座の上にはアパートの給水タンク。その向こう側には前は古い木造2階建の家屋が建っていたのがなくなって明るくなってます。台座の向こう半分は撤去されてしまったのかしらと見れば、何やら新しいコンクリートに食い込んでいるような気配。

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何ということか。。新しい建物の基礎が台座の上に築かれてましたよ。ちょうど工事の職人さんいたので、前の家の下から出てきた台座どうなったのかを聞いたら、壊すに壊せないからそのままにして上にコンクリートを流して、新しい建物の基礎はその上に作っている、とのこと。

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台座の位置を推測するとこんな形だろうか。敷地の境界上、直径4.5mの円の中心あたりになにやら丸い突起物。
それが葛飾音頭さんの言っていた「円錐台状の凸部」なのか。

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これまでは敷地境界のブロックの下に隠されていた、台座中央部の構造物。周りから5cmほど盛り上がった円錐台の中央部には鉄環で補強された穴。

75年前は、高射砲がここに据えられていたのか。(つづく)

by hn-nh3 | 2019-05-24 22:07 | 構造物 | Comments(4)