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断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

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開園当初の披露山公園(昭和34年頃)逗子市HP"逗子フォト"より

かば◎さんのブログ、”かばぶ’の最近の記事と連動して披露山公園の高角砲台跡についての検証続編。
今回は遺構としての「小坪高角砲台」の話ではなく、その砲座跡を利用して作られた披露山公園の施設について。

1958年(昭和33年)6月に開園の披露山公園は戦争中に作られた高角砲台の遺構を利用して公園の施設整備をしたというだけでもユニークなのだが、デザインは戦後モダンの良質のエッセンスが結実したものだと思う。開園から60年を経て今なお使われているということだけでも貴重だけど、時代遅れのうらぶれた気配もなく、むしろSF的というか今なお新鮮さを失っていない。

いったい誰がデザインしたのか、開園にはどんな経緯があったのかを知りたいところであったが、ネット検索ではさっぱり情報が出てこないので、半ば諦めていたところだ。
最近のかばぶの記事に触発されて、何か開園当時の資料は見つからないだろうか、ひょっとすると開園前の砲台跡地の状況も詳しく書かれてたりしないだろうかと、リサーチ再開。

そして、国会図書館のデータベース検索があったのを思い出した。国会図書館というと国内の全ての出版物が納められる巨大なアーカイブ。自費出版など非流通本を除く全ての書籍が保存されているのだが、国会図書館の収蔵資料のデータベース検索はネットでも可能で、本のタイトルだけでなく目次の単語ぐらいまでは検索できる。

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そして見つけました。"都市公園=Public Parks(14)" 1958年の公園雑誌に披露山公園が開園したときに書かれた記事。
これを見れば積年の謎がすべて解けるかと心が騒ぎ、午後の予定を急遽「外出..」にして国会図書館に行ってきました。地下鉄の永田町駅で降りて徒歩8分。国会議事堂の横。来るのは二回目。

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図書館内での本探しや閲覧、複写手続きを利用するには「会員登録」する必要があって、登録するにはまずは新館に行く必要あり。名前と住所、メールアドレス記入して運転免許など身分証明書を見せれば10分程度で登録カードの発行。それを持って、ロッカーに不要な荷物は預けて図書室に入ります。巨大な吹き抜け、しかし館内は撮影禁止。撮ったらダメなのは著作権が絡む本だけだろとタカをくくってロビーの写真を撮ったら、警備員に怒られました。なのでブログでの内部写真の掲載は無し。

館内にずらりとならぶ検索PCに陣取って目的の本を探す。本を指定すると書庫から本が出てきて館内で読むことができます。今回目的とした本は電子化が完了していて、PC画面でも閲覧可能でした。複写のページを指定して印刷ボタンを押すと複写部に送られます。窓口に行って登録カードを渡すと、送ったデーターを印刷して持ってきてくれます。便利な時代になりました。まだ20世紀の頃、前に来た時は本を探すのに木製の引き出しに入った目録カードをひたすらめくって気が遠くなった思い出があるけど。

一部を引用します。
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都市公園=Public Parks No.14 表紙:国立国会図書館にて

こんな感じでスキャンされた本のページ画像をA4にプリントしてくれました。それを再スキャンしたものなのでちょっと不鮮明ですが雰囲気はわかるでしょうか。記事の公共性も鑑みて引用紹介。

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都市公園=Public Parks No.14 口絵:披露山公園の完成予想模型

本を開くと見返しにこんな写真が掲載されてました。完成予想イメージ。とてもモダンです。
プロジェクトに関わった人が判明。
計画 立案・造園/岡 強 氏、建築設計/萩原克彦 氏、施工/萩原建設株式会社  

披露山公園に関する記事の目次:
P13 逗子市長 山田俊介氏による挨拶文、P14〜19 岡 強 氏による公園構想の解説、P20~24 萩原克彦 氏による建築の説明、仕上、建設費など。

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都市公園=Public Parks No.14 p16抜粋

雑誌の発行は1958年8月。公園開園はその年の6月だから、記事もその頃には入稿済みのものだろう。当事者による証言と開園当初の状況がわかる写真など貴重な一次資料である。公園整備以前にもアプローチの道は常に手入れがされて桜並木も植えられていたなど、荒廃していた訳ではなかったらしいことなど当時の状況を語る記述は興味深い。しかし、総論的な報告が多く、期待していた公園施設の詳細な図面などの掲載はなかった。残存していた砲座遺構の写真や調査記録など公園整備前の遺構の状況にも触れられていない。

戦後10年ほどの頃である、戦争遺構などは披露山に限らず未だ各地に残存してさほど珍しいものではなかったのだろう。用途こそ特殊ではあるが、当時としては作られてから20年も経っていない構造物である。あえて貴重な紙面を割いて記録、説明するようなものでもなかったのだろう。

考えてみれば当然か。たとえば、今の時代(2019)に空きビルになっているバブルの頃に建てられた豪奢な建物をリノベーションして海外からの観光客用の簡易ホテルにする計画があったとして、改装前のバブル建築の特徴を延々と説明するだろうか。

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都市公園=Public Parks No.14 p20-21

それはそれとして、記事を読み込んでいくと、現在も使われている公園施設について目視観察だけではわからなかったことも判明した。いくつか気になる記述を引用します。

「展望台とレストハウスの中間の砲座には最初陳列場を設ける予定であったが予算の都合から取止めて、そのまま残土で埋めて花壇を設けた。将来必要であれば堀土して利用することができる」p17

「他の砲座は金網をかぶせて猿檻とした。これは木造による簡易工作物である」p17

つまり、花壇は当初から構想されたものではなく、ショーケースの類をつくる構想が予算不足で、ひとまず花壇になったこと。後々、別の計画で利用できるように砲座遺構はそのままに土をいれて花壇としたこと。猿舎は現在のような鉄製の檻ではなく木造の簡易なものであったようだ。

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現在の披露山公園(2017年撮影)砲座利用の花壇と展望台と猿舎

現在の花壇はただ砲座に土をいれただけという程、簡易なものではなく砲座の内側にぐるりと池を回した構造である。砲座の内側に築造された池の堰堤は当然にコンクリートであるから、「そのまま残土で埋めて花壇を設けた」というほどアバウトなものではない。埋めただけというのはプロデューサーがざっくりとした方針を語ったまでで、実際には実務レベルで細やかな設計がされた、と考えることもできるが、花壇の池は後の改修でつくられた可能性がある。

レストハウスは指揮所跡のコンクリート地下構造物を基礎がわりに木造で平屋のものを作ったとあり、屋根は当初はフラットルーフであったようだ。(現在は三角屋根)展望台は鉄筋コンクリート構造で公園予算の大半をつぎ込んだとのこと。仕上材も記載されていて、木製サッシ、ガラスは5mmとある。

現在の展望台は1階、2階ともに外気に解放されたベランダ状の空間であり、2階の外周は手すりと支柱のみ。材質がアルミなのは後の時代の改修で取り替えたものであろう。

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逗子市のホームページの写真アーカイブ”逗子フォト”に開園当初の展望台の写真が掲載されている。
写真の展望台2階の右端(赤い矢印の部分)にサッシの支柱とは違う細い線がうっすらと見える。やはり開園当初、2階はガラスをはめた展望台であったようだ。60〜70年代のドライブインや風光明媚なホテルでは最上階に円形のガラス張りの展望室がある建物がたくさん作られているが、その走りであったのだろうか。

記事の引用に戻る。
「計画者として気になるのは、レストハウスと展望台が準恒久建築であるのに対して猿島と藤棚が非耐久建築であることであるが、予算上から….(略)』p18

レストハウスや展望台に比べて、猿舎は写真も掲載されてなく雑誌記事での扱いはぞんざいである。猿の檻に至っては仕上の記載もない。人間とサルでは扱いが違う、という訳でもないだろうが。
設計者のコメントにて、猿の檻は藤棚と同じような簡易なものであることが示唆されている。予算不足でやむをえない選択だったのだろうか。それがためにあまり語られていないのかもしれないが、現在のものとは違う木造の簡易なものであったことが伺いしれる。

上に引用掲載した雑誌のカバーページに計画時の公園模型の写真を観察してみよう。園内の地面はコンクリート製の鋪石ブロックを敷き詰める予定であったが、それも取り止めとなったそうだ。一番手前の砲座は陳列場を取り止めて花壇になったということで模型は最終案なのだろうが、確かに花壇を縁取る池が計画されているようには見えない。やはり池は後で付け加えられたものなのだろう。

模型の左側、一番奥の砲座の部分を見ると、猿山らしき盛り上がりは作られているものの、そこにすっぽりとかぶせる檻の姿は見えない。設計者が「猿島」と言っているのも気になるところ。動物園のサル山展示でよくあるようなオープンなものとして計画されたのか。あっても網付きのフェンス程度のものだったのか。何せ開園時の「猿島」の写真が掲載されていないで詳細は不明。ちなみに猿島の工事費は当時の金額で19万8700円。藤棚(18m×15m)はというと6万8400円だから推して知るべし。

では現在のような砲座をすっぽりと覆う大きな鉄檻はいつ作られたのか。

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同じく、”逗子フォト”には開園当初の披露山公園として鉄製の猿檻の周りに集う市民の写真がある。

雑誌の記事の記述によると、
「第二期工事により近い将来小禽、小獣舎(林間火薬庫跡)パーゴラ(展望台左右)その他がある。」p18

開園当初は平屋のレストハウス、池のない花壇、ガラス張りの展望台、木製の簡易な構造物だけの「猿島」だけであって、園内に現存する動物小屋などは第2期工事で作られたことが伺い知れる。動物小屋を観察すると、鉄製のフレームは接合部に三角の補強プレートを配した構造で、往時の写真で確認できる鉄製の猿檻のディテールとよく似ている。

鉄製の猿檻は、第2期工事で鉄製のものに変えられたものなのだろう。
冒頭の園内風景の写真では花壇には既にに池があり、奥の猿の檻も鉄製のものが写っている。撮影時期の昭和34年という記述が正しければ、開園後すぐに第2期工事に着手した、ということになるのか。この辺りの事実関係はもう少し精査が必要かもしれない。

往時の猿檻の写真を見ていて気付いたのは、檻の基部にまわされたたコンクリートのサークルは現在のものより低いように見える。現在のものは(周囲の地面の状態で高さは変化するが)鉄網にそって30cm前後のコンクリート立ち上がりがぐるりと回る。それに対して往時の写真では縁石程度のもののようにも見える。ひょっとして現在の檻は一度作り変えた「三代目」の檻なのか?

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現在の猿の檻の屋根架構:撮影 かば◎さん

現在の檻のフレームを注意して見ると、屋根の同心円状のフレームはつなぎ材が曲線ではく、直線部材をつないだ擬似円であることがわかる。それに対して往時の写真のつなぎ材は曲線材のように見え、しかも現在のものより細い。

ここからは想像なのだが、「2代目」の鉄檻は老朽化もしくは強度不足で後の時代に建て替えられることになった。しかし猿を飼育展示しながら檻を建て替えるためには、猿の逃亡を防ぐために2代目の檻はそのままに一回り外側に三代目の鉄檻をかぶせるように建設、それから内側の二代目の檻を解体した。などなどそんな推理をしてみた。

この仮説には少し根拠があって、現在の檻の基部縁取りは砲座のすり鉢状コンクリートの内側から30cm以上離れている。砲座を利用して檻を建てるなら、砲座のコンクリートの縁の上に建てるか、構造上そこに載せられないなら、そのすぐ外側に沿わしてコンクリート基礎をつくればいいように思う、しかし現状は中途ハンパな余白があり、コンクリートで埋められてはいるものの猿がそこに座って網の外に手を伸ばせてしまうためか、檻には細かな鉄網を追加してある。

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縁の微妙な余白はかつてそこに二代目の檻があった痕跡なのでは、と勝手に想像してみた。
実際はどうだうだったのか当時を知る職員関係者か、地元の古老に聞いてみたいところだ。

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公園開発前の砲座跡(逗子フォトより)

砲台遺構についての話は少ない。
市長の挨拶文の中に、海軍用地だった国有地を関係省庁と交渉して使用貸借(無償貸与)をとりつけたこと、岡氏が立案した整備方針として、遺構は強固であるため壊さず利用することで工事費の節減にもつなげること、そして設計者は以下のように触れている。

「元海軍高射砲陣地跡で円形の鉄筋コンクリートベース(直径十二・五米、深さ一・六米)三基と煉瓦及び鉄筋コンクリート造半地下式監視所跡1箇所があった」P20

短くはあるが具体的な記述で興味深い。他の記事などでは砲座の直径は12mと説明されることが多いが、設計者は12.5mと述べている。この12.5mという言及をしているのが施設設計者であるだけに言い間違えということはないはずだ。一般論としてざっくり説明するのに約12mと表した言葉がどこかで一人歩きして直径12mという定説になった可能性がある。
しかし50cmというのは無視できない誤差ではある。おそらくは設計者である萩原氏はコンクリートの縁の外径が約12.5mであることを説明したのだろうし、直径12mという表現は、砲台としての機能寸法、つまりはコンクリートの縁の内法が約12mで出来ていることを言っているのかもしれない。

砲座のすり鉢の深さが1.6mというのも貴重な記述だ。現在、具体的に測るにはサルになって檻の中に入れてもらうしかなく、展望台のすり鉢は縁の上部から45cmの深さまで埋められてしまっている。(開園当初はもう少し深くまで残されていたように写真から伺える)

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これまで筆者が作図した図面は砲座外形12m、深さは猿の檻を定規に見立てた目測で1.8mと推定していた。これらは少し修正をかけたほうがよさそうだ。砲座の図面修正とともに、猿の檻の柱の立ち方や檻の中の小檻の形状を把握しやすい写真をかば◎さんにいただいたのでそれも含めて図面のアップグレードをしてみたいと思う。
前回の記事では写真の読み取りの間違いを指摘されて、すぐにでも修正しようと考えていたのだけど、この図面修正の作業の後にあらためて訂正をかけることにします。

猿の檻のガレージキット....と冗談めかしたコメントをいただいてましたが、ふふ。二年前、披露山の砲台についての最初の記事を書いた時、冗談でこういうものを作っていたんですよ。猿の檻の1/72スケールキット。もちろん外箱だけ。

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by hn-nh3 | 2019-06-26 19:02 | 構造物 | Comments(1)
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披露山公園建設中の風景 1957年12月頃(逗子フォト 逗子市HP より)

逗子市のホームページに「逗子フォト」というコーナーがある。市の広報用に収集した逗子の昔の写真をオープンソースで公開していて、逗子市民でなくても見ていて楽しい。
逐次更新されているようで、また新しい写真がアップされていた。上の写真は"建設中の披露山公園(昭和32年)"から。

逗子市きっての高級住宅街のある高台の一角にある市民公園の建設中の風景。とタイトルだけ見ればその公園で遊んだ記憶もなければ、はいそうですか、で終わってしまう写真なのだが、よく見ると写ってるものがヘンなのだ。それは作りかけの公園遊具ではなく、戦時中に作られた高角砲の砲座なのだ。

横須賀軍港の防衛のため、逗子海岸に面した山の上築かれた高角砲砲台は、戦後に無用となって普通はこの類のものは取り壊されるのだけど逗子市の場合は、なんと公園の施設に転用されたのだ。3基あった砲座は花壇、展望台、猿舎となって現在も使われている。冒頭の写真は展望台となる砲座から猿舎を見たところか。
 ※建設中の写真は花壇になる砲座から指揮所跡につくられたゲストハウス方向を見たものではないかとの指摘あり。以下関連記述は後日修正します。

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写真は2017年に訪れたときのもの。日付を見たら6月23日。ちょうど2年前。
砲座の上に作られた展望台(右)と猿舎(左奥)。花壇は写真を写している場所の背後。

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猿舎は円形の砲座を囲むようにオリが建てられ、内部にはすり鉢状の構造物がほぼそのまま残っている。
この様子については、以前に記事をいくつか書いた。


この砲台のことを教えていただいた かば◎さんもレポートを書いている。

かば◎さんの記事の中で逗子フォトに戦後間もないころの砲座の写真が掲載されていることを知り、猿舎の小檻の奥に隠れてよくわからなかった待避所と思われる場所の形状がわかってきた。先日のレポートではその部分の現状を実地に検分した写真をアップしている。

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披露山公園高角砲台跡(逗子フォト 逗子市HP より)

戦後間もない頃の写真を見て分かることは、高角砲を据え付ける部分は艦載用に開発された高角砲のターンテーブルを納めるためか丸くくぼんだ形状になっている。階段脇の向かって左の壁龕は他の弾薬保管用の穴とは違ってアーチ型の開講形状。これは現在はコンクリートで塞がれているもののその痕跡が見て取れることをかば◎さんが確認している。その左隣には円形の砲座のすり鉢からはみ出すように待避所のニッチが作られている。奥に待避壕でもあるのか、壁に開口。床も砲座プラットフォームから一段低くなっているようだ。この場所は現在は小さな檻がつけられていて、中の様子は人間には見えないようになっている。

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以前に描いた砲台の推定復元図をアップデートしてみました。前ははっきりわからなかった。アーチ型の壁龕と待避所の部分を修正した。階段も9段ではなく8段に修正。
待避所の張り出しは扇型で作図したものの、スクエアな形状のほうが作りやすかったのではという気もします。
しかし、かば◎さんレポートを見ると、外周は円弧になっているらしい痕跡が確認できる。

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砲座の上に作られた猿の檻。中心部の池は砲座の円形の窪みの部分を利用していて、池の縁取りと丸い穴の隙間は砂か何かで埋められてる模様。

冒頭の公園建設中の写真を見ると、展望台の砲座にもアーチ型壁龕が写っているの、3つの砲座はほぼ共通の要素を備えていたことは想像できる。ただしアーチ型壁龕の配置は猿舎のものと少し異なっていて階段の隣にあるわけではないようだ。おそらくは3基の砲座の配置の関係で個別に位置を設定したものではないか。

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ゼンリンの住宅地図を下敷きに猿舎と展望台の砲座を配置してみる。展望台砲座のアーチ型壁龕の位置は写真から推定。ひょっとすると角度的にはもうひとつ隣かもしれない。同じく展望台砲座の待避所の位置は想像。
そこと想定したのは、展望台足元にある不思議なステージというかベンチが展望台を作る時に階段と待避所を埋めるために計画されたのではないかとの推理。

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全体配置。南から猿舎(黒)、展望台(赤)、花壇(緑)の砲座。戦後米軍が撮影した空中写真(1946/08/15_USA-R227-A-3-81)から階段の方向はほぼ一定と推定。周囲に存在した土塁の影から待避所の位置がなんとなく想定できる。砲座間の距離は地図から35mと割り出した。

例のアーチ型壁龕や待避所の配置を見ると、それらが地下壕で繋がれていたのではないかと想像もできるが、それを裏付けるような資料や物証は確認できていない。
配置図の北側の黄色い四角は指揮所があった場所。南側斜面の小屋らしきものは何の施設だろうか。

配備されていたのは、八九式十二糎七高角砲(2連装 127mm 40口径)が2門。
豆知識ではあるが、海軍では高角砲、陸軍では高射砲、と呼び表していたので、このブログの記事もそれに倣っている。

by hn-nh3 | 2019-06-23 08:31 | 構造物 | Comments(5)

千歳船橋高射砲陣地跡

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自転車で街を走るのが気持ちのいい季節もそろそろ終わり。東京の鉄道は郊外に向けて放射状に整備されているので都心部に出るのは便利でいいのだけど、横断的に繋ぐ路線は少ない。そんな時に便利なのが自転車。途中いろいろ寄り道できるし。

この間、自転車を走らせていたら前方をショベルカーが道を塞いでいてちょっとびっくり。駐車場でトレーラーから下ろして近くの解体現場に向かうところのようだけど、キャタピラの金属音を響かせて進む姿に、戦車ってこんな感じかと思ったり。

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今回の目的地は千歳(船橋)高射砲陣地跡。航空写真は例によって国土地理院の空中写真サービスから。USA-M449-62/1947年9月8日米軍撮影。

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都下、城西地区にも戦時中、高射砲陣地が構築されていたことがわかっているが、遺構として当時の構造物が残っている場所は少ない。確認されている事例としては、先日紹介した青戸(白鳥)の砲座跡の他には、皇居の北の丸公園内の機銃座、調布(大沢)の保育園園内に残る砲座、前にここでも記事を書いた下仙川の町内会の看板の土台に転用された台座の一部。

ほとんど戦後の開発で失われているので、行ったところで何があるでもないのだけど、街のどこかに痕跡が残ってたりはしないかと、「跡地」となる場所を自転車での移動の時に寄り道するのが何となくライフワークと化しつつあるこの頃。

まずは事前のリサーチとしてどこに高射砲陣地があったのかを探すのだけど、東京西側の台地に作られる高射砲陣地は、場所の選定に少し法則があって「近くに小川のある台地の縁」というもの。これを頼りに戦後米軍が撮影した空中写真上を「飛行」していくとそこそこ見つかります。

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千歳(船橋)高射砲陣地のロケーションはこんな地形。地図は"今昔マップon the web"から並列の画面で地図と時代毎の航空写真、地形などが表示できるので便利です。これに砲台などの配置を加筆してみました。

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ゼンリンの住宅地図に重ねて見る。目黒川の支流となる烏山川(今は暗渠)に刻まれた南側に開けた台地の縁に陣地が鋼地区されてます。西側方向からの爆撃に備えたものか、扇型に高射砲の砲座が6基。1947年の写真ではそのうち4基は台座周囲の円形土塁が残存。2基は土塁が失われて台座まわりの3つの弾薬庫が露出。そのほかに機銃座なのか測距儀を据えたのかと想像できる円形の半地下構造が確認できます。

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1944年に陸軍が撮影した写真:95C3-C6-96 にも陣地の様子が比較的鮮明に写ってます。写真は国土地理院から。
これを見ると、6基の台座はすべて土塁が築かれ、隣接するように待避所なのか予備弾薬庫なのかは不明ではあるものの長方形の土盛り構造物があたことがわかります。扇の要にあたる部分に指揮所と思われるものも確認できます。台地を降った低地部分(現在は都立千歳丘高校のグラウンド)に兵舎などの建物があった模様。

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6月の初旬。荒玉水道道路を自転車で走らせていて、そういえばこの辺りだったかと寄り道。台地の縁の斜面。見通しのきく地形だったのだろう。

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フェンスの向こうは高校のグラウンド。当時の様子を伝えるものは全く無し。

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2番の台座があった辺り。何てことのない住宅街。近年に道路が拡幅されたのか電柱が路上に取り残されてます。

実は訪れた時には台座の詳細配置を検証する前で、だいたいこの辺りかぐらいで写真撮ったので少々的を外している。写真の右、赤い車が停まっているあたりに台座があったと思われます。ちなみに台座番号は例によって説明の都合で筆者が便宜的に割り振っただけなので誤解のなく。

思った通り、当時の痕跡は何もなかったよ、という報告で終わるのかと思いきや。後日、Googleのストリートビューの「タイムマシン機能」を使ってみたら、痕跡を発見。

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2番台座のあった場所の2009年の姿。ストリートビューの左上のインデックスに時計のアイコンついてる場所はクリックすると過去のストリートビューを見ることができます。

丸いコンクリートの変な駐車場。庭と仕切るフェンスも丸く。同心円状に分節されたコンクリートの中央は8角形になっていて中心部に円を描くようにボルト穴が12本(※本数は後記の別記事による)。これはどう見ても確実に高射砲の台座。

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Google Earthを使うと、近過去の空中写真を見ることができます。2007年の写真を見ると円形の台座が残る様子がはっきりと確認できます。近年までそのまま残ってたんですね。丸い形の駐車場として利用されていたというのはちょっと面白い
時代を替えて2012年になるとその場所は3軒の建売住宅に建て替わるので、 2010~11年頃に解体撤去されたのか。

調べてみると、このページ:Web東京荏原都市物語資料館(2015/12/17) に解体前の写真が掲載されています。土地の所有者の方が写した写真、とのこと。前ページには解体時の写真も。

その記事によれば、千歳船橋の陣地に配備されていたのは八八式7.5糎砲。部隊は陸軍高射砲第112連隊、第一大隊の第ニ中隊とのこと。第一中隊は久我山(15糎砲配備)、第ニ中隊が千歳、第三中隊は下仙川に配属。
千歳の部隊はB29を撃墜したという記録がある。昭和20年5月24。機体は赤堤付近に落下したらしい。

by hn-nh3 | 2019-06-18 12:36 | 構造物 | Comments(0)
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前回前々回に続き、青戸高射砲陣地 のリサーチの続編。

葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要に現存遺構についての話が掲載されていると、"葛飾音頭"さんよりお知らせいただき、現地リサーチの帰りに博物館に行ってきました。

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葛飾区郷土と天文の博物館 博物館研究紀要 第5号 1988.3発行。館内のライブラリーでも閲覧とコピーはできますが、受付で販売もしていたので購入。1260円なり。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

調査記録は地元の人へのヒアリングや部隊編成の記録収集など、それこそインターネットが普及する以前の「足を使った研究作業」で頭が下がります。

青砥(白鳥)の陣地に配属されていたのは高射第1師団、高射砲第115連隊第2大隊の第9、11、12中隊。中隊はそれぞれ指揮小隊と2つの小隊で構成され1小隊には3基の高射砲。3+3で中隊には6基、それが3列で合計18台の九九式8cm高射砲が配備されていたようだ。このうち第12中隊は、米軍の爆撃対象が地方都市に移行、また米軍の上陸に備えて水戸に転属との記述。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

米軍撮影の戦後の空中写真から砲台位置を特定、その他兵舎などの撮影時(1947)年頃にはすでに撤去されて写真では確認できない建物の位置も聞き取り調査などで明らかにしている。陸軍が1944年に空中写真を撮影したものが現在では国土地理院の情報サービスで閲覧可能だが、この調査当時(1988年)はまだその資料が入手できなかったのか、砲台列の中心部にあったと推定される高射算定具の設置場所についての言及はないものの、配備の記録のある「た」号電波探知機の設置エリアをヒアリングにより陣地北東部ではないかと推定している。陸軍の空中写真には円形に整地された場所が陣地北東部にあることが確認できるので、そこがレーダーサイトであったと特定して間違いはないだろう。

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(葛飾区郷土と天文の博物館の研究紀要 第5巻より)

現在、公道からも確認できる3つの台座遺構を紹介。前回の記事で取り上げた(当ブログ地図のNo.15の台座)遺構についても、12本の直径8cmの鉄パイプが地上部に露出する経緯などが記録されている。台座上部30cmほどコンクリートは削り取ったところで撤去作業を打ち切ったとのことで、現在も地中に台座下部が残存していると思われる。

このヒアリングの中で、台座周囲にコンクリート構造物(厚さ十数センチ、縦横1m四方)がそれぞれ3箇所あって、戦後は子供のかくれんぼの遊び場になっていたこと、コンクリートは鉄筋の代わりに竹が使われていて簡単に壊せたことなど、貴重な証言が採録されている。これが弾薬庫であって、3箇所で30発の弾薬が保管されていた、ということを著者は類似の事例(狭山の山口高射砲陣地の元隊員の証言記録)から推測していて、これらの弾薬庫を囲んで台座周囲に掩体として土嚢を積み上げていたと記している。

掩体が造成の土盛りではなく土嚢の積み上げであったという記述が、白鳥の住人へのヒアリングから得られたものなのか、件の山口高射砲陣地の証言から類推したものなのかは、記述の言葉が足りず、判然としない。

以上が紀要から得られた情報。

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(高射砲陣地築設要領 :1943年 参謀本部)

これは別資料からの引用ですが、戦時中の標準的な高射砲陣地の構造規定。半地下式の円形のプラットフォームの周囲3箇所にコンクリート製の弾薬庫。弾薬庫を覆い隠すようにプラットフォーム周囲を土盛り(掩体)して、1箇所出入りの通路を確保。これは7cm高射砲用の図面ではあるが、他の口径の高射砲でも基本構造は一緒。掩体の作り方は周辺地形との関係でバリエーションがあるようだ。

青砥(白鳥)の陣地では、砲台のプラットフォームは半地下式ではなく地表より30cmほど高いレベルに台座が据えられている。一帯が川沿いの低地であったため田畑に土をいれて地表より30cmほど高いレベルで造成したのだろうか。

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台座周囲の掩体(土盛り)が実際にはどうだったのか、というのがいまひとつ解らない。
戦後の写真を見ると、北側の列は台座周囲に土盛りの掩体があったような痕跡。不鮮明ではあるが戦時中の44年に撮影された写真での掩体らしき土盛りのサークルの影が確認可能。

しかし、中央の列と南側の列は戦後写真では掩体はなく、円形プラットフォーム周囲3箇所の弾薬庫が露出。戦後二年の間に土盛りが撤去されたという可能性も大ではあるが、戦時中の写真を見ると、中列の砲台は影の形から見て、その当時から掩体が存在しなかったようにも見える。たとえば、土嚢を積んだ簡単なものだったのか... 土盛りを築く前に水戸に中隊が転属になりその必要がなくなったのか... どれも想像の域を出るものではないにしろ、何か理由はありそう。

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周辺の高射砲陣地。葛飾区の青砥(白鳥)陣地の南側には江戸川区 小岩篠崎、北側には足立区 保木間に高射砲陣地があり、それぞれ12cm高射砲が6門が配備されていたとのこと。青砥のものよりも陣容が大きく重要拠点であったことが伺われる。青砥はこの2つの中間を埋める補完的な陣地だったのだろうか。いずれにしても東京の西側各地に作られた高射砲陣地より格段に規模が大きいのは、米軍の首都上陸や爆撃ルートを房総半島側からと想定してのことか。

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昨年から国土地理院の空中写真閲覧サービルで戦後の東京を「飛行」して高射砲陣地の位置を特定する作業を密かに進めてたりするのですが、似たような人はいるらしくGoogleの地図に高射砲陣地の位置がいつの間にか多数登録されているのに気がつきました。

未登録の場所もまだあるし、検索ワードによるのか、ここに保木間の陣地が表示から落ちてたりと不完全ではあるものの、こうやって全体像が見えるとまた別の話ができそう。

by hn-nh3 | 2019-06-02 12:35 | 構造物 | Comments(3)
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前回からのつづき。青戸高射砲陣地の2019年近況の後編。
隣家が建て替えで解体されて、これまで把握しづらかった全貌がわかるようになったのでざっくりと実測してきました。

d0360340_06363822.jpg円形台座の半径は2250mm。直径にすると4500mm。これは近隣の駐車場に残る台座とも寸法が一致。コンクリートの厚みは右側のアパート敷地の地面から20cmほどの高さが露出、左側の建て替え敷地側は基礎工事の都合で掘り下げてあるのか30~40cm程度が見えていて、まだ地中に続いている。

中央部のコンクリート円盤は外形900mm、中心に頂部外形240mmの円錐台形の突起。高さは5cm程度(実測忘れ..)で鉄管で補強された8cmぐらいの穴が開いている。
このコンクリート円盤は周辺とは少し材質が違うようだ。高射砲との連結で中心部は施工精度が必要とされたために工場で制作したプレキャスト部材ではないだろうか。これを現地に据えた後に周囲にコンクリートを流して固定したと想像。

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現地では前日に降った雨で周囲が濡れているだけかと思っていたのですが、こうやって写真を見ると円盤周囲のコンクリートは粒子が荒く少し柔らかそうな印象。ひょっとするとコンクリートでもないのかもしれない。機会があれば材質の違いを再確認してみたいところ。

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駐車場の台座にはこの中央部の円盤部材は残っていない。あればこんな感じかというのを黄色で写真に加筆してみた。周囲とは別部材で充填材が硬くなかったため撤去が容易だったのではと想像できます。現在はアスファルトが充填されている。
これらの実測、観察を整理したものが下の図。
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周囲の3箇所の弾薬庫など点線部分は推定です。弾薬庫はコンクリートで作られていたものの、鉄筋の替わりに竹が代用されていたとの話もあって簡単に壊せたようです。台座直径が4.5mは実測。弾薬庫の配置が直径8m程度の円に外接するのは戦後米軍が撮影した航空写真地図から推定。設置されていた99式8cm砲は、図面が見つからなかったので、元になったクルップ8.8cmSK C/30のもので代用。違いは照準器ぐらいとのこと(wiki)

直径4.5mの円形台座には内接1.9mの8角形の開口縁取りがあり、その中央部に直径90cmの円盤状部材をはめ込み、周囲を充填固定する構造。その充填部分、図でいうグレーに塗った8角形のエリアには12本の固定用ボルトが埋め込まれているはずだが、今回のリサーチでは未確認。

今回、隣家建て替えの情報をいただいた葛飾音頭さんから、最新のストリートビューに建物解体時の状況が写ってるとの追加情報。ストリートビューからのキャプチャー画面を貼っておきます。

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円形の台座が完全な形で残っていたのがわかります。その上に前に建っていた木造家屋の基礎工事で損傷した痕跡も見えないので、それこそ台座をそのまま基礎に利用していたのではないかと推測します。解体時の状況が見れたら面白かったかも。
例の中央の8角形の充填部のエリアがわずかに凹んでいるが見てわかります。

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今回リサーチの台座は図のA列3番の台座。駐車場に残っているのは6番の台座。このA~C列、No.1~18までの番号は私が便宜的につけているもので、公式に振られた番号ではないので間違いのようにお願いします。
このほかには2番の台座の半分が建物基礎に転用保存されているのがわかっていて、C列15番の台座の下部が地中に埋まっているとのこと。

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15番の台座が埋まっている駐車場の現在。地上面に痕跡はなく、葛飾音頭さんからの情報によれと解体時に12本のボルトが露出、それが地表に露出していた、とのこと。
はたと思いついて、ストリートビューの時間さかのぼり機能がリサーチに使えるかも、と試してみました。

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ストリートビューの左上に表示される撮影インデックスに時計のマークがついてる箇所は、過去のストリートビュー画像を見ることができます。この場所は2010年の撮影まで遡れました。

見つけました! ありましたよ、ボルトが。駐車する車のタイヤを痛めないようにかゴムシートを被せてますが、ボルト用の鉄管の頂部が地表面に並んでいるのが写ってました。2013年ストリートビュー画像ぐらいまで残っているのが確認できます。何だかタイムマシンみたい。

by hn-nh3 | 2019-05-26 08:08 | 構造物 | Comments(8)
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荒川を渡る。京成押上線、四つ木付近。荒川土手と並走する首都高速中央環状線の高架は好きな風景。ちなみにPerfumeのマカロニのPVの後半が撮影されたのはこの辺り。今回は聖地巡礼の旅ではないので素通りしてその先のお花茶屋駅で下車。

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駅から歩いて10分。白鳥3丁目にあった青戸高射砲陣地の跡に残るコンクリートの台座。陣地は半円形の布陣で6門×3列。計18基あったものの一つがこの駐車場に残る台座。この他に2基が住宅街の中に現存しているのが確認できてます。

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これについて去年、リサーチして記事にしているので詳しくはそちらを参照。>青戸(白鳥)高射砲陣地

一年ぶりの再訪となったのは、その記事を読んでコメントいただいた”葛飾音頭’さんからの報告。最近、3番目の台座にかぶっていた家屋(緑で着色した部分)が建て替えで解体されたらしく、家の下から台座がでてきたのが確認できた、とのこと。

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家が壊されて下から完全な形で台座が出てきて「中心部分には円錐台状の凸部が残っている」ことが確認できた、とのこと。
そして既に新しい建物の工事が始まってしまっている、ということも。

その情報を聞いて、何とか今週の水曜日(5月22日)に時間を作って行ってみました。話を聞いてから1週間も経ってしまっていたので、おそらくは工事をするのに邪魔だからその台座は解体撤去されてしまって行っても何もない状態なのが想像できたけど、なくなってしまったことを記録に撮っておくのも大事かな、と。

案の定、住宅か何かの建物の工事の真っ最中。北側のアパート側から恐る恐る覗いてみたら、アパート側にかかってる部分の台座は以前のまま。

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円形の台座の上にはアパートの給水タンク。その向こう側には前は古い木造2階建の家屋が建っていたのがなくなって明るくなってます。台座の向こう半分は撤去されてしまったのかしらと見れば、何やら新しいコンクリートに食い込んでいるような気配。

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何ということか。。新しい建物の基礎が台座の上に築かれてましたよ。ちょうど工事の職人さんいたので、前の家の下から出てきた台座どうなったのかを聞いたら、壊すに壊せないからそのままにして上にコンクリートを流して、新しい建物の基礎はその上に作っている、とのこと。

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台座の位置を推測するとこんな形だろうか。敷地の境界上、直径4.5mの円の中心あたりになにやら丸い突起物。
それが葛飾音頭さんの言っていた「円錐台状の凸部」なのか。

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これまでは敷地境界のブロックの下に隠されていた、台座中央部の構造物。周りから5cmほど盛り上がった円錐台の中央部には鉄環で補強された穴。

75年前は、高射砲がここに据えられていたのか。(つづく)

by hn-nh3 | 2019-05-24 22:07 | 構造物 | Comments(4)

戦争のかたち

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既刊本の紹介。「戦争のかたち」(下道基行 著  2005/7 発行 リトルモア 20.8×14.6×1.6cm 120P )
かれこれ10年以上前になるが、北海道の十勝平野の海岸線に戦時中に作られたトーチカ群が今も残っていることを知った。軍事構造物としてはナチスドイツが大西洋岸に築いたアトランティックウォールの要塞群が有名であるが、旧日本軍が米軍の上陸に備えて北海道の太平洋岸に構築したトーチカはなんとも貧弱で、侘しく取り残された風景が気になってしまった。

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そのころに見つけて買った本です。紹介する画像はすべてこの本から。

2005年というと、Googleの画像検検索、気になる本はAmazonで購入というのが情報との出会い方として一般的になっていただろうか。発信の仕方も大きく変わっていった頃か。カメラではなく、携帯で写真を撮って、HTMLを知らなくても使えるブログにアップしたり。

著者は1978年生まれ、2001年に武蔵野美大油絵科を卒業。卒業後にピザ屋で宅配をしている時に偶然出会った戦争遺跡に衝撃を受けてカメラを買って旅に出た、ということだ。決して軍事研究者だった訳でもなく、写真家だった訳でもなく。

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d0360340_19495288.jpgだから最初に言っておくと、廃墟マニアやミリオタのための写真集とか、歴史遺産の記録資料といったことを期待すると、少し拍子抜けするかもしれない。カメラを生業とした作家の写真集、といった風情でもない。..もっともっと軽い、のである。

だから面白い。戦争を知ってるとか知らないとか、そういう話ではなく、日常に紛れ込んでしまった「日常のかたちではないもの」を拾い集めた記録。

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前回の記事で少し紹介した大阪の東淀川区、西淡路高射砲台はこの本に載っている写真で知った。住居として改造されたこの砲台跡に住んでいた人もその頃は健在で、著者が2004年にインタビューした記事も掲載されている。

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同じく前に記事で紹介した東京の葛飾区 白鳥の高射砲陣地跡逗子の披露山公園の花壇に改造された高射砲陣地も写真が載っている。キャプションは地名のみで詳細な解説がある訳ではないので、ひとつひとつの写真の印象は薄く、昨日ふたたび本を開くまですっかり忘れていたくらい。もちろんそれは写真としての強度云々の話ではなく、通り過ぎる風景のように、気になった時にまた出会えばいいのだ。それだけの話。戦争ネタだからと言って別に懐古趣味的に語る必要もないし反戦的なフリをする必要もないし。

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「戦争のかたち」の歩き方 という見出しで、遺構のある場所の地図も載ってる。トーチカ、砲台、掩体壕などなど、実際に見に行く人は少ないと思うけど、これは便利かもしれない。というかこのフラットなビジュアルが、この本に通底するトーン。

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遺構が転用されて住居や公園施設になっている事例をポップなグラフィックに起こして説明している。物件毎の固有のディテールを捨象してタイポロジカルに表現したビジュアルは、楽しいけど写真に対して必ずしも成功していないように思う。気分はわからない訳ではないけど。


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その黄色いページに載っている「砲台パーク」こと、大分県の丹賀砲台園地の現存する砲台内部。トップライト屋根と螺旋階段を作って見学施設とした空間は圧巻。これはちょっと見に行きたい気もするけど、GoogleMapで調べたら地の果てのような場所

これに限らず、よくもまあこんなところまで行ったな、というのが多いです。自分もいくつかは実際に訪れたことがあるからわかるのですが、写真というのは1方向的なものだから必ずしも風景をリアルに捉えたものではない、という気がするのも事実。しかし、この本、間違いなく「買い」ですね。

本に載っている写真やビジュアルの一部、砲台住戸の住人インタビューなど、著者のホームページで見ることができます。

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(写真は全て「戦争のかたち」下道基行 著 より)

by hn-nh3 | 2018-09-12 22:04 | 資料 | Comments(4)

一円陣地

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カンヌでグランプリ(パルムドール)を受賞して話題になってる是枝裕和監督の映画「万引家族」はまだ見に行ってないのですが、その映画に出演していて、前から気になっていた安藤サクラ主演の映画「百円の恋」をツタヤで借りてきて遅ればせながら見る。
... 32歳のニートの主人公(安藤サクラ)と彼氏(新井浩文)のダメ女、ダメ男っぷり、そしてボクシングに目覚めて変わっていく主人公のかっこよさといったら。しびれましたね。

そんなDVDを観たり散歩したりで模型制作はなんとなく停滞気味。KV−1も手を動かしてはいるけど....その話は次回ぐらいかな。

100円ショップのレジ脇にはついで買いを誘うスナック菓子があったりするけど、秋葉原YSのレジで振り返ると、艦船用のカスタムパーツが壁から下がっていて手持ち無沙汰にこっちを眺めていたりするんですよね。

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自分、艦船ものには手をださないようにしてるので、その誘いには乗らない。...はずだったのですが、レジ待ちでふと見たら、なんだか聞き覚えのある高射砲の名前。八九式12.7cm高角砲。

大戦中の戦艦や駆逐艦などに搭載されていたものですが、地上の高射砲陣地にも配備された高射砲だったりします。

もっとも、都内の陣地ではスペックの低い八八式7.5cm高射砲がメインで小岩の陣地には12.7cm砲があったけど単装タイプ。この連装の八九式12.7cm高角砲は、近郊では前に記事にした小坪(逗子披露山)砲台など、横須賀軍港のような重要拠点の周囲に限定的に配備されたと想像します。

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守備範囲外の艦船模型でしたが、このファインモールドの1/700の高射砲のキットだけは、そんなことを理由にわが家に配備されてしまったのです。しかしパーツの細かいこと。ナノ・ドレッドと銘打ったこのシリーズはスチロール樹脂にABSを配合して強度を高めたとかで驚異的な細かいモールドを実現していて、1/35 AFVモデラーには眩暈を覚えるばかり。一箱に4セット入り。

組み立ては両手にピンセットを持って外科医になった気分で悪戦苦闘、パーツを飛ばすなどのアクシデントを乗り越えてなんとかひとつ完成。こんなことを軽々と100回繰り返せる艦船モデラーを尊敬しますね。
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とても小さな高射砲モデル。写真に撮っても小さい。

前に描いた小坪砲台の図面を1/700に縮小してプリントした紙の上に試しに配備してみました。1/700スケールの八九式12.7cm高角砲の陣地の完成。
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直径12mの円形の砲座も1/700スケールに変換すると直径1.7cm。プラ板をサークルカッターで切り出して積層するなどして、コンクリートのすり鉢状の半地下構造を再現したいところでしたが、その小ささにちょっと心が折れました。
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比較のために隣に一円玉。硬貨の直径は2cmだからそれより小さい。

吹けば飛ぶ紙の上に構築された一円陣地はつかの間。身捨つるほどの祖国はありや。
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by hn-nh3 | 2018-06-17 06:18 | 構造物 | Comments(4)

青戸(白鳥)高射砲陣地

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昨年から追跡中の高射砲陣地の跡地サーベイ続編。今回は都内、葛飾区 白鳥三丁目にあった青戸(白鳥)高射砲陣地。

自分の把握している範囲では都下(多摩地区、島嶼部除く)の高射砲陣地は二十数箇所。しかしその殆どは遺構を留めることなく、北の丸公園、白鳥、調布、下仙川に高射砲台座の一部が残るのみ。その中でも白鳥の遺構は街と一体化しているものとしてユニーク。図の赤く色をつけたところがそれ。

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月極駐車場の中に残る高射砲の台座。ターンテーブルのようにも見えるけど、戦前と終戦後に撮られた空中写真でこの位置に高射砲陣地があったことが確認できるので、それと考えて間違いはないと思われます。

d0360340_18514754.jpg測ってみると、円の直径は4.5m。中央にアスファルトが充填されている8角形の穴。穴の周りには9cm幅の縁取りがあることを見ると先に縁取りをつくってコンクリートを流し込んで8角形の穴をつくったと推測。他の事例から、そこに高射砲を固定するボルトが埋め込まれた構造物があったと想像できます。

周囲のコンクリートの一部に9×18cmの長方形の穴があるのが確認できるものの、これが何かは不明。当時からのものだとすれば高射算定器(軌跡計測用の計算機)からの信号ケーブルの取出し管があった可能性あり。

遺構から得られる情報は限られることからディテールの考察はこのくらいに留め、陣地全景を見てみます。

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1944年(昭和19年)11月3日 陸軍撮影の空中写真。不鮮明ではあるものの、扇型に配置された6基の陣地が3組。写真右上の円形に整地された場所は電波標定機(レーダー)サイトと思われます。

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1949年(昭和24年)9月7日 米軍撮影。高射砲陣地の形状がはっきりと確認できます。それぞれの陣地には円形の台座の周囲に3個のボックス状の構造物が配置されてます。即応弾の保管庫と推測。扇型に配置された円陣の扇の要の部分には高射算定具を置く観測所があるのが基本的なパターンで、昭和19年の写真ではおぼろげながら確認できるものの、戦後の写真では既に消失。右上の円形のスペースも消えてしまってます。

しかし、さすがに高射砲本体は撤去されているものの、台座と弾薬庫がほぼそのままの風景が戦後4年経っても残っていたということには少し驚かされます。空中写真はともに国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより。

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陣地を青で表記、現代の地図(黄色)を重ねてみます。道路など街の構造が変わってないので、位置の同定は難しくない作業。

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現在の地図(ゼンリン住宅地図)と戦前の高射砲陣地の関係。

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図の上が北。6基×3組。合計18基の高射砲座は北東方向に向かって展開しているのは、東京全体とこの陣地(赤いフラッグの位置)との関係を見ると明らか。房総半島を大きく迂回して東京都心部に北東方向から侵入しようとする敵機に備えた陣形。

Wikipediaの青戸の項によると昭和20年2月の応戦時にB29の1機に損害を与えたとの記述。もっともその命中弾は、この南側の地区を受け持つ小岩篠崎の陣地からとの説もあるとのこと。このときの空戦で葛飾区役所が全焼したそうで、3月の東京大空襲の少し前の出来事ですね。

近年の映画「この世界の片隅に」を見た人も多いと思います。あれは広島の呉での話でしたが、来襲する敵機に応戦する高射砲の弾幕がどこの陣地から発射されたのかを識別できるように着色弾になっていて空に絵の具を散らしたような雲ができる、というシーンがありました。そうした弾を使わない限り、また夜間の応戦などではどこの陣地の戦果かという識別はなかなか難しかったようですね。

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撮影場所は不詳とのことですが、戦後米軍が撮影した高射砲陣地の鳥瞰。前に記事で紹介した「米軍が見た 東京1945秋」からの引用。扇型に配置された砲座はそれぞれ周囲に配置した即応弾庫を覆うように土塁を築いて防御力を高めています。

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青戸の陣地も戦前の空中写真を見ると、砲座のまわりに土塁が築いてあるようにも見えます。しかし、戦後撮影の写真では北側の列は土塁が残っているように見えるものの、中列、南側の列では、砲座のまわりの3つの即応弾庫が露出していて、これが戦後に土を取り除いたものなのか、元々土塁はなく露座であったのかは不明。

前に記事でも取り上げた下仙川の高射砲陣地でも、周囲に土塁があったか、露座であったのかがはっきりしなかったのですが、その後、他の場所の陣地の空中写真を見るとどう見ても土を取り除いた痕跡のないものもあることから、土塁のあるものと露座のタイプの両方が存在していたのではと想像している。

考えてみれば、戦艦などでもシールド付きの高射砲の横にシールドがない砲座があったりすることから、同様に高射砲陣地でも同じ陣地でも並存していた可能性は大。

駐車場に残る砲座跡を実測、図面化しておきます。(クリックで拡大)
周囲の断薬庫の位置、サイズなどは空中写真から割り出した概略寸法にて作図。中央部の高射砲固定用ボルトの本数などは類似の事例からの推定復元。

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青戸の陣地で確実に現存している砲座は3基。冒頭の写真で紹介した駐車場の砲座は図の6に該当。残る2と3を見てみます。

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d0360340_06044575.jpg図の2。町工場の基礎に化けている台座。「東京の痕跡」(遠藤ユウキ 著:同分館出版 2008)という本でも紹介されている遺構です。実際に見ると果たしてこれがそうなの?という感じがしないでもないけど、位置は確実に空中写真に写る砲座と一致。台座の半分は道路工事で削られ、残りの半分が工場の建物基礎と一体化している模様。

自転車が停められていて全体が見えないのが残念ですが、そこだけ一段高くなっていて、内部の床もそれに合わせて高くなっているようです。

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写真左は、自転車越しに撮った基礎の段差になっている部分。コンクリートの構造体が建物に食い込んでいる様子がわかります。写真右は、切り取られた台座中央部付近に露出する何かの配管。台座の中央部分に該当することから、高射砲に電源を供給するケーブル用の配管であったのかもしれない。

コンクリートの上面は後年の補修が入っているものの、側面は切り取られた台座コンクリートの断面が露出していると思われます。長年の風雨にさらされてコンクリートに混ぜられた砂利が露出。丸みを帯びた川砂利を使っているのは戦前の構造物の特徴。そうでなくても、資源枯渇で河川から砂利の採取が禁止された1960年代以前のものであるのは確か。ちなみにそれ以後のコンクリートは山から採取した砕石を使用しているのでそこで年代の判別が可能。

ちなみに、配備されていた高射砲は99式8cm単装高射砲。(出典:「東京の痕跡」)ドイツ クルップ社の8.8 cm SK C/30をコピーした対空砲で、有名な8.8cm FLAK36/37とは別物のようではあるが、それでも射程は1万mまであったというから、B29に応戦することも可能。

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図の3の台座が残されているのはこのアパートの敷地の奥。通りからはよく見えないのでアパートの階段をすこし登ってみます。

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露出した円形のコンクリートの台座の一部が給水タンクの基礎に転用され、残りの部分は隣の建物の下まで伸びていると想像。
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建物の隙間越しに横から見たところ。台座が3つの建物の敷地にまたがるように存在していて、敷地境界のブロックもその後に怒れたためか、台座を跨ぐような状態になっています。戦後の空中写真を見ると、畑だった民有地に建設されたようで、畑の畝をまたいで配置されているのが確認できます。台座は撤去せずにその畑の持ち主ごとに建物を建てたからこんなことになってしまったのか。左側の建物の中に入って畳を剥がして床下がどんなことになっているのが見てみたい気もします。

不思議なことですが、こういった軍用遺物は戦後に行政の責任で撤去したりしなかったんでしょうかね。あるいは戦後すぐに宅地化して建物が建てられてしまい、その後撤去しようにも敷地境界を跨いでそれぞれの建物基礎に利用してしまっていたので取り除くこともできずに現在に至っているのか。

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図の5の台座の場所には現在は消防団の倉庫といった風情の青い小屋が建ってます。これも何らか関係がありそうですが、地図と照合すると、台座の一部が小屋にラップする関係。小屋を外側から観察する限りは基礎に利用されている形跡はなく、おそらく撤去整地された後に建てられたものと想像。ただ、台座が残っていて使い方を持て余していた土地の利用法として、台座を基礎にこのような小屋を建てて使ったその「用途」が引き継がれて、台座も当初の建物が無くなっても機能し続けているのかもしれない。想像ではあるけど。

これらの青戸(白鳥)高射砲陣地の跡地観察は、このサイトの記事に多くを得ているのでそちらも参照。

そのサイトでは他にも台座残存の可能性を指摘しているので、それも見てきました。

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中列の砲座の多くは現在、8階建てのマンションの敷地になってますが、その一部が残っている可能性について。

d0360340_08320762.jpgマンションの床下に台座が残っている可能性が指摘されてましたが、可能性があるとすれば図の8、9、10の台座が該当。しかし、このような大型の建物で重機があれば撤去できるような障害物をわざわざ残す可能性は少なく、床下に見えたのはおそらく写真のようなマンションの柱の下にある基礎杭の頂部。これは参考までに、撮りやすい場所にあった建物南端の基礎の写真。

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むしろ残存の可能性があるとすれば図の11の台座。マンションの敷地の一角につくられた公園。そこであればマンション建設でも撤去する必要はなく、なんらかの痕跡が残ってるのではと期待して行ったものの、見事にリセット済み.. 兵どもが夢の後。

これを見れば、マンションの床下に台座を残したまま工事を行う可能性はなかったと判断するのが妥当か。

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南側の列の砲座の15、17が残存する可能性ありとのこと。

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図の15。砂利敷きの駐車場の奥にアスファルトで覆われた部分が台座の跡ではと指摘している記事は多いものの、地図と比べると位置が少し違うようだ。地図と航空写真の重ね合わせの精度のこともあるので断言することはできませんが、戦後の空中写真を見る限り台座はもっと道路側、手前の2台の白い車の辺りにあったはず。

このサイトの写真を見ると、その道路に近い位置に何かの構造物の痕跡が露出していた形跡があるのは、おそらくそれが台座の残骸であり、近年にそれは撤去されてしまったと考えます。したがって現在この砂利駐車場の真ん中に残るアスファルトは台座とは関係のないもの。

図の17の台座のあった場所には現在木造平屋の物置が建っていて、通りから覗ける範囲では物置の床がコンクリートになっていることまではわかります。ただそれが台座を利用したものなのかまでは外から眺める限りは判断不能。民有地の建物の中の話なので調べるには所有者の承諾が必要となることもあるため、リサーチはここまで。
この他の場所にも台座が残存する可能性はあるものの、アポなしで観察できる範囲でわかるのはこのぐらい。

今回の追跡で台座が確実に残存すると確認できたのは図の2(町工場基礎).3(タンク/住宅基礎).6(駐車場)の3基となりますが、少し気になっていたのは地上への露出のレベル差。6の駐車場では敷地地面とフラット、道路面からは10cm程度のレベル差。3のタンク/住宅基礎は敷地内地表から15cmほど露出、道路との高低差で考えると25cm程度。2の町工場基礎は、道路面から30cmほどの高低差。
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下仙川の陣地の台座の残骸のように宅地造成の時に撤去移動、町内会看板の土台として再利用したという話であれば地表面から大きく露出していても不思議ではないけど、この青戸の高射砲陣地で当初からの位置が変わらず残っているとすれば、台座間の地形とのレベルのずれは当初からのものだったと想像します。

となると、ここでひとつ推理をすることになりますが、おそらくは6基の砲座を高射算定具と接続して連動制御する都合、射撃精度の確保のため、連動する台座の設置レベルは水平に揃える必要があったのではないか、と。
射撃用の水平なプラットフォームという「仮想地形」と畑の中の建設地というゆるやかに傾斜した原地形との場所によるレベル差が、台座の露出の仕方の差になって、その後の「用途」の違いが生まれたと考えると、ちょっと面白い。
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都下の高射砲陣地については、他にも少し気になったことがあるので、いずれ機会を見つけてまた書いてみる予定。
これまでの高射砲陣地関連の記事を下にINDEXとして整理しておきます。


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by hn-nh3 | 2018-06-11 12:40 | 構造物 | Comments(6)
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逗子の海を望む高台にある披露山公園が戦前は高射砲陣地だったこと、戦後に公園と整備したときに残っていたコンクリートの砲座を公園施設(花壇、展望台、猿舎)に活用したこと、その現地リポートと考察を前に書いたが、その後いろいろと情報が寄せられ、前の記事内容も少し修正が必要になってきたので、改めて気になってたことも含めて書き留めておきたい。

いつもコメントをいただいているかば◎さんが、披露山公園(小坪砲台)と横須賀の砲台山の遺構をリサーチしているので、詳しくはそちらを確認されたし。

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そこから解ってきたことは、披露山(小坪砲台)の公園猿舎のコンクリートサークルと床は砲座の構造物がほぼそのまま転用されたと考えて間違いないこと、三浦半島にある砲台山の遺構とは基本構造が同じ、ということ。

かば◎さんが飼育員に聞いた話として、猿舎の側壁に設置された小檻の奥には大きな穴があって、隣接するニッチの倍ぐらいの奥行きがある、ということを指摘。これは、砲台山などの類例から待避所の跡だったと推測。ニッチは即応弾用の弾薬保管場所だったと考えられ、合計8箇所あったらしい。階段脇の1つは埋められたらしく、現在確認できるのは7箇所。

床面の待避スペースに相対する位置に、円環状の金具が3〜4箇所。砲台山の遺構にも同様の痕跡が残っていることから、おそらくこれも当初からのものと考えて間違いなさそう。このことから猿舎の床も戦前の砲台の遺構を活用したものと推測。床面の構造は砲台山のものとは少し異なるものの、床の全面にコンクリートを敷設した様子は館山の砲台に類似。ニッチの天井の入隅や開口出隅のディテールにも違いがあって、砲台ごとのバリエーションがあったと考えられます。

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猿舎の小檻の奥に残存する待避スペースについての考察と妄想。

参考資料として類例の写真を引用(館山の砲台写真:原典不詳、佐世保・弓張岳の砲台遺構:洗鱗荘ブログ>弓張岳高射砲陣地、横須賀・砲台山の遺構:鯛の尻尾をうばいとれ>砲台山、小坪の空中写真は国土地理院のアーカイブより)

類似の遺構(館山、佐世保弓張岳、横須賀砲台山)を見ると、兵員の待避スペースは天井のない塹壕状の半地下空間で砲座の円形のコンクリート側壁よりも周囲に張り出した構造。奥行きは弾薬保管庫の2倍程とのことなので、規模的には一致。披露山公園の小坪砲台の待避スペースも露天の窪みであった可能性もあるが、現状は上部もコンクリートで覆われた横穴になってます。戦後米軍が撮影した空中写真に目を凝らすと、露天の階段が現在の猿舎と花壇の砲座でそれとなく確認できます。しかし待避スペースらしき窪みの影は確認できず、これはやはり他の砲台とは違って、小坪砲台は地下に隠された横穴状の空間だったのではないかと。

右の写真。小坪砲台の航空写真に砲座の階段と待避スペース位置を復元してみます。
一番下の現在は猿舎の砲座。階段、待避スペース位置は現在も確認可能。現展望台の真ん中の砲座(実際は射撃観測所として使用)の階段と待避スペースは全くの推定。展望台階段の前のステージが何らかの地下構造物を埋めた痕跡ではないかと想像。一番上の現在は花壇となっている砲座は、空中写真の影から階段位置を推定。待避スペース入り口を写真の影からなんとなく想定。もっともこの推理は、不鮮明な写真の影から幽霊を探す作業以上のものではないことを断っておきます。

配置復元図の中に、ちょっと試しに待避スペース(黄色部分)を結ぶ点線(青)を描いてみました。ここからは全く憶測の域を出ない話ですが、「3箇所の砲座待避所を結ぶように連絡用の地下トンネルが存在した」..かも、かも、というイメージが3箇所の待避所の位置関係から浮かび上がってきます。

トンネルがあったという推理は想像の域を出るものではないものの、全く根拠のない話ではありません。それを示唆するのが、佐世保と横須賀砲台山の待避スペースの写真。奥の壁にトンネルの出入口があったような痕跡がそれぞれあります。ひとつは穴を埋めた痕跡、もうひとつはトンネルが崩れた土の穴。実際、他の事例ではトンネルや塹壕など砲座を結ぶ連絡通路が設けられてたという記述もあったりします。

小坪砲台の場合、高射砲を据えたのは花壇部分と現猿舎の砲座2基。中央の現展望台の砲座には測距儀(おそらく高射機も)を据えて観測所として利用していたと言われています。観測所の測距儀と高射機は各砲座と電気的に接続して、敵機の予測進路を電気信号で送り砲弾にセットする時限信管を調整していたようです。電線を地面に転がしただけだと誰かが足をひっかけて転んだり、切れたりするかもしれないから、当然のことながら埋設していたはずで、その埋設溝をかねて砲座をつなぐ地下連絡通路を作った可能性もあります。...実際、小檻の奥の穴の底に何があるかは、猿に聞いてみるのが早いかも。

床の円環金具が何のためのものかは、あれこれ想像するものの、これもまた推測の域を出ない話。例えば、射撃時に自動排出され薬莢がすこーんと飛んで転がって待避スペースの兵員に当たったりしないように防護ネットを張るためのもの。あるいは夜間の天幕用テント支柱。可能性がいちばん高いのは、時限信管の調整器と観測所からの電線を据え付けるためのもの。

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アップデートした図面です。待避所推定位置、謎の床の金具など追記してあります。
PDF図面をダウンロードできるDropBoxのリンク:→小坪 高角砲台_170811.pdf

各地にあった対空防衛用の高角砲台が実際どんな姿だったのかはその頃の機密情報だったりして当時の写真を目にすることは殆どなく、戦後に米軍が記録した写真の中にいくつかは確認できます。東京の小岩にあった防空陣地の写真を見つけたので、それを紹介しようと思ったのですが、記事が少し長くなってきたので、それは次回に譲り、ひとまず逗子の小坪砲台で話をまとめます。

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逗子の披露山公園:昭和33年開園当初の展望台遠景
(写真出典:「写真アルバム 鎌倉・逗子・葉山の昭和」いき出版)

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上は市立図書館で見つけた写真集の中から、開園当初の写真。周囲に樹木もまだ少なく、かなり開けた場所になっていたようです。円形の展望台のデザインも、基礎周りの砲座構造の影響を受けたことは想像に難くないものの、ぐるりと周囲を見渡せる場所であったことが決定的な理由だったかも知れません。戦前、防空陣地を構築した時に射撃の障害にならないよう伐採した可能性もあります。いずれにせよ、鬱蒼とした森に囲まれた現在の姿とはずいぶん違ったものだったのでしょう。

展望台既存部に露出する砲座の円形側壁。周囲から少し窪んだ形で残されていることの意味が読み取れないと前の記事で描いたら、近郊にお住まいの mitch さんから貴重なコメントをいただきました。
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開園当初の外周リング状半分近い海側部分は現在のようにコンクリートで埋められておらず、
半地下状の ’ 小動物舎 ’ でした。
その後現在の動物舎が作られ、コンクリートで埋めらた。
更に数年前に、ウッドデッキも設置されました。
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なるほど、今の猿舎と同じように半地下の砲座の構造が家禽類を飼育する囲いとして活用されていた、という話。展望機能と関係のない砲座の形が残された理由がわかりました。その後、新しい動物舎が花壇の脇に作られたとき、不要となった砲座の窪みはコンクリートで埋められるものの、手すりの支柱の足元の高さの関係で期せずして現状45cmほど窪んだ状態になってしまったのでしょうか。

前の記事に掲載した猿舎などの図面で少し修正が必要なものはあらためて、またアップします。

by hn-nh3 | 2017-08-11 14:10 | 構造物 | Comments(4)