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断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

ブタ公園

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公園のブタ。東京都杉並区の大宮児童公園にて
善福寺川沿いの森に大宮八幡宮という神社がある。その昔、源頼義の奥州征伐にまつわる伝説があったりと古い歴史を持つ社なのだが、それ以前からの聖地だったようで古墳時代の祭祀跡があったり、川を挟んだ高台には縄文時代の大集落があったらしい。台地の先端には戦時中に高射砲の砲台(松の木陣地)が作られたことも。これについては機会を見て取り上げたい話題だけど、今日は公園のブタの話。

公園ファイルその1:大宮児童公園
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環状7号線の少し外側。善福寺川沿いの森にある神社の横の赤い星のところがその公園。

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神社の土地を区が借りて公園整備をしたのだろうか。静かな森のほとりにブタが3匹。
地図と空中写真はGoogleMapよりキャプチャ。

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コンクリートでできたブタ。この類の遊具を専門用語では象形遊具、というらしい。
ここには親豚1匹と子豚2匹。初詣にも訪れる神社なのでよく知ってる場所なのだが、近年にペンキの塗り替えで子豚が青くなるという事件が起こった。

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青の悲劇。。。なんでブタさんが青いの?と子供に聞かれたら答えに困る。既成概念にとらわれてはダメだよ、と教えたらいいのか。


公園ファイル2:玉川上水第三公園
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先の公園から南下して、神田川沿いの台地の端。中央高速につながる首都高4号線のすぐ北側。江戸時代の水道用水だった玉川上水の水路跡地を公園にした場所。

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この公園には敷地のあちこちに動物がいます。黄色く囲った場所にもたくさんの動物遊具が。

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キリンやゾウ、シロクマ、イノシシにオットセイ。写ってないけどワニやカバ、ウサギにカメもいます。すべてコンクリート製、同じ形のものが他の公園にもあるので、おそらくは型抜きでつくった量産品。

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このエリアにはブタが4匹。子ブタが2匹にひとまわりおおきい兄ブタとでもいうのかそれが2匹。

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子ブタを横から。正式は呼び方は知らないのでとりあえず分類の都合、子ブタをブタ(S)、兄ブタをブタ(M)、大宮児童公園にいた長い親豚をブタ(L)としておきます。

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ブタ(S)の4面図


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ブタ(M)の横姿。ぶた(S)は鋭い目がペンキで書いてあったけど、こちらは穏やかな寝顔。

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ブタ(M)の4面図

ぶたの形をMとSを比べて見ると、体格の違いもあるけど鼻の形が違うなど微妙な造形的変化もつけてあるようだ。尻尾の巻き方も違う。芸が細かい。


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Googleの検索でブタのいる公園を調べてみる。地元でブタ公園と呼ばれているものは結構あるらしく、それなりの数がリストアップされた。面白くなってきたので、ブタのいる公園を地図にプロットしてみた。キーワード検索で見つかったものをプロットしているので、実際のブタ型動物遊具の分布とは異なっている可能性はあるものの、東京23区内の広範に生息域を持つことが判明。杉並区、世田谷区、板橋区に多数生息。なかでも前回の東京オリンピックの時に整備された駒沢公園にあるぶた公園は有名で、センスよく塗られたブタたちがいるインスタ映えスポット。

港区や品川区、千代田区や中央区ではブタ公園は見つからず。都会にブタは住めないのか?
もっともGoogle検索ではリサーチに限界があって、単純に公園のブタに興味を持って写真を撮ってる人がいる場所といないエリア、ということが浮かび上がっただけかもしれない。

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検索エリアを南関東に広げてみる。
ぶた公園の分布を調べてみようと思ったのは、「大宮公園ぶた公園」というかば◎さんのブログ記事なのだが、その囃し唄の広まった一帯にはブタ公園が多数存在すると思いきや、埼玉の大宮市や千葉、茨城にはブタ遊具の置いてある公園は発見できず。そもそもブタはいないのか、あるいは絶滅したのかは不明。神奈川方面では横浜にはいるけど川崎では見つからないなどの地域偏差も。

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全国レベルに広げてみると。基本的な分布は東京23区とその近郊に限定されることが明らかに。
大阪の住吉公園にそれなりの生息数が確認できるものの、近畿圏では別の種類の動物遊具が多く、基本的には別の生態系。北海道の室蘭にある祝津公園が今のところ確認できてる生息の北限。

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渋谷区 代々木大山公園のゾウ型滑り台(撮影2007年 ※現存)

公園の動物遊具にはゾウの形をした滑り台とかタコの遊具など個性的なものも多い。そうした大型の遊具は現場制作の一品造形。それに対して、ブタ型遊具は明らかに同じ(S/M/Lのサイズの違う3種類の)型からつくられた量産品。だからあちこちの公園に設置が可能で普及もしたのでしょう。とはいえコンクリート製で重量もあるから遠距離輸送には難があり、さすがに全国的な広がりを持つことはできず、ローカルな生息圏にとどまっていると想像します。

ブタ公園がつくられた年代を調べたら、昭和40年代に集中していることがわかりました。高度成長期に増加する子供に対して自治体が児童公園を整備したときに大量に作られて設置されたのでしょう。団地の公園でよく見かけるのも同じ理由でしょうか。
郊外が都市化していく時代とブタの分布は重なるのかもしれません。

地域的な偏差に関して、たとえば新宿区にはいるけど隣の中野区にはいなくて、その隣の杉並区には多数生息、というようなブタの多い自治体とそうでないところがあるのは、児童公園整備の公共工事入札にブタ遊具のメーカーが入り込めたところとそうでないところの差なのかもしれません。想像ですが。

調べてわかったブタ公園のリストを貼っておきました。ここにもブタがいるよ、というのがあったらお知らせください。
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by hn-nh3 | 2019-07-04 04:30 | 動物系 | Comments(6)
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開園当初の披露山公園(昭和34年頃)逗子市HP"逗子フォト"より

かば◎さんのブログ、”かばぶ’の最近の記事と連動して披露山公園の高角砲台跡についての検証続編。
今回は遺構としての「小坪高角砲台」の話ではなく、その砲座跡を利用して作られた披露山公園の施設について。

1958年(昭和33年)6月に開園の披露山公園は戦争中に作られた高角砲台の遺構を利用して公園の施設整備をしたというだけでもユニークなのだが、デザインは戦後モダンの良質のエッセンスが結実したものだと思う。開園から60年を経て今なお使われているということだけでも貴重だけど、時代遅れのうらぶれた気配もなく、むしろSF的というか今なお新鮮さを失っていない。

いったい誰がデザインしたのか、開園にはどんな経緯があったのかを知りたいところであったが、ネット検索ではさっぱり情報が出てこないので、半ば諦めていたところだ。
最近のかばぶの記事に触発されて、何か開園当時の資料は見つからないだろうか、ひょっとすると開園前の砲台跡地の状況も詳しく書かれてたりしないだろうかと、リサーチ再開。

そして、国会図書館のデータベース検索があったのを思い出した。国会図書館というと国内の全ての出版物が納められる巨大なアーカイブ。自費出版など非流通本を除く全ての書籍が保存されているのだが、国会図書館の収蔵資料のデータベース検索はネットでも可能で、本のタイトルだけでなく目次の単語ぐらいまでは検索できる。

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そして見つけました。"都市公園=Public Parks(14)" 1958年の公園雑誌に披露山公園が開園したときに書かれた記事。
これを見れば積年の謎がすべて解けるかと心が騒ぎ、午後の予定を急遽「外出..」にして国会図書館に行ってきました。地下鉄の永田町駅で降りて徒歩8分。国会議事堂の横。来るのは二回目。

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図書館内での本探しや閲覧、複写手続きを利用するには「会員登録」する必要があって、登録するにはまずは新館に行く必要あり。名前と住所、メールアドレス記入して運転免許など身分証明書を見せれば10分程度で登録カードの発行。それを持って、ロッカーに不要な荷物は預けて図書室に入ります。巨大な吹き抜け、しかし館内は撮影禁止。撮ったらダメなのは著作権が絡む本だけだろとタカをくくってロビーの写真を撮ったら、警備員に怒られました。なのでブログでの内部写真の掲載は無し。

館内にずらりとならぶ検索PCに陣取って目的の本を探す。本を指定すると書庫から本が出てきて館内で読むことができます。今回目的とした本は電子化が完了していて、PC画面でも閲覧可能でした。複写のページを指定して印刷ボタンを押すと複写部に送られます。窓口に行って登録カードを渡すと、送ったデーターを印刷して持ってきてくれます。便利な時代になりました。まだ20世紀の頃、前に来た時は本を探すのに木製の引き出しに入った目録カードをひたすらめくって気が遠くなった思い出があるけど。

一部を引用します。
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都市公園=Public Parks No.14 表紙:国立国会図書館にて

こんな感じでスキャンされた本のページ画像をA4にプリントしてくれました。それを再スキャンしたものなのでちょっと不鮮明ですが雰囲気はわかるでしょうか。記事の公共性も鑑みて引用紹介。

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都市公園=Public Parks No.14 口絵:披露山公園の完成予想模型

本を開くと見返しにこんな写真が掲載されてました。完成予想イメージ。とてもモダンです。
プロジェクトに関わった人が判明。
計画 立案・造園/岡 強 氏、建築設計/萩原克彦 氏、施工/萩原建設株式会社  

披露山公園に関する記事の目次:
P13 逗子市長 山田俊介氏による挨拶文、P14〜19 岡 強 氏による公園構想の解説、P20~24 萩原克彦 氏による建築の説明、仕上、建設費など。

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都市公園=Public Parks No.14 p16抜粋

雑誌の発行は1958年8月。公園開園はその年の6月だから、記事もその頃には入稿済みのものだろう。当事者による証言と開園当初の状況がわかる写真など貴重な一次資料である。公園整備以前にもアプローチの道は常に手入れがされて桜並木も植えられていたなど、荒廃していた訳ではなかったらしいことなど当時の状況を語る記述は興味深い。しかし、総論的な報告が多く、期待していた公園施設の詳細な図面などの掲載はなかった。残存していた砲座遺構の写真や調査記録など公園整備前の遺構の状況にも触れられていない。

戦後10年ほどの頃である、戦争遺構などは披露山に限らず未だ各地に残存してさほど珍しいものではなかったのだろう。用途こそ特殊ではあるが、当時としては作られてから20年も経っていない構造物である。あえて貴重な紙面を割いて記録、説明するようなものでもなかったのだろう。

考えてみれば当然か。たとえば、今の時代(2019)に空きビルになっているバブルの頃に建てられた豪奢な建物をリノベーションして海外からの観光客用の簡易ホテルにする計画があったとして、改装前のバブル建築の特徴を延々と説明するだろうか。

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都市公園=Public Parks No.14 p20-21

それはそれとして、記事を読み込んでいくと、現在も使われている公園施設について目視観察だけではわからなかったことも判明した。いくつか気になる記述を引用します。

「展望台とレストハウスの中間の砲座には最初陳列場を設ける予定であったが予算の都合から取止めて、そのまま残土で埋めて花壇を設けた。将来必要であれば堀土して利用することができる」p17

「他の砲座は金網をかぶせて猿檻とした。これは木造による簡易工作物である」p17

つまり、花壇は当初から構想されたものではなく、ショーケースの類をつくる構想が予算不足で、ひとまず花壇になったこと。後々、別の計画で利用できるように砲座遺構はそのままに土をいれて花壇としたこと。猿舎は現在のような鉄製の檻ではなく木造の簡易なものであったようだ。

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現在の披露山公園(2017年撮影)砲座利用の花壇と展望台と猿舎

現在の花壇はただ砲座に土をいれただけという程、簡易なものではなく砲座の内側にぐるりと池を回した構造である。砲座の内側に築造された池の堰堤は当然にコンクリートであるから、「そのまま残土で埋めて花壇を設けた」というほどアバウトなものではない。埋めただけというのはプロデューサーがざっくりとした方針を語ったまでで、実際には実務レベルで細やかな設計がされた、と考えることもできるが、花壇の池は後の改修でつくられた可能性がある。

レストハウスは指揮所跡のコンクリート地下構造物を基礎がわりに木造で平屋のものを作ったとあり、屋根は当初はフラットルーフであったようだ。(現在は三角屋根)展望台は鉄筋コンクリート構造で公園予算の大半をつぎ込んだとのこと。仕上材も記載されていて、木製サッシ、ガラスは5mmとある。

現在の展望台は1階、2階ともに外気に解放されたベランダ状の空間であり、2階の外周は手すりと支柱のみ。材質がアルミなのは後の時代の改修で取り替えたものであろう。

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逗子市のホームページの写真アーカイブ”逗子フォト”に開園当初の展望台の写真が掲載されている。
写真の展望台2階の右端(赤い矢印の部分)にサッシの支柱とは違う細い線がうっすらと見える。やはり開園当初、2階はガラスをはめた展望台であったようだ。60〜70年代のドライブインや風光明媚なホテルでは最上階に円形のガラス張りの展望室がある建物がたくさん作られているが、その走りであったのだろうか。

記事の引用に戻る。
「計画者として気になるのは、レストハウスと展望台が準恒久建築であるのに対して猿島と藤棚が非耐久建築であることであるが、予算上から….(略)』p18

レストハウスや展望台に比べて、猿舎は写真も掲載されてなく雑誌記事での扱いはぞんざいである。猿の檻に至っては仕上の記載もない。人間とサルでは扱いが違う、という訳でもないだろうが。
設計者のコメントにて、猿の檻は藤棚と同じような簡易なものであることが示唆されている。予算不足でやむをえない選択だったのだろうか。それがためにあまり語られていないのかもしれないが、現在のものとは違う木造の簡易なものであったことが伺いしれる。

上に引用掲載した雑誌のカバーページに計画時の公園模型の写真を観察してみよう。園内の地面はコンクリート製の鋪石ブロックを敷き詰める予定であったが、それも取り止めとなったそうだ。一番手前の砲座は陳列場を取り止めて花壇になったということで模型は最終案なのだろうが、確かに花壇を縁取る池が計画されているようには見えない。やはり池は後で付け加えられたものなのだろう。

模型の左側、一番奥の砲座の部分を見ると、猿山らしき盛り上がりは作られているものの、そこにすっぽりとかぶせる檻の姿は見えない。設計者が「猿島」と言っているのも気になるところ。動物園のサル山展示でよくあるようなオープンなものとして計画されたのか。あっても網付きのフェンス程度のものだったのか。何せ開園時の「猿島」の写真が掲載されていないで詳細は不明。ちなみに猿島の工事費は当時の金額で19万8700円。藤棚(18m×15m)はというと6万8400円だから推して知るべし。

では現在のような砲座をすっぽりと覆う大きな鉄檻はいつ作られたのか。

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同じく、”逗子フォト”には開園当初の披露山公園として鉄製の猿檻の周りに集う市民の写真がある。

雑誌の記事の記述によると、
「第二期工事により近い将来小禽、小獣舎(林間火薬庫跡)パーゴラ(展望台左右)その他がある。」p18

開園当初は平屋のレストハウス、池のない花壇、ガラス張りの展望台、木製の簡易な構造物だけの「猿島」だけであって、園内に現存する動物小屋などは第2期工事で作られたことが伺い知れる。動物小屋を観察すると、鉄製のフレームは接合部に三角の補強プレートを配した構造で、往時の写真で確認できる鉄製の猿檻のディテールとよく似ている。

鉄製の猿檻は、第2期工事で鉄製のものに変えられたものなのだろう。
冒頭の園内風景の写真では花壇には既にに池があり、奥の猿の檻も鉄製のものが写っている。撮影時期の昭和34年という記述が正しければ、開園後すぐに第2期工事に着手した、ということになるのか。この辺りの事実関係はもう少し精査が必要かもしれない。

往時の猿檻の写真を見ていて気付いたのは、檻の基部にまわされたたコンクリートのサークルは現在のものより低いように見える。現在のものは(周囲の地面の状態で高さは変化するが)鉄網にそって30cm前後のコンクリート立ち上がりがぐるりと回る。それに対して往時の写真では縁石程度のもののようにも見える。ひょっとして現在の檻は一度作り変えた「三代目」の檻なのか?

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現在の猿の檻の屋根架構:撮影 かば◎さん

現在の檻のフレームを注意して見ると、屋根の同心円状のフレームはつなぎ材が曲線ではく、直線部材をつないだ擬似円であることがわかる。それに対して往時の写真のつなぎ材は曲線材のように見え、しかも現在のものより細い。

ここからは想像なのだが、「2代目」の鉄檻は老朽化もしくは強度不足で後の時代に建て替えられることになった。しかし猿を飼育展示しながら檻を建て替えるためには、猿の逃亡を防ぐために2代目の檻はそのままに一回り外側に三代目の鉄檻をかぶせるように建設、それから内側の二代目の檻を解体した。などなどそんな推理をしてみた。

この仮説には少し根拠があって、現在の檻の基部縁取りは砲座のすり鉢状コンクリートの内側から30cm以上離れている。砲座を利用して檻を建てるなら、砲座のコンクリートの縁の上に建てるか、構造上そこに載せられないなら、そのすぐ外側に沿わしてコンクリート基礎をつくればいいように思う、しかし現状は中途ハンパな余白があり、コンクリートで埋められてはいるものの猿がそこに座って網の外に手を伸ばせてしまうためか、檻には細かな鉄網を追加してある。

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縁の微妙な余白はかつてそこに二代目の檻があった痕跡なのでは、と勝手に想像してみた。
実際はどうだうだったのか当時を知る職員関係者か、地元の古老に聞いてみたいところだ。

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公園開発前の砲座跡(逗子フォトより)

砲台遺構についての話は少ない。
市長の挨拶文の中に、海軍用地だった国有地を関係省庁と交渉して使用貸借(無償貸与)をとりつけたこと、岡氏が立案した整備方針として、遺構は強固であるため壊さず利用することで工事費の節減にもつなげること、そして設計者は以下のように触れている。

「元海軍高射砲陣地跡で円形の鉄筋コンクリートベース(直径十二・五米、深さ一・六米)三基と煉瓦及び鉄筋コンクリート造半地下式監視所跡1箇所があった」P20

短くはあるが具体的な記述で興味深い。他の記事などでは砲座の直径は12mと説明されることが多いが、設計者は12.5mと述べている。この12.5mという言及をしているのが施設設計者であるだけに言い間違えということはないはずだ。一般論としてざっくり説明するのに約12mと表した言葉がどこかで一人歩きして直径12mという定説になった可能性がある。
しかし50cmというのは無視できない誤差ではある。おそらくは設計者である萩原氏はコンクリートの縁の外径が約12.5mであることを説明したのだろうし、直径12mという表現は、砲台としての機能寸法、つまりはコンクリートの縁の内法が約12mで出来ていることを言っているのかもしれない。

砲座のすり鉢の深さが1.6mというのも貴重な記述だ。現在、具体的に測るにはサルになって檻の中に入れてもらうしかなく、展望台のすり鉢は縁の上部から45cmの深さまで埋められてしまっている。(開園当初はもう少し深くまで残されていたように写真から伺える)

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これまで筆者が作図した図面は砲座外形12m、深さは猿の檻を定規に見立てた目測で1.8mと推定していた。これらは少し修正をかけたほうがよさそうだ。砲座の図面修正とともに、猿の檻の柱の立ち方や檻の中の小檻の形状を把握しやすい写真をかば◎さんにいただいたのでそれも含めて図面のアップグレードをしてみたいと思う。
前回の記事では写真の読み取りの間違いを指摘されて、すぐにでも修正しようと考えていたのだけど、この図面修正の作業の後にあらためて訂正をかけることにします。

猿の檻のガレージキット....と冗談めかしたコメントをいただいてましたが、ふふ。二年前、披露山の砲台についての最初の記事を書いた時、冗談でこういうものを作っていたんですよ。猿の檻の1/72スケールキット。もちろん外箱だけ。

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by hn-nh3 | 2019-06-26 19:02 | 構造物 | Comments(5)

ふたたび船岡山

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8月16日早朝。毎年の盆の京都、今年もまた船岡山に登る。目的は山頂にあるサイレン塔の「追加調査」。昨年の夏に書いた記事(船岡山に登る)の続編。

船岡山の山頂にある謎の構造物は、戦前に作られたサイレン塔というもので、戦時中は空襲警報を鳴らし戦後しばらくは時報を流していた、ということらしい。しかしそれ以上の情報はネットでは得られず、その詳細は不明。

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全景はこんな感じ。高さ6m程度の小さな構造物。船岡山はかつての平安京の中心軸北方に位置する標高差45m程度の小山で平安京の造営基準になったと言われていて、中世の応仁の乱の時には西軍の陣地が築かれたこともあるような周囲から独立した山。周囲からの視認性もよいので、サイレン塔の手前には地図測量用の三角点が据えられている。

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サイレン塔の構造はコンクリート。外壁表面には化粧モルタルが塗られ、現在はペンキ塗り。側面には横長の66cm幅の小窓。木枠が残っているものので、当初は何らかの窓部材があった可能性あり。

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建物裏側には地面に近いところに小さな小窓。何のための開口なのだろう。窓の横には配線を通すための鉄管が残存。


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巻尺とレーザー距離計で簡易計測して図面化してみました。外面寸法で1.7m弱の矩形に内寸50cmの半円形の煙突状の塔が付属する平面構成。

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塔は中空。中から見上げると上に抜けているのがわかる。塔というよりも煙突というべきか。上に抜けているだけなのでサイレンの音を遠くに飛ばす構造には思えず、何のためにこうした形状になっているのかが分からない。まさか煙を焚いて狼煙(のろし)をあげていた訳ではないだろうに。

「煙突」の内側頂部をよく見ると何かの金具が残っているのが確認でき、おそらくは頂部に4方に向けたスピーカーなどが取り付けられていて警報などを発していたのか。この塔は煙突の機能というよりスピーカーを高所に設置するための「台座」として便宜的に形作られたものと想像します。むろん全て憶測の域をでるものではないのですが。


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塔を裏側から見たところ。裏面はフラット。水平に回された2段の庇は正面からの見え方だけのために設置、というデザインの割り切りがすごい。裏側をよく見ると所々に金具の痕跡が見られ、おそらくは梯子がついていたものと推測。庇が裏側にないのはそのため、ということもできる。

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断面図、立面図も作成。塔の高さは2段目の庇までをレーザー距離計で測って頂部までの距離は写真からの推測。平面寸法は作業に必要なスペースなどの機能寸法から導かれたものと思われるが、塔の高さは何を基準に設定されたんでしょうね。2段目の庇の上端までの高さは約4m85cm。尺貫法でいうと、一丈六尺。釈迦の身長といわれる丈六仏の高さと符号しますが、塔の頂部までの高さではないから、特に関連はなさそうです。

塔の曲線を生かした水平の庇を上部に回すデザインは戦前の1930年代に流行したモダン建築に見られるもの。昭和12年(1937)に完成した関西電力京都支店のビルも同様のデザイン。

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内部の壁はコンクリートの素地。西面に奥行30cm程の錆びた鉄箱。上面にはスリット、下部は底がないのか腐食して抜けてしまったのか。箱内部は上下に合計8本の機器(or配線)固定用のペグ。北側の外壁から飛び込む配線用配管が下部に、上部には西側外壁上部に抜ける配管が残存。

今回のサイレン塔調査はここまで。30分ほどの簡易計測なので、図面精度もそのぐらいのものですが、例によってDropBoxリンクでPDF図面をダウンロードできるようにしておきます。


文献資料に関してはやはりネットでは限界あるので、どこかで京都市の図書館にでも行って手がかりを探してみたいところ。

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船岡山は現在、東の山麓に建勲神社、西側は船岡山公園。写真は公園の入口付近にあった案内版を撮ったものなのでガラスの映り込みがあって見づらいところもあるものの、サイレン塔などの位置関係はだいたいこれでわかると思う。
写真で見切れてしまってる部分には昭和10年の開園当初からの広場に「ラジオ塔」が残っています。

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d0360340_09533276.jpg高さ2.5mほど、花崗岩が貼られた四角い塔の上部には四方に四角い開口があり、内部にスピーカーがあるのが網越しに確認できます。胴部にはラジオ塔の由来を書いた銘版があり、それによると昭和10年(1935年)の開園にともなって建設されたものだとか。ニュースやラジオ体操を流していた様子。

現在はラジオ塔は使われていないものの、公園の広場ではラジカセ持参で近所の人たちがラジオ体操してました。


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d0360340_10372286.jpg船岡山の南側の山麓は急峻で斜面にはあちこちにチャート石の露頭が姿を見せていて、山全体が大きな岩盤でできているように思われます。西賀茂断層の一部なのでしょうか。

山の頂にも古代の磐座と思しきチャート石の露頭。隣にある丸い花壇のようなものは正体不明。


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案内図に記載のあった旧猿舎を探すものの特に目立つ痕跡はなし。周囲に低い土留めを築いた丸い土壇が猿の檻があったところなのだろうか。ただの空地。兵どもが夢の跡ではなく猿が夢の跡。

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d0360340_11231391.jpg例によって年代別の空中写真の比較。写真は国土地理院の空中写真閲覧サービスのページから。空中写真は上が北。
上掲の案内板の地図は南が上に描かれているので位置関係が左右逆に見えるのは要注意

2008年(平成20年)、1975(昭和50年)、1946年(昭和21年)の写真で共通に確認できるのは明治期に設置された測量用三角点。サイレン塔もあるはずなのだが解像度の限界で判別はできず。現在、東西2箇所の広場にある円形の花壇のようなものは、1975年の写真では確認できないことから比較的新しい時代のものか。猿舎は2008年、1975年の写真で確認できるように思われるものの像がぼやけていて定かではない。


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猿舎の跡地からの南側の眺め。猿の見た京都もたぶんこんな風景。

by hn-nh3 | 2018-08-18 11:46 | 構造物 | Comments(0)
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逗子の海を望む高台にある披露山公園が戦前は高射砲陣地だったこと、戦後に公園と整備したときに残っていたコンクリートの砲座を公園施設(花壇、展望台、猿舎)に活用したこと、その現地リポートと考察を前に書いたが、その後いろいろと情報が寄せられ、前の記事内容も少し修正が必要になってきたので、改めて気になってたことも含めて書き留めておきたい。

いつもコメントをいただいているかば◎さんが、披露山公園(小坪砲台)と横須賀の砲台山の遺構をリサーチしているので、詳しくはそちらを確認されたし。

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そこから解ってきたことは、披露山(小坪砲台)の公園猿舎のコンクリートサークルと床は砲座の構造物がほぼそのまま転用されたと考えて間違いないこと、三浦半島にある砲台山の遺構とは基本構造が同じ、ということ。

かば◎さんが飼育員に聞いた話として、猿舎の側壁に設置された小檻の奥には大きな穴があって、隣接するニッチの倍ぐらいの奥行きがある、ということを指摘。これは、砲台山などの類例から待避所の跡だったと推測。ニッチは即応弾用の弾薬保管場所だったと考えられ、合計8箇所あったらしい。階段脇の1つは埋められたらしく、現在確認できるのは7箇所。

床面の待避スペースに相対する位置に、円環状の金具が3〜4箇所。砲台山の遺構にも同様の痕跡が残っていることから、おそらくこれも当初からのものと考えて間違いなさそう。このことから猿舎の床も戦前の砲台の遺構を活用したものと推測。床面の構造は砲台山のものとは少し異なるものの、床の全面にコンクリートを敷設した様子は館山の砲台に類似。ニッチの天井の入隅や開口出隅のディテールにも違いがあって、砲台ごとのバリエーションがあったと考えられます。

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猿舎の小檻の奥に残存する待避スペースについての考察と妄想。

参考資料として類例の写真を引用(館山の砲台写真:原典不詳、佐世保・弓張岳の砲台遺構:洗鱗荘ブログ>弓張岳高射砲陣地、横須賀・砲台山の遺構:鯛の尻尾をうばいとれ>砲台山、小坪の空中写真は国土地理院のアーカイブより)

類似の遺構(館山、佐世保弓張岳、横須賀砲台山)を見ると、兵員の待避スペースは天井のない塹壕状の半地下空間で砲座の円形のコンクリート側壁よりも周囲に張り出した構造。奥行きは弾薬保管庫の2倍程とのことなので、規模的には一致。披露山公園の小坪砲台の待避スペースも露天の窪みであった可能性もあるが、現状は上部もコンクリートで覆われた横穴になってます。戦後米軍が撮影した空中写真に目を凝らすと、露天の階段が現在の猿舎と花壇の砲座でそれとなく確認できます。しかし待避スペースらしき窪みの影は確認できず、これはやはり他の砲台とは違って、小坪砲台は地下に隠された横穴状の空間だったのではないかと。

右の写真。小坪砲台の航空写真に砲座の階段と待避スペース位置を復元してみます。
一番下の現在は猿舎の砲座。階段、待避スペース位置は現在も確認可能。現展望台の真ん中の砲座(実際は射撃観測所として使用)の階段と待避スペースは全くの推定。展望台階段の前のステージが何らかの地下構造物を埋めた痕跡ではないかと想像。一番上の現在は花壇となっている砲座は、空中写真の影から階段位置を推定。待避スペース入り口を写真の影からなんとなく想定。もっともこの推理は、不鮮明な写真の影から幽霊を探す作業以上のものではないことを断っておきます。

配置復元図の中に、ちょっと試しに待避スペース(黄色部分)を結ぶ点線(青)を描いてみました。ここからは全く憶測の域を出ない話ですが、「3箇所の砲座待避所を結ぶように連絡用の地下トンネルが存在した」..かも、かも、というイメージが3箇所の待避所の位置関係から浮かび上がってきます。

トンネルがあったという推理は想像の域を出るものではないものの、全く根拠のない話ではありません。それを示唆するのが、佐世保と横須賀砲台山の待避スペースの写真。奥の壁にトンネルの出入口があったような痕跡がそれぞれあります。ひとつは穴を埋めた痕跡、もうひとつはトンネルが崩れた土の穴。実際、他の事例ではトンネルや塹壕など砲座を結ぶ連絡通路が設けられてたという記述もあったりします。

小坪砲台の場合、高射砲を据えたのは花壇部分と現猿舎の砲座2基。中央の現展望台の砲座には測距儀(おそらく高射機も)を据えて観測所として利用していたと言われています。観測所の測距儀と高射機は各砲座と電気的に接続して、敵機の予測進路を電気信号で送り砲弾にセットする時限信管を調整していたようです。電線を地面に転がしただけだと誰かが足をひっかけて転んだり、切れたりするかもしれないから、当然のことながら埋設していたはずで、その埋設溝をかねて砲座をつなぐ地下連絡通路を作った可能性もあります。...実際、小檻の奥の穴の底に何があるかは、猿に聞いてみるのが早いかも。

床の円環金具が何のためのものかは、あれこれ想像するものの、これもまた推測の域を出ない話。例えば、射撃時に自動排出され薬莢がすこーんと飛んで転がって待避スペースの兵員に当たったりしないように防護ネットを張るためのもの。あるいは夜間の天幕用テント支柱。可能性がいちばん高いのは、時限信管の調整器と観測所からの電線を据え付けるためのもの。

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アップデートした図面です。待避所推定位置、謎の床の金具など追記してあります。
PDF図面をダウンロードできるDropBoxのリンク:→小坪 高角砲台_170811.pdf

各地にあった対空防衛用の高角砲台が実際どんな姿だったのかはその頃の機密情報だったりして当時の写真を目にすることは殆どなく、戦後に米軍が記録した写真の中にいくつかは確認できます。東京の小岩にあった防空陣地の写真を見つけたので、それを紹介しようと思ったのですが、記事が少し長くなってきたので、それは次回に譲り、ひとまず逗子の小坪砲台で話をまとめます。

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逗子の披露山公園:昭和33年開園当初の展望台遠景
(写真出典:「写真アルバム 鎌倉・逗子・葉山の昭和」いき出版)

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上は市立図書館で見つけた写真集の中から、開園当初の写真。周囲に樹木もまだ少なく、かなり開けた場所になっていたようです。円形の展望台のデザインも、基礎周りの砲座構造の影響を受けたことは想像に難くないものの、ぐるりと周囲を見渡せる場所であったことが決定的な理由だったかも知れません。戦前、防空陣地を構築した時に射撃の障害にならないよう伐採した可能性もあります。いずれにせよ、鬱蒼とした森に囲まれた現在の姿とはずいぶん違ったものだったのでしょう。

展望台既存部に露出する砲座の円形側壁。周囲から少し窪んだ形で残されていることの意味が読み取れないと前の記事で描いたら、近郊にお住まいの mitch さんから貴重なコメントをいただきました。
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開園当初の外周リング状半分近い海側部分は現在のようにコンクリートで埋められておらず、
半地下状の ’ 小動物舎 ’ でした。
その後現在の動物舎が作られ、コンクリートで埋めらた。
更に数年前に、ウッドデッキも設置されました。
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なるほど、今の猿舎と同じように半地下の砲座の構造が家禽類を飼育する囲いとして活用されていた、という話。展望機能と関係のない砲座の形が残された理由がわかりました。その後、新しい動物舎が花壇の脇に作られたとき、不要となった砲座の窪みはコンクリートで埋められるものの、手すりの支柱の足元の高さの関係で期せずして現状45cmほど窪んだ状態になってしまったのでしょうか。

前の記事に掲載した猿舎などの図面で少し修正が必要なものはあらためて、またアップします。

by hn-nh3 | 2017-08-11 14:10 | 構造物 | Comments(4)
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昭和33年(1958)年にオープンした逗子の披露山公園の風景。
(写真出典:「写真アルバム 鎌倉・逗子・葉山の昭和」いき出版)

逗子の披露山公園の話の続編。戦前の高射砲陣地の遺構が現在も残っているというのも驚きでしたが、戦争の記憶からいちばん遠くてもよさそうな公園の施設に軍用施設の構造物を利用しているのがとても不思議でした。3つの台座は花壇、猿の檻、展望台にと姿を変えてはいるものの、確かにそこに何かが存在した、という形をしています。猿の檻に至っては、痕跡どころか、ほぼ完全な状態。

一体どういう経緯で公園が作られたのかとか、公園施設であるなら何らかの記録があるのではと、逗子の市立図書館にも寄ってみました。郷土資料コーナーにはめぼしいものがなく、見つかったのは公園オープン時の写真。
未来的な展望台の形から70年台頃かと想像していたら、もっと古くて50年代の終わり、昭和33年でした。

戦前にコンクリートの台座が作られたのはその15年ほど前。「もはや戦後ではない」という言葉が語られたのは2年前の1956年。建設資材も重機もまだ貴重だった時代にそれほど古くなってない台座をわざわざ壊して全く新しいものを造るよりは、使えるものは使って市民の憩いの場を作った、ということなのかもしれません。
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配置図。右は公園の案内板、左は公園のレストハウスに貼ってあった都市計画地図。
こうやって地形を見ると、張り出した細長い尾根の上に作られたことがわかります。地形に沿って丸い砲座を並べ、尾根への入り口には(現在はレストハウスになっている)指揮所を置いて... 守備には向いた地形、なんだか山城のような配置。
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花壇、展望台、猿の檻、と丸い公園施設が等間隔で並んでいます。写真のいちばん手前に写っている花壇は、オープン当時は植栽もまばらだったようですが、現在はこんもりと常緑の低木を中心とした茂みに成長しています。その周囲を堀のように水草が浮く池で縁取っています。この池、話によると子供たちのザリガニ釣りの場になっている(かばぶのかば◎さん談)とのこと。
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高射砲座と花壇の関係を見るために、図面に起こしてみました。地中に埋まっているだろう台座の形は現在も確認できる猿の檻から推定。直径12mの円錐型のコンクリート土留めの外周に沿って池の縁石が並んでいます。池に恐る恐る手を突っ込んでみたら..ビンゴ。池の縁は垂直ではなく斜めになっているのが確かめられました。ちょっとぬるぬるするけど水の中に当時の遺構が沈んでます。そのままどこまで続いているのか手を伸ばしたかったのですが、カミツキガメとかいたら怖いのでやめました。だから池の深さは推測です。

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円錐型の砲座の底の丸いラインが花壇の縁になっていると思われます。そこからコンクリートを立ち上げ、池の水が漏れないようにして、巨大な植木鉢よろしく大きな丸い花壇を作ったのでしょう。台座の底面は中央の高射砲を据えるベース以外は土だったと思われるので、ちょうど植木鉢の水抜き穴のように、そのまま使ったのではと推測します。

周囲が池になっているのは、砲座のコンクリートの斜面で水が遮られるので、草花を植えるより池にするほうが都合がよかったのでしょう。公園の花壇にこういった類型は少なく、確実に砲座の構造が庭園デザインに影響を与えてます。

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猿の檻は、それこそ台座そのものに鉄のカゴをかぶせただけの構成。中央には水のたまった浅い池。ときどき猿が水を飲んでます。そのとなりに溶岩を積んだ猿山。円錐型のコンクリートの壁は猿を観察しやすく猿も駆けあがれるくらいの傾斜。
斜面の8つの横穴は猿の隠れ家みたいだけど、元は弾薬保管庫だった穴。猿を飼うための施設としてもよくできています。まさか敗戦後の使い道を想像していたとは思わないけど、他の使い方が考えられないくらい自然。

d0360340_15525936.jpg底の部分にコンクリートが全面に敷かれてるのは、戦前にはなかった仕様。周囲に排水の側溝が設けられています。中央には檻の構造柱のための基礎をとりまくように池がありますが、よく考えたら変な配置。中央に池がある必要もないと思うし、錆びやすい鉄の柱をわざわざ池の上に立てるのも、どこか不自然。

そういえば、隣町の鎌倉にある神奈川県立美術美術館に鉄の柱を池に浮かぶ柱の上に立てているデザインがあったけど、あれは 昭和26年(1951)だから、ひょっとしたら影響を受けたのかもしれないけど、ともかく池を中央に配置するのが都合がいい理由がそこにあったようにも思います。

たぶん、高射砲を据える台座コンクリートがそこにあったのが理由でしょう。それが元々どんな形状で、猿の池にどう利用されたのか、檻の外からは遠くて確かめようもないのですが。わからないことは猿に聞け... か。

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この公園の白眉はやはり、空に浮いたようなデザインの展望台でしょう。現在では不可能な薄さ(14cm)の円板状の床が空中に浮いたようになってます。中央のコンクリート円柱から跳ね出した軽快な構造体。屋根も同じように中央から円板状に張り出して、周囲には構造的な柱がでないように作られてます。GoogleMapで空から見ると、屋根は中央部に向かってくぼんでいるようです。通常の屋根のように周囲に向かって低くなって軒樋で水を受けるのではなく、その逆で中央部で雨を集めて、外周部には風景を遮る雨樋がでてこないように設計されているのがわかります。

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展望台には風景を遮る壁や柱は無く、周囲には細い手摺の支柱だけ。この日は靄がかかって富士山は見えなかったけど、江ノ島ぐらいまでは見えました。
建設当時の写真を見ると、現在とは少し違って透明なガラスかアクリル板でがあったようにも見えます。地上部も何かの施設があったのか...展望喫茶とかそんなのだったのかしら。

展望デッキの薄い床の構造はどうなっているのか、下から見上げたら、中央の円柱から腕のように梁を突き出して、階段を囲むように曲線梁を設けて床を支えてました。薄く軽くみせるための工夫で気の利いたデザイン。

1950年代って、戦後の復興で大した建物とかなかったように思うけど、神奈川県立美術美術館の他にも横浜の神奈川県立音楽堂ができたのは昭和29年(1954)とか、戦後モダンデザインの傑作がいくつも作られてた時代。この展望台もそんなムーブメントの中で誕生したと想像しますが、詳細は不明。これはもう少し調べてみたいところ。

話を戻して、展望台と高射砲座遺構との関係。展望台の地上部を横の方に回り込んでいくと、展望台周囲の空間が円形に周囲の地面から45cmほど下がって、その段差部分が斜めになっています。円錐型の斜面の勾配は2:3。 そこにかつての砲座のコンクリート擁壁が埋まってます。この窪んだ部分は現在のウッドデッキの下まで続いてたことも、ちょっと前の写真を検索して確かめることができました。

戦前の陣地のコンクリートは鉄筋は使わず、土圧を避けて斜めの構造にしたと思われます。しかし新たに展望台、それもこんなアクロバティックな構造物を作るのに際しては、さすがに鉄筋なしの基礎という訳にもいかず砲座を基礎として転用するのは諦めて、砲座の窪みをゼリーの型のように利用して新しいコンクリートを流し込み、展望台の基礎を作ったと想像します。

しかし、新しいコンクリートをなんで周囲より低い位置で止めたのかは謎。むしろ周りより高くしてより眺めが良くなるようにとか考えそうなものだけど、何かこれには理由があったのでしょうね。今となってはわからないけど。

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図面をPDFにてダウンロードできるようにDropBoxリンク貼っておきます。
展望台とか猿の檻のジオラマとか作ってみたい人は、DLしてご利用あれ。
小坪 高角砲台その後(花壇)_170707.pdf
小坪 高角砲台その後(猿の檻)_170707.pdf
小坪 高角砲台その後(展望台)_170707.pdf




by hn-nh3 | 2017-07-07 17:30 | 構造物 | Comments(9)
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先週、久しぶりに逗子。用事もそこそこに、ちょこっと大きく寄り道して山の上の披露山公園へ。今まで何度も近くを通っていたというのに、ちょっと小高い尾根の上にあるため素通りしてたのは不覚。

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SF的なフォルムの展望台があったり、孔雀や家禽類の小屋とか猿の檻とか、公園としても古きよき時代の名残を残していい感じなのですが、湘南の海を望む高台にあるこの公園、戦前の高射砲陣地の遺構を利用したものらしい。聞けば、園内にある直径12mの円形の花壇、猿の檻、展望台は12.7cm高角砲の砲座を利用してつくられたものなのだとか。

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国土地理院の航空写真、戦後すぐに米軍によって撮られたものと、現在の比較。この前の記事で使った写真よりもう少し形がよくわかるものがあったので、差し替えてみました。花壇、展望台、猿の檻が、3基の円形砲座の上に作られていることがはっきりとわかります。影の形から地面が丸く掘り込まれたトレンチ状の構造物であったこと、現在、展望台となっている部分には丸い砲座の穴に隣接して小さな丸い構造物が2つ確認できます。機銃座でもあったのでしょうか。

この陣地がいつ作られて、どのような装備があったのか、
このサイトに詳しく書かれています。→ 高射砲陣地と防空砲台>小坪防空高角砲台

昭和17年に3基の12.7cm連装高角砲を予定して陣地が作られたものの、配備予定の砲が巡洋艦高雄に回されてしまって、しばらくは探照灯と測距儀のみの状態だったようです。結局配備された砲は2基、残るもう一つの砲座には測距儀や高射機(軌道計算をするもの)などが据えられて観測所として使われていたようです。
上記サイトによると昭和20年8月の終戦時の装備は以下の模様。
*12.7cm連装高角砲2基、弾596発、95式陸用高射器1、ステレオ式4.5m高角測距儀1、96式150cm探照灯2基、25mm連装機銃2基、弾5395発。

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公園の猿の檻を覗き込むと基壇部は円錐型をした半地下状のコンクリート構造物。砲座がほぼそのまま残ってるのを見ることができます。檻の寸法から推測して深さは1.8m前後。現在はサルの隠れ家になっている8つの窪みはおそらく弾薬の仮置所。下に降りる階段も当時からのものか。

d0360340_12174443.jpgネットで見つけた写真(出典:大津島高角砲台遺構)。館山の高角砲陣地の写真と思われますが、まさに同様の構造物。半地下の砲座に連装高角砲。側面に四角い小さな横穴があるのも同じ。砲座の周りには掘った土を利用したのか、低い土塁も写ってます。小坪の砲台陣地にも土塁らしきものがあったことは、前掲の航空写真で判読できますが、現在は公園として整地されたので土塁の痕跡は消失。

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ちょっと図面を起こしてみました。直径12mという寸法は公園にあった看板の解説から。ざっくり計測した寸法とも一致します。深さや細部寸法は猿の檻の外からの目視推定。砲座の中央には高角砲を据えるためのコンクリート台座があったはずですが、現状確認できず。89式12.7cm連装高角砲をアバウトに配置してみました。この型式の高角砲が配備されていたのかは資料不足で推定です。

画像ではサイズ感がわからないと思うのでPDFでダウンロードできるようにDropBoxのリンク貼っておきます。

小坪高角砲台_170701.pdf

A3サイズ、100%でプリントすると1/72の縮尺、飛行機のプラモなどで大きさの比較ができます。
50%縮小でプリントすると1/144になるので、ガンプラと並べるならこのサイズ。
A4(72%)で出力するとほぼ1/100。


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展望台の足元にも砲座の痕跡らしき構造物。円錐型のコンクリート擁壁の上部が展望台の基礎の周囲に露出しています。高角砲の台座と気がつかなければちょっと変わった展望台の基礎の段差という感じで風景に溶け込んでいるものの、表面が荒れたコンクリートは周囲とは明らかに違う表情。

台座を埋めて作ったと思われる花壇は植え込みの周りをぐるりと細い池で囲まれた、砲台の形が由来のユニークなデザイン。
戦後に公園施設として作られた猿の檻、展望台、花壇に、3基の高角砲台座がどのように化けたかは、次回でまた詳しく。
(つづく)
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by hn-nh3 | 2017-07-01 14:59 | 構造物 | Comments(2)