断片的思考のメモ


by hn-nh ( or hn )

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一円陣地

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カンヌでグランプリ(パルムドール)を受賞して話題になってる是枝裕和監督の映画「万引家族」はまだ見に行ってないのですが、その映画に出演していて、前から気になっていた安藤サクラ主演の映画「百円の恋」をツタヤで借りてきて遅ればせながら見る。
... 32歳のニートの主人公(安藤サクラ)と彼氏(新井浩文)のダメ女、ダメ男っぷり、そしてボクシングに目覚めて変わっていく主人公のかっこよさといったら。しびれましたね。

そんなDVDを観たり散歩したりで模型制作はなんとなく停滞気味。KV−1も手を動かしてはいるけど....その話は次回ぐらいかな。

100円ショップのレジ脇にはついで買いを誘うスナック菓子があったりするけど、秋葉原YSのレジで振り返ると、艦船用のカスタムパーツが壁から下がっていて手持ち無沙汰にこっちを眺めていたりするんですよね。

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自分、艦船ものには手をださないようにしてるので、その誘いには乗らない。...はずだったのですが、レジ待ちでふと見たら、なんだか聞き覚えのある高射砲の名前。八九式12.7cm高角砲。

大戦中の戦艦や駆逐艦などに搭載されていたものですが、地上の高射砲陣地にも配備された高射砲だったりします。

もっとも、都内の陣地ではスペックの低い八八式7.5cm高射砲がメインで小岩の陣地には12.7cm砲があったけど単装タイプ。この連装の八九式12.7cm高角砲は、近郊では前に記事にした小坪(逗子披露山)砲台など、横須賀軍港のような重要拠点の周囲に限定的に配備されたと想像します。

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守備範囲外の艦船模型でしたが、このファインモールドの1/700の高射砲のキットだけは、そんなことを理由にわが家に配備されてしまったのです。しかしパーツの細かいこと。ナノ・ドレッドと銘打ったこのシリーズはスチロール樹脂にABSを配合して強度を高めたとかで驚異的な細かいモールドを実現していて、1/35 AFVモデラーには眩暈を覚えるばかり。一箱に4セット入り。

組み立ては両手にピンセットを持って外科医になった気分で悪戦苦闘、パーツを飛ばすなどのアクシデントを乗り越えてなんとかひとつ完成。こんなことを軽々と100回繰り返せる艦船モデラーを尊敬しますね。
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とても小さな高射砲モデル。写真に撮っても小さい。

前に描いた小坪砲台の図面を1/700に縮小してプリントした紙の上に試しに配備してみました。1/700スケールの八九式12.7cm高角砲の陣地の完成。
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直径12mの円形の砲座も1/700スケールに変換すると直径1.7cm。プラ板をサークルカッターで切り出して積層するなどして、コンクリートのすり鉢状の半地下構造を再現したいところでしたが、その小ささにちょっと心が折れました。
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比較のために隣に一円玉。硬貨の直径は2cmだからそれより小さい。

吹けば飛ぶ紙の上に構築された一円陣地はつかの間。身捨つるほどの祖国はありや。
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by hn-nh3 | 2018-06-17 06:18 | 構造物 | Comments(4)

青戸(白鳥)高射砲陣地

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昨年から追跡中の高射砲陣地の跡地サーベイ続編。今回は都内、葛飾区 白鳥三丁目にあった青戸(白鳥)高射砲陣地。

自分の把握している範囲では都下(多摩地区、島嶼部除く)の高射砲陣地は二十数箇所。しかしその殆どは遺構を留めることなく、北の丸公園、白鳥、調布、下仙川に高射砲台座の一部が残るのみ。その中でも白鳥の遺構は街と一体化しているものとしてユニーク。図の赤く色をつけたところがそれ。

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月極駐車場の中に残る高射砲の台座。ターンテーブルのようにも見えるけど、戦前と終戦後に撮られた空中写真でこの位置に高射砲陣地があったことが確認できるので、それと考えて間違いはないと思われます。

d0360340_18514754.jpg測ってみると、円の直径は4.5m。中央にアスファルトが充填されている8角形の穴。穴の周りには9cm幅の縁取りがあることを見ると先に縁取りをつくってコンクリートを流し込んで8角形の穴をつくったと推測。他の事例から、そこに高射砲を固定するボルトが埋め込まれた構造物があったと想像できます。

周囲のコンクリートの一部に9×18cmの長方形の穴があるのが確認できるものの、これが何かは不明。当時からのものだとすれば高射算定器(軌跡計測用の計算機)からの信号ケーブルの取出し管があった可能性あり。

遺構から得られる情報は限られることからディテールの考察はこのくらいに留め、陣地全景を見てみます。

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1944年(昭和19年)11月3日 陸軍撮影の空中写真。不鮮明ではあるものの、扇型に配置された6基の陣地が3組。写真右上の円形に整地された場所は電波標定機(レーダー)サイトと思われます。

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1949年(昭和24年)9月7日 米軍撮影。高射砲陣地の形状がはっきりと確認できます。それぞれの陣地には円形の台座の周囲に3個のボックス状の構造物が配置されてます。即応弾の保管庫と推測。扇型に配置された円陣の扇の要の部分には高射算定具を置く観測所があるのが基本的なパターンで、昭和19年の写真ではおぼろげながら確認できるものの、戦後の写真では既に消失。右上の円形のスペースも消えてしまってます。

しかし、さすがに高射砲本体は撤去されているものの、台座と弾薬庫がほぼそのままの風景が戦後4年経っても残っていたということには少し驚かされます。空中写真はともに国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスより。

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陣地を青で表記、現代の地図(黄色)を重ねてみます。道路など街の構造が変わってないので、位置の同定は難しくない作業。

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現在の地図(ゼンリン住宅地図)と戦前の高射砲陣地の関係。

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図の上が北。6基×3組。合計18基の高射砲座は北東方向に向かって展開しているのは、東京全体とこの陣地(赤いフラッグの位置)との関係を見ると明らか。房総半島を大きく迂回して東京都心部に北東方向から侵入しようとする敵機に備えた陣形。

Wikipediaの青戸の項によると昭和20年2月の応戦時にB29の1機に損害を与えたとの記述。もっともその命中弾は、この南側の地区を受け持つ小岩篠崎の陣地からとの説もあるとのこと。このときの空戦で葛飾区役所が全焼したそうで、3月の東京大空襲の少し前の出来事ですね。

近年の映画「この世界の片隅に」を見た人も多いと思います。あれは広島の呉での話でしたが、来襲する敵機に応戦する高射砲の弾幕がどこの陣地から発射されたのかを識別できるように着色弾になっていて空に絵の具を散らしたような雲ができる、というシーンがありました。そうした弾を使わない限り、また夜間の応戦などではどこの陣地の戦果かという識別はなかなか難しかったようですね。

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撮影場所は不詳とのことですが、戦後米軍が撮影した高射砲陣地の鳥瞰。前に記事で紹介した「米軍が見た 東京1945秋」からの引用。扇型に配置された砲座はそれぞれ周囲に配置した即応弾庫を覆うように土塁を築いて防御力を高めています。

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青戸の陣地も戦前の空中写真を見ると、砲座のまわりに土塁が築いてあるようにも見えます。しかし、戦後撮影の写真では北側の列は土塁が残っているように見えるものの、中列、南側の列では、砲座のまわりの3つの即応弾庫が露出していて、これが戦後に土を取り除いたものなのか、元々土塁はなく露座であったのかは不明。

前に記事でも取り上げた下仙川の高射砲陣地でも、周囲に土塁があったか、露座であったのかがはっきりしなかったのですが、その後、他の場所の陣地の空中写真を見るとどう見ても土を取り除いた痕跡のないものもあることから、土塁のあるものと露座のタイプの両方が存在していたのではと想像している。

考えてみれば、戦艦などでもシールド付きの高射砲の横にシールドがない砲座があったりすることから、同様に高射砲陣地でも同じ陣地でも並存していた可能性は大。

駐車場に残る砲座跡を実測、図面化しておきます。(クリックで拡大)
周囲の断薬庫の位置、サイズなどは空中写真から割り出した概略寸法にて作図。中央部の高射砲固定用ボルトの本数などは類似の事例からの推定復元。

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青戸の陣地で確実に現存している砲座は3基。冒頭の写真で紹介した駐車場の砲座は図の6に該当。残る2と3を見てみます。

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d0360340_06044575.jpg図の2。町工場の基礎に化けている台座。「東京の痕跡」(遠藤ユウキ 著:同分館出版 2008)という本でも紹介されている遺構です。実際に見ると果たしてこれがそうなの?という感じがしないでもないけど、位置は確実に空中写真に写る砲座と一致。台座の半分は道路工事で削られ、残りの半分が工場の建物基礎と一体化している模様。

自転車が停められていて全体が見えないのが残念ですが、そこだけ一段高くなっていて、内部の床もそれに合わせて高くなっているようです。

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写真左は、自転車越しに撮った基礎の段差になっている部分。コンクリートの構造体が建物に食い込んでいる様子がわかります。写真右は、切り取られた台座中央部付近に露出する何かの配管。台座の中央部分に該当することから、高射砲に電源を供給するケーブル用の配管であったのかもしれない。

コンクリートの上面は後年の補修が入っているものの、側面は切り取られた台座コンクリートの断面が露出していると思われます。長年の風雨にさらされてコンクリートに混ぜられた砂利が露出。丸みを帯びた川砂利を使っているのは戦前の構造物の特徴。そうでなくても、資源枯渇で河川から砂利の採取が禁止された1960年代以前のものであるのは確か。ちなみにそれ以後のコンクリートは山から採取した砕石を使用しているのでそこで年代の判別が可能。

ちなみに、配備されていた高射砲は99式8cm単装高射砲。(出典:「東京の痕跡」)ドイツ クルップ社の8.8 cm SK C/30をコピーした対空砲で、有名な8.8cm FLAK36/37とは別物のようではあるが、それでも射程は1万mまであったというから、B29に応戦することも可能。

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図の3の台座が残されているのはこのアパートの敷地の奥。通りからはよく見えないのでアパートの階段をすこし登ってみます。

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露出した円形のコンクリートの台座の一部が給水タンクの基礎に転用され、残りの部分は隣の建物の下まで伸びていると想像。
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建物の隙間越しに横から見たところ。台座が3つの建物の敷地にまたがるように存在していて、敷地境界のブロックもその後に怒れたためか、台座を跨ぐような状態になっています。戦後の空中写真を見ると、畑だった民有地に建設されたようで、畑の畝をまたいで配置されているのが確認できます。台座は撤去せずにその畑の持ち主ごとに建物を建てたからこんなことになってしまったのか。左側の建物の中に入って畳を剥がして床下がどんなことになっているのが見てみたい気もします。

不思議なことですが、こういった軍用遺物は戦後に行政の責任で撤去したりしなかったんでしょうかね。あるいは戦後すぐに宅地化して建物が建てられてしまい、その後撤去しようにも敷地境界を跨いでそれぞれの建物基礎に利用してしまっていたので取り除くこともできずに現在に至っているのか。

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図の5の台座の場所には現在は消防団の倉庫といった風情の青い小屋が建ってます。これも何らか関係がありそうですが、地図と照合すると、台座の一部が小屋にラップする関係。小屋を外側から観察する限りは基礎に利用されている形跡はなく、おそらく撤去整地された後に建てられたものと想像。ただ、台座が残っていて使い方を持て余していた土地の利用法として、台座を基礎にこのような小屋を建てて使ったその「用途」が引き継がれて、台座も当初の建物が無くなっても機能し続けているのかもしれない。想像ではあるけど。

これらの青戸(白鳥)高射砲陣地の跡地観察は、このサイトの記事に多くを得ているのでそちらも参照。

そのサイトでは他にも台座残存の可能性を指摘しているので、それも見てきました。

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中列の砲座の多くは現在、8階建てのマンションの敷地になってますが、その一部が残っている可能性について。

d0360340_08320762.jpgマンションの床下に台座が残っている可能性が指摘されてましたが、可能性があるとすれば図の8、9、10の台座が該当。しかし、このような大型の建物で重機があれば撤去できるような障害物をわざわざ残す可能性は少なく、床下に見えたのはおそらく写真のようなマンションの柱の下にある基礎杭の頂部。これは参考までに、撮りやすい場所にあった建物南端の基礎の写真。

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むしろ残存の可能性があるとすれば図の11の台座。マンションの敷地の一角につくられた公園。そこであればマンション建設でも撤去する必要はなく、なんらかの痕跡が残ってるのではと期待して行ったものの、見事にリセット済み.. 兵どもが夢の後。

これを見れば、マンションの床下に台座を残したまま工事を行う可能性はなかったと判断するのが妥当か。

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南側の列の砲座の15、17が残存する可能性ありとのこと。

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図の15。砂利敷きの駐車場の奥にアスファルトで覆われた部分が台座の跡ではと指摘している記事は多いものの、地図と比べると位置が少し違うようだ。地図と航空写真の重ね合わせの精度のこともあるので断言することはできませんが、戦後の空中写真を見る限り台座はもっと道路側、手前の2台の白い車の辺りにあったはず。

このサイトの写真を見ると、その道路に近い位置に何かの構造物の痕跡が露出していた形跡があるのは、おそらくそれが台座の残骸であり、近年にそれは撤去されてしまったと考えます。したがって現在この砂利駐車場の真ん中に残るアスファルトは台座とは関係のないもの。

図の17の台座のあった場所には現在木造平屋の物置が建っていて、通りから覗ける範囲では物置の床がコンクリートになっていることまではわかります。ただそれが台座を利用したものなのかまでは外から眺める限りは判断不能。民有地の建物の中の話なので調べるには所有者の承諾が必要となることもあるため、リサーチはここまで。
この他の場所にも台座が残存する可能性はあるものの、アポなしで観察できる範囲でわかるのはこのぐらい。

今回の追跡で台座が確実に残存すると確認できたのは図の2(町工場基礎).3(タンク/住宅基礎).6(駐車場)の3基となりますが、少し気になっていたのは地上への露出のレベル差。6の駐車場では敷地地面とフラット、道路面からは10cm程度のレベル差。3のタンク/住宅基礎は敷地内地表から15cmほど露出、道路との高低差で考えると25cm程度。2の町工場基礎は、道路面から30cmほどの高低差。
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下仙川の陣地の台座の残骸のように宅地造成の時に撤去移動、町内会看板の土台として再利用したという話であれば地表面から大きく露出していても不思議ではないけど、この青戸の高射砲陣地で当初からの位置が変わらず残っているとすれば、台座間の地形とのレベルのずれは当初からのものだったと想像します。

となると、ここでひとつ推理をすることになりますが、おそらくは6基の砲座を高射算定具と接続して連動制御する都合、射撃精度の確保のため、連動する台座の設置レベルは水平に揃える必要があったのではないか、と。
射撃用の水平なプラットフォームという「仮想地形」と畑の中の建設地というゆるやかに傾斜した原地形との場所によるレベル差が、台座の露出の仕方の差になって、その後の「用途」の違いが生まれたと考えると、ちょっと面白い。
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都下の高射砲陣地については、他にも少し気になったことがあるので、いずれ機会を見つけてまた書いてみる予定。
これまでの高射砲陣地関連の記事を下にINDEXとして整理しておきます。


More
by hn-nh3 | 2018-06-11 12:40 | 構造物 | Comments(0)
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Grille改造3cmFLAK制作編 その11
切り株砲ことMK103 BAUMAFFE 車載タイプ、ようやく形になってきました。

3cm MK103の簡易砲架タイプについての考証記事(Baumaffe , Baumaffe part2)を元に、プラ板細工で形を再現していきます。
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機銃をセットする揺架のパーツとシールドがどのように固定されていたかは、正直よくわからない。シールドの付根部分に2つのボルトらしき影が写真で確認できるのを手がかりに、揺架の端部に固定用のフランジが張り出していて、それにボルトで固定していると推測。シールドが2つあるのは、照準穴にスリットがあるタイプと無いタイプ。どちらを使うか迷っていたので、とりあえず両方制作しました。操作用の肩当てリングは、MG151ドリリンクの部品をUVレジンで型取り複製したものをベースにディテールアップ。軸には補強用の真鍮線を埋め込みました。細いパーツを芋付けにするとだいたい破損するのでその予防。

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MK103の機銃背面の点検蓋との干渉を避けるため二、シールドと肩当てリングがヒンジで回転する機構があったと推測して、その機構を再現。模型もヒンジで可動..
は、しないのですが、とりあえず接着前に可動状態を再現して撮影。

         
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閉じたところ。ロック機構はそれらしく作ってみましたが、全くの想像です。ただ、チェーンが下がっているのが写真では確認できているので、なんらかのロックがそのあたりにあったはずです。シールドの前にあるパイプは操作用ハンドル。真鍮パイプで制作。揺架とのジョイント部のディテールはこれもデッチアップ。ボルトとか補強板とかこんな形が合理的かなとイメージしました。

MK103搭載グリレを後ろから写した写真がなくて苦労しましたが、入手したプラハ蜂起の本にチラリと後ろ姿が写ってる写真を発見。細部は判別できないものの、リングをつなぐ水平バーらしき影は見えるので、当たらずとも遠からず、というところか。

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左側面。弾薬箱は、キットの3cm MK103-38の部品から流用。Baumaffeの写真のものとは微妙に違うものの、他に資料もないので、ひとまず先に進みます。新事実が判明した時に取り替えができるように、引っ掛けてあるだけにしてます。

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右側面。グリレに搭載されているのは、照準のバルジがないタイプのようです。照準穴にスリットがあるかないかは、写真を眺めて迷った末に、スリットのないタイプだと判断。背面からの写真でスリット付きであればそのラインの影が見えるはずのところに無い、というのが判断の根拠。この写真で照準穴から下に伸びる線のようなものは、雨かオイルの垂れでは無いかと想像。

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シールド側面からの実物の写真。照準穴の辺りに何か突出物があります。背面からの写真でも、その部分に何かの影が確認できます。照準スコープのような物がついていたのではと想像できるものの、他に判断を補強できる資料がなくとりあえず保留。

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で、問題の車載用ベース。この部分が写っている写真が見つからないため、全くの想像でデッチアップ。写真右の2つ耳が生えたようなプレートは、グリレ本来の15cm重歩兵砲用の砲架固定ベース。キットに入っているものは少し形状が間違っていると思われたので、資料を参考に自作。このパーツに固定できるような車載ベースを考えてみました。

ベースプレートには、グリレの砲架固定ベースのボルト穴位置に合わせて着脱用ボルト。改造してMK103を搭載するときに、やっぱり元の15cm重歩兵砲を再搭載、ということも可能性も想定して作ったんじゃ無いかというストーリーです。

このベースプレートにパイプを立ててMK103 Baumaffeを載せます。補強板は三角の板だと正規部品っぽく見えるので、フラットバーを使って、ありあわせの材料で作った雰囲気にしてみました。弾除けのシールドを前に追加。工場に転がってたヘッツァーのサイドスカートを流用したという設定で、ヘッツァーのサイドスカートにあるボルト穴を再現してあります。

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車載用ベースをグリレ本体にセットしてみたところ。これも新資料が見つかっても修正できるように完全固定はしてません。戦闘室内部の状態は資料に乏しく、装備品など実際にどうなっていたかは不明。

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搭載してみました。車体のOVM類を作れば工作はだいたい完成でしょうか。
来月末に締め切り迫る。急げ!!



by hn-nh3 | 2017-09-16 18:26 | 38(t)系列 | Comments(4)

Baumaffe ( 3cm-MK103 ) part2

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前回の記事の続き。と言うか補足。
3cm MK103 Baumaffe の図面を1/35で作ったので、参考までにアップしておきます。記事下に図面のJPG画像とPDFのダウンロードリンクをつけておきます。

図面をダウンロードしておくと上の写真のベルゲヘッツァーに搭載したタイプを作る時に役に立つかもしれません。サンダーモデルからベルゲヘッツァーがリリースされてますから、時期的には旬です。MK103本体はドラゴンのクーゲルブリッツから流用できます。ただし、砲尾をちょこっと改造する必要あるけどね。

d0360340_15033118.jpgBaumaffeの砲架は2タイプ。Bの切り欠き角度が大きいタイプは、グリレ自走砲とベルゲヘッツアー戦車回収車に搭載されるなど、1945年5月のプラハ蜂起の際の写真でも確認できます。

Aのタイプのものが写真に撮られた時期は不明ですが、いかにも記録写真風でプロトタイプを撮影したようにも思えます。A→Bという時系列で考えるのが良さそうで、何となくBの方がスタイルとしても完成形に近い気がします。

左側面につく弾薬箱は箱の側面に7個の丸い点(穴)が写真では確認できます。しかしこれが何かは不明。何か類例はないかと探したFLAK38の砲架にMK103を積んだタイプの弾薬箱ではこの丸い点々は確認できず。砲架への取付方法など、ディテールも含めてもう少し調べてみたいところ。

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Baumaffeの制作は一進一退。解像度の高い写真が見つかって判明したディテールを少し反映。スクラッチのディテールアップ..
砲耳の軸は、砲架のプレートに穴を開けて通しているのではなく、端部に乗っかったような納まりになっているので、一度開けた穴を塞いで修正。砲耳の軸はピンバイスで穴を開けた1mmプラ棒をセット。
揺架は完全に作り直し。プラ板で箱を組んで、ヤスリで削って下部のテーパーを表現。先端に銃身固定用の小さなレバーハンドルを0.4mmプラ棒で再現。

MK103の銃身パーツはドラゴンのキットからの流用ですが、細部に追加工作。航空機への固定用ペグが再現されてなかったのでプラ板に穴を開けて加工したものを取付。ガスシリンダーのロッドが一体成形になっていたのを削り取って真鍮棒に置き換え。その他、金型の抜きの関係で省略された側面のディテールを少し追加。

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図面 クリックで拡大
PDF図面のDLはこちらから > 3cmMK103 baumaffe 170823.pdf




by hn-nh3 | 2017-08-25 17:41 | 資料 | Comments(0)

Baumaffe ( 3cm-MK103 )

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Grille改造 3cmFLAK 制作記スピンオフ。
切株砲こと、3cm-MK103 auf Baumstumpf "Baumaffe"の考証メモ。

航空機搭載用に開発されたMK103。口径30mm 銃身長1200mm 重量145kg、発射速度はHE弾-380/分 AP弾-420/分。ベルト式給弾、電気発火式。ラインメタルーボルジッヒ社製。(概要はWikipedia: MK103機関砲 より)

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大戦後半、威力不足になった20mm 対空砲FLAK38に替わるものして、航空機用機銃を転用した対空機関砲がいくつか作られてます。有名どころではMG151を3連装にした「MG151ドリリンク」
MK103をFLAK38の砲架に搭載して単装3cm対空機関砲としたのが「3cmFLAK38/103 Jaboschreck」
以前にドラゴンでキット化(DR6353)

大戦末期にMK103を連装の密閉型砲塔に搭載してⅣ号戦車車体に載せた「クーゲルブリッツ」がドラゴンからリニューアルキットとしてリリース、と聞いてMK103も新金型になるかと密かに期待してたのですが、公開されたインストを見る限り、どうもMK103のパーツはDR6353からの流用。
事前に公開された新金型の砲塔内部CGでは高解像度の新パーツらしいMK103の砲尾がチラリと見えていたのですが。.....設計はしたものの金型発注の段階で、「DR6353のもそんなに変じゃないから使っチャイナヨ!」なんて上司の声があったのかしら.... ちょっとがっかり。(て、まあ本体じゃなくてそのパーツが欲しかっただけなんですけど)

20mmFLAK38より大威力、3.7cm FLAK36/37(80発/分)より連射速度の大きいMK103に簡易な砲架を用意したのが、上の写真の 3cm-MK103 auf Baumstumpf "Baumaffe" (写真出典は”Waffen Revue 093”:ネットであちこちに転がってる写真の元ソースと思われる)

陣地に木杭を打って簡単に設置可能で、このパターンは小口径の機銃でも採用されてます。MK103の簡易砲架タイプの写真は少なく、この他に(グリレやベルゲヘッツアーに積んでる不鮮明なものを除いて)確認できるのは3枚。

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写真出典は不明。ミシリンのディスカッションボードか何かで前に見たと記憶。写真の部分拡大と注釈を加えました。


d0360340_09420192.jpgディテールの検証がてら、Illustratorでトレースしてみました。(画像 クリックで拡大)
写真を眺めるだけでなく、線を自分で引いてみると解ってきますね。影に潰れて見えない細部など、想像で補った部分もあります。特に肩あてリングの基部がどうなっているのかは写真で判読できず、後記する考察をベースに推定復元。

揺架下、シールドの前方にある細いパイプ(1)は方向操作用のハンドルと思われます。MG151ドリリンクにも同様の握手があるので、位置的にもそれで間違いはなさそう。

パイプの途中についてる小さな金具。ここに何かあるとすれば引き金ですが、機関砲本体とのメカニカルなリンクもないので、おそらく電気発火式のコード付き引き金スイッチを取付るためのペグと推測。

シールドの照準穴前方の三角の突起物(2)は照準器の取付用台座か。ただしこのバルジがないタイプもあったようで、詳細は不明。ひょっとすると取り外し可能だったのかもしれない。基部にライン(2)はバルジの取付基部の可能性もあり。

シールドの照準穴は丸いタイプと下にスリットが入った鍵穴のようなタイプ(3)があった模様。グリレ自走砲改造車に搭載のものは鍵穴タイプの可能性あり。

シールドの左側(給弾ケース側)には切り欠き(4)あり。機関砲のメンテナンスのためと推測。シールドと本体(揺架)の固定方法は不明。右側に2箇所のボルトらしき影(5)を確認できる。

プレートを曲げ加工した砲架には、片側のみ俯仰操作用のスプリングアーム。砲架の形状に複数のパターンがあったらしく、Waffen Revue 093掲載の写真では砲架前部の切り欠きが約45度であるのに対して、別の3枚組写真のものではもっと浅い(6)形状。グリレやベルゲヘッツアーに搭載されたのは、切り欠き角度が浅いタイプ。
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という訳で、誰も注目していないMK103 Baumaffe に詳しくなってきたのですが、どうにも解けなかった問題があります。この3cm MK103 機関砲。給弾部分の上面が開くようになっているのは通常の機関銃と同様。これに加えて銃尾部分もパカンと開くようになっている、みたいです。

d0360340_11421132.jpg図面画像の出典はココ。機関部後面が開くようになっています。

で、これが何か問題かと言うと、Baumaffeの簡易砲架に搭載する場合、この蓋がシールドに干渉しないようにシールドに穴を開ける必要が出てきます。

写真にも切り欠き(4)が写っていて、おそらくは点検蓋の干渉を避けるための工夫。しかし問題はそれで解決ではなく、肩当てリングとの干渉も解消する必要あり。これを図にしてみたのが以下。

d0360340_12005364.jpg機関砲を淡いブルー。蓋を水色、シールドを濃いピンク、肩当てリングを淡いピンクに色分けしてみました。横から見た図(上)と上から見た図(下)。

蓋が干渉しないようにシールドを切り欠く必要があるのは一目瞭然。しかし肩当てリングがどうやって干渉を回避しているのかは、トレースの下敷きにした写真では影になっていて判読不能。

見る限りは、シールドの切り欠きから直接機関砲後面の蓋が見えてる訳でもなさそうで、なんらかの塞ぎ板があるようにも思えます。仮に塞ぎ板があるとして、それがどう開くのか。切り欠きの上部にある横長の棒状ものがヒンジにも思えますが、当時、こういう箇所にロングヒンジを使っている類例は無し。

それで着目したのがシールドの右端、肩当てリングの基部の横にあるヒンジ。ここに可動する水平のバーがあって、二つの肩当てリングは水平バーで連結されてるのでは?と推測。塞ぎ板もそのバーと連動して開く仕組みになっているのではないかと。

d0360340_13082595.jpgこんな感じ。右サイドのヒンジが回転して、肩当てリングと塞ぎ板が一緒にパカーンと開いて、機関砲後部にアクセスできるようになっている。という解釈。

そう思って改めて写真を観察。下の写真のシールドの切り欠き部の向こうに、肩当てリングと一緒に開きかけた塞ぎ板があるようにも見えます。

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と、まあこんな感じで、盆休みに考えてたことを書き留めておきます。
結論を出すには未だ情報が不足していて、せめてあと一枚、別アングルからの鮮明な写真が出てくれば解決。とは思うものの、新たな写真が見つかったら見つかったで、また別の謎に直面するんでしょうね。

たかがBaumaffe、そこに切り株がある限り。

by hn-nh3 | 2017-08-23 14:30 | 資料 | Comments(0)

東京 1945

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東京。江戸川区小岩にあった高射砲陣地を戦後、米軍が撮影。1945年10月11日。
砲座は前の記事で取り上げた逗子の小坪砲台(現 披露山公園)のような半地下タイプのものとは違って、コンクリート擁壁を地上に作って、周囲に盛り土をして土塁を構築する方式。

d0360340_18222267.jpg都市部の高射砲陣地は、この土塁タイプが多い。山の上に作る陣地と違って、水はけの問題など半地下にするよりは有利だったからか。

配備されたのは、シールド付きの12cm単装高角砲だろうか。測距儀、高射算定機、サーチライトなどの装備が克明に記録されていて、場所が特定できる資料としては貴重な写真。

写真出典は共に、「米軍が見た 東京1945 秋」 佐藤洋一 洋泉社 2015

この写真の他にも陣地の遠景や、低空からの空撮写真も掲載されています。あえてこの写真を前回とは別の記事として取り上げたのは、この写真だけ引用するに留めるのは、あまりにも勿体ない本というのが理由。

戦後米軍が撮影した写真で、戦災状況を記録した航空写真は国土地理院のアーカイブにもなっていて有名ですが、東京の街を低空、地上から克明に記録していたことはあまり知られてないようです。200点あまりの写真集といった体裁のこの本。たぶん、名著だと思う。

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A5版 223ページ 2400円(税別)。1ページに1枚の写真の彼方に見えるのは、1945年 秋の東京。間違いなく「買い」です。
驚くことにほぼ全ての写真。どこを撮ったものかを特定してます。以下、写真は全てこの本から。
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浅草橋付近。厩橋上空から東を見たもの。見渡す限りの焼け野原の中に幸運にも焼け残った場所がくっきりと違う色。地図との併記で現在の場所がイメージできます。
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地上の風景。山手線のガードが見えるのは終戦直後の新橋。建物跡の瓦礫の隙間に畑が作られてます。
丸の内には防空用のカモフラージュ塗装が施されたビル(写真は国鉄本社ビル)。実際にどのくらいの迷彩効果があったのかは疑問ですが、重要施設には偽装が施されていたらしく、国会議事堂も偽装してます。隠そうとしても、バレバレという気もするけど。

話を本の内容に戻して、全ての写真は撮影日時を明記、特定された撮影場所を地図にプロット。巻末のインデックスには米軍が撮影した写真のレコードナンバーも記載。収められた写真を見ると、空襲の効果を確かめるために撮った街の風景だけでなく、軍需工場や捕虜収容所、さらには防空壕のバリエーション、防火用水に至るまで、詳細に米軍が記録していたことがわかります。

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中島飛行機武蔵製作所、東工場の焼け落ちた屋根。右の写真は、立川飛行場、エンジン試験棟と思われる構造物。

立川飛行場の工場施設はフェンスの内側のゾーンに隔離されて近年まで残ってましたね。
...もう時効だから言うけど、夜中にフェンスを壊して侵入して遊んでました。暗闇に散乱するのは粉々に割れたガラス。骨組みだけになって星空が見える屋根。米軍の管理下になって壁にオーバーペイントされたステンシルのナンバー...
昨日、前の道を通ったら、すっかり何もかもなくなってました。真夜中にくぐり抜けた錆びたフェンスも。






by hn-nh3 | 2017-08-12 09:35 | 構造物 | Comments(0)
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逗子の海を望む高台にある披露山公園が戦前は高射砲陣地だったこと、戦後に公園と整備したときに残っていたコンクリートの砲座を公園施設(花壇、展望台、猿舎)に活用したこと、その現地リポートと考察を前に書いたが、その後いろいろと情報が寄せられ、前の記事内容も少し修正が必要になってきたので、改めて気になってたことも含めて書き留めておきたい。

いつもコメントをいただいているかば◎さんが、披露山公園(小坪砲台)と横須賀の砲台山の遺構をリサーチしているので、詳しくはそちらを確認されたし。

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そこから解ってきたことは、披露山(小坪砲台)の公園猿舎のコンクリートサークルと床は砲座の構造物がほぼそのまま転用されたと考えて間違いないこと、三浦半島にある砲台山の遺構とは基本構造が同じ、ということ。

かば◎さんが飼育員に聞いた話として、猿舎の側壁に設置された小檻の奥には大きな穴があって、隣接するニッチの倍ぐらいの奥行きがある、ということを指摘。これは、砲台山などの類例から待避所の跡だったと推測。ニッチは即応弾用の弾薬保管場所だったと考えられ、合計8箇所あったらしい。階段脇の1つは埋められたらしく、現在確認できるのは7箇所。

床面の待避スペースに相対する位置に、円環状の金具が3〜4箇所。砲台山の遺構にも同様の痕跡が残っていることから、おそらくこれも当初からのものと考えて間違いなさそう。このことから猿舎の床も戦前の砲台の遺構を活用したものと推測。床面の構造は砲台山のものとは少し異なるものの、床の全面にコンクリートを敷設した様子は館山の砲台に類似。ニッチの天井の入隅や開口出隅のディテールにも違いがあって、砲台ごとのバリエーションがあったと考えられます。

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猿舎の小檻の奥に残存する待避スペースについての考察と妄想。

参考資料として類例の写真を引用(館山の砲台写真:原典不詳、佐世保・弓張岳の砲台遺構:洗鱗荘ブログ>弓張岳高射砲陣地、横須賀・砲台山の遺構:鯛の尻尾をうばいとれ>砲台山、小坪の空中写真は国土地理院のアーカイブより)

類似の遺構(館山、佐世保弓張岳、横須賀砲台山)を見ると、兵員の待避スペースは天井のない塹壕状の半地下空間で砲座の円形のコンクリート側壁よりも周囲に張り出した構造。奥行きは弾薬保管庫の2倍程とのことなので、規模的には一致。披露山公園の小坪砲台の待避スペースも露天の窪みであった可能性もあるが、現状は上部もコンクリートで覆われた横穴になってます。戦後米軍が撮影した空中写真に目を凝らすと、露天の階段が現在の猿舎と花壇の砲座でそれとなく確認できます。しかし待避スペースらしき窪みの影は確認できず、これはやはり他の砲台とは違って、小坪砲台は地下に隠された横穴状の空間だったのではないかと。

右の写真。小坪砲台の航空写真に砲座の階段と待避スペース位置を復元してみます。
一番下の現在は猿舎の砲座。階段、待避スペース位置は現在も確認可能。現展望台の真ん中の砲座(実際は射撃観測所として使用)の階段と待避スペースは全くの推定。展望台階段の前のステージが何らかの地下構造物を埋めた痕跡ではないかと想像。一番上の現在は花壇となっている砲座は、空中写真の影から階段位置を推定。待避スペース入り口を写真の影からなんとなく想定。もっともこの推理は、不鮮明な写真の影から幽霊を探す作業以上のものではないことを断っておきます。

配置復元図の中に、ちょっと試しに待避スペース(黄色部分)を結ぶ点線(青)を描いてみました。ここからは全く憶測の域を出ない話ですが、「3箇所の砲座待避所を結ぶように連絡用の地下トンネルが存在した」..かも、かも、というイメージが3箇所の待避所の位置関係から浮かび上がってきます。

トンネルがあったという推理は想像の域を出るものではないものの、全く根拠のない話ではありません。それを示唆するのが、佐世保と横須賀砲台山の待避スペースの写真。奥の壁にトンネルの出入口があったような痕跡がそれぞれあります。ひとつは穴を埋めた痕跡、もうひとつはトンネルが崩れた土の穴。実際、他の事例ではトンネルや塹壕など砲座を結ぶ連絡通路が設けられてたという記述もあったりします。

小坪砲台の場合、高射砲を据えたのは花壇部分と現猿舎の砲座2基。中央の現展望台の砲座には測距儀(おそらく高射機も)を据えて観測所として利用していたと言われています。観測所の測距儀と高射機は各砲座と電気的に接続して、敵機の予測進路を電気信号で送り砲弾にセットする時限信管を調整していたようです。電線を地面に転がしただけだと誰かが足をひっかけて転んだり、切れたりするかもしれないから、当然のことながら埋設していたはずで、その埋設溝をかねて砲座をつなぐ地下連絡通路を作った可能性もあります。...実際、小檻の奥の穴の底に何があるかは、猿に聞いてみるのが早いかも。

床の円環金具が何のためのものかは、あれこれ想像するものの、これもまた推測の域を出ない話。例えば、射撃時に自動排出され薬莢がすこーんと飛んで転がって待避スペースの兵員に当たったりしないように防護ネットを張るためのもの。あるいは夜間の天幕用テント支柱。可能性がいちばん高いのは、時限信管の調整器と観測所からの電線を据え付けるためのもの。

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アップデートした図面です。待避所推定位置、謎の床の金具など追記してあります。
PDF図面をダウンロードできるDropBoxのリンク:→小坪 高角砲台_170811.pdf

各地にあった対空防衛用の高角砲台が実際どんな姿だったのかはその頃の機密情報だったりして当時の写真を目にすることは殆どなく、戦後に米軍が記録した写真の中にいくつかは確認できます。東京の小岩にあった防空陣地の写真を見つけたので、それを紹介しようと思ったのですが、記事が少し長くなってきたので、それは次回に譲り、ひとまず逗子の小坪砲台で話をまとめます。

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逗子の披露山公園:昭和33年開園当初の展望台遠景
(写真出典:「写真アルバム 鎌倉・逗子・葉山の昭和」いき出版)

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上は市立図書館で見つけた写真集の中から、開園当初の写真。周囲に樹木もまだ少なく、かなり開けた場所になっていたようです。円形の展望台のデザインも、基礎周りの砲座構造の影響を受けたことは想像に難くないものの、ぐるりと周囲を見渡せる場所であったことが決定的な理由だったかも知れません。戦前、防空陣地を構築した時に射撃の障害にならないよう伐採した可能性もあります。いずれにせよ、鬱蒼とした森に囲まれた現在の姿とはずいぶん違ったものだったのでしょう。

展望台既存部に露出する砲座の円形側壁。周囲から少し窪んだ形で残されていることの意味が読み取れないと前の記事で描いたら、近郊にお住まいの mitch さんから貴重なコメントをいただきました。
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開園当初の外周リング状半分近い海側部分は現在のようにコンクリートで埋められておらず、
半地下状の ’ 小動物舎 ’ でした。
その後現在の動物舎が作られ、コンクリートで埋めらた。
更に数年前に、ウッドデッキも設置されました。
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なるほど、今の猿舎と同じように半地下の砲座の構造が家禽類を飼育する囲いとして活用されていた、という話。展望機能と関係のない砲座の形が残された理由がわかりました。その後、新しい動物舎が花壇の脇に作られたとき、不要となった砲座の窪みはコンクリートで埋められるものの、手すりの支柱の足元の高さの関係で期せずして現状45cmほど窪んだ状態になってしまったのでしょうか。

前の記事に掲載した猿舎などの図面で少し修正が必要なものはあらためて、またアップします。

by hn-nh3 | 2017-08-11 14:10 | 構造物 | Comments(4)
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グリレ改造FLAK制作記、その9。
車体の工作に目処がついたところで、いよいよ搭載する3cm機関砲の工作を開始。
1945年5月のプラハ蜂起の頃に市街戦の拠点防衛用に改造されたものと思われ、通常装備の15cm重歩兵砲を外して3cm機関砲を搭載したこの車両、確認できる写真では1両のみ。

応急改造は他にも行われていたようで、同様の機関砲をベルゲヘッツァーに搭載したり、2cm高射砲FLAK38をベルゲヘッツアーに搭載した車両も近郊で発見されています。プラハには、グリレやヘッツァーを生産していたBMMの工場があるので、修理などで回送されてきた車両を利用して、簡易改造の車両をあれこれ作ったんじゃないかと推測してます。

d0360340_23123909.jpg右の写真。航空機搭載用に開発されたMK-103・3cm機関砲に簡易な砲架をつけて対空砲として利用したものでしょうか。しかし資料が乏しく確認できる写真も他に数枚。地面に木の杭を立てて装着使用するのか。3cm-MK103 auf Baumstumpf " baumaffe” と言うキャプションがついてますが正式名称かは不明。言わば自走砲ならぬ「切り株砲」とも言う代物。

ドラゴンの白箱キットは3cm MK103を2cm FLAK38用の砲架に積んだものを搭載する解釈ですが、写真を見る限りは間違い。この簡易砲架の「切り株砲」を搭載していると思われます。
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わかりやすいように、切り株砲のパーツを色分けしてみました。砲架は黄色、シールドは青、肩当てのリングは赤。こうして見ると、グリレ改造FLAKはこの簡易砲架のMK103を搭載していたと考えて間違いはないでしょう。もっとも砲架周りが戦闘室装甲板の隙間からかろうじて見えるだけなので、砲架の脚部がどうなっているかは不明。さすがに木杭を立てて装着していることはないと思いますが。

ドラゴンの白箱の考証違いの件は、これまでにも海外のサイトでも指摘されていて、何方のサイトだったかは失念しましたが、このような色分け分析を行ってましたが、今はそのサイトもなくなっているようです。何れにしても、グリレ改造FLAKと切り株砲共に資料が乏しく詳細は不明、と言うのが今のところの結論。求む情報!
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この「切り株砲」を自作します。キットの考証違いもあって、使える部品はMK103の銃身機関部と弾薬マガジンのみ。砲架とシールドはプラ板から自作。肩当ては別キットのパーツを流用します。

作業に先立ち簡単な図面を作成。Photoshopで写真の遠近や歪みを補正したものを下敷きにCADで作図。これを元にグレーのプラ板を加工。白いプラ板を使ったほうが自作パーツっぽいのですが、グレーの方が形状の把握がしやすいので、やっぱりグレーのプラ板を選んでしまいます。丁寧に手の痕跡を残さないように作るほど、こんなパーツが用意されていたみたいに見えてしまうのが難点。

このMK103 簡易砲架バージョンは、レジンキットもあるみたいで、制作にはそちらも参照。ただし、そのキットも上掲の写真からの推測に依っているのか、解釈には疑問の残るところもあるのであくまで参考程度。

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砲架のパーツの加工をしていて気がつきました。グリレに搭載していたもの(写真左上)と参考にしている「切り株砲」の写真(写真左下)では、砲架側板の前部の斜めの切欠き角度に違いが。
はたと気になって他の事例を確かめてみると、ベルゲヘッツァーに搭載しているもの(写真右上)は側板切り欠きの斜めの角度が大きくて、グリレに搭載している砲架も、むしろこれに近いように思われます。別の切り株砲(写真右下)も切り欠き角度が大きいタイプ。どうやら簡易砲架にもいくつかのバージョンがある模様。

グリレに搭載されていたのはベルゲヘッツァー改造車に搭載していた傾斜角度の大きいタイプと推測します。
このサイトによると、チェコ共和国軍(蜂起軍)には2両の3cm機関砲搭載車の登録があったようで、グリレ改造車はその一両。もう一両は、確証はないものの、このベルゲヘッツァー改造車ではないかと。

そんなこんなで加工中のパーツの切り欠き角度修正。同じく自作した揺架と真鍮線の軸でつないで可動するようにしてみました。砲架下の水平回転軸は写真の影になんとなく見えるシルエットと上記のレジンキットからの推測。肩当ては他キットから流用しました。AFVクラブのBussingNag 4.5tトラックに1.5cm3連装機関砲(ドリリンク)を搭載したキットに入っていたレジンパーツを複製。

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複製は、100円ショップでも売ってる「おゆまる」で型取り。UVレジンで複製しました。本当はシリコン型とレジンで複製した方が精度はいいのでしょうが、この程度の形状ならこれで十分。

ちなみに「おゆまる」と、UVレジン、紫外線ランプは娘がデコレーション遊びに使いたいと言うので前に買ってあげたものを借用しました。
紫外線ランプは、清原 スーパーレジンUVクリスタルランプ9W こういうものは二つ返事で買ってあげる良き父親です。(ただし模型製作に利用可能な物に限る)

「切り株砲」の部品が揃ってきました。しかし、シールドや肩当ての取り付き部のディテールがいまひとつ不明で、写真に目を凝らしたり、ネットで資料探し回ったり。どこかで見切をつけて、えいやで作るしかないのですが.. (続く)

by hn-nh3 | 2017-08-08 08:57 | 38(t)系列 | Comments(0)
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昭和33年(1958)年にオープンした逗子の披露山公園の風景。
(写真出典:「写真アルバム 鎌倉・逗子・葉山の昭和」いき出版)

逗子の披露山公園の話の続編。戦前の高射砲陣地の遺構が現在も残っているというのも驚きでしたが、戦争の記憶からいちばん遠くてもよさそうな公園の施設に軍用施設の構造物を利用しているのがとても不思議でした。3つの台座は花壇、猿の檻、展望台にと姿を変えてはいるものの、確かにそこに何かが存在した、という形をしています。猿の檻に至っては、痕跡どころか、ほぼ完全な状態。

一体どういう経緯で公園が作られたのかとか、公園施設であるなら何らかの記録があるのではと、逗子の市立図書館にも寄ってみました。郷土資料コーナーにはめぼしいものがなく、見つかったのは公園オープン時の写真。
未来的な展望台の形から70年台頃かと想像していたら、もっと古くて50年代の終わり、昭和33年でした。

戦前にコンクリートの台座が作られたのはその15年ほど前。「もはや戦後ではない」という言葉が語られたのは2年前の1956年。建設資材も重機もまだ貴重だった時代にそれほど古くなってない台座をわざわざ壊して全く新しいものを造るよりは、使えるものは使って市民の憩いの場を作った、ということなのかもしれません。
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配置図。右は公園の案内板、左は公園のレストハウスに貼ってあった都市計画地図。
こうやって地形を見ると、張り出した細長い尾根の上に作られたことがわかります。地形に沿って丸い砲座を並べ、尾根への入り口には(現在はレストハウスになっている)指揮所を置いて... 守備には向いた地形、なんだか山城のような配置。
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花壇、展望台、猿の檻、と丸い公園施設が等間隔で並んでいます。写真のいちばん手前に写っている花壇は、オープン当時は植栽もまばらだったようですが、現在はこんもりと常緑の低木を中心とした茂みに成長しています。その周囲を堀のように水草が浮く池で縁取っています。この池、話によると子供たちのザリガニ釣りの場になっている(かばぶのかば◎さん談)とのこと。
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高射砲座と花壇の関係を見るために、図面に起こしてみました。地中に埋まっているだろう台座の形は現在も確認できる猿の檻から推定。直径12mの円錐型のコンクリート土留めの外周に沿って池の縁石が並んでいます。池に恐る恐る手を突っ込んでみたら..ビンゴ。池の縁は垂直ではなく斜めになっているのが確かめられました。ちょっとぬるぬるするけど水の中に当時の遺構が沈んでます。そのままどこまで続いているのか手を伸ばしたかったのですが、カミツキガメとかいたら怖いのでやめました。だから池の深さは推測です。

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円錐型の砲座の底の丸いラインが花壇の縁になっていると思われます。そこからコンクリートを立ち上げ、池の水が漏れないようにして、巨大な植木鉢よろしく大きな丸い花壇を作ったのでしょう。台座の底面は中央の高射砲を据えるベース以外は土だったと思われるので、ちょうど植木鉢の水抜き穴のように、そのまま使ったのではと推測します。

周囲が池になっているのは、砲座のコンクリートの斜面で水が遮られるので、草花を植えるより池にするほうが都合がよかったのでしょう。公園の花壇にこういった類型は少なく、確実に砲座の構造が庭園デザインに影響を与えてます。

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猿の檻は、それこそ台座そのものに鉄のカゴをかぶせただけの構成。中央には水のたまった浅い池。ときどき猿が水を飲んでます。そのとなりに溶岩を積んだ猿山。円錐型のコンクリートの壁は猿を観察しやすく猿も駆けあがれるくらいの傾斜。
斜面の8つの横穴は猿の隠れ家みたいだけど、元は弾薬保管庫だった穴。猿を飼うための施設としてもよくできています。まさか敗戦後の使い道を想像していたとは思わないけど、他の使い方が考えられないくらい自然。

d0360340_15525936.jpg底の部分にコンクリートが全面に敷かれてるのは、戦前にはなかった仕様。周囲に排水の側溝が設けられています。中央には檻の構造柱のための基礎をとりまくように池がありますが、よく考えたら変な配置。中央に池がある必要もないと思うし、錆びやすい鉄の柱をわざわざ池の上に立てるのも、どこか不自然。

そういえば、隣町の鎌倉にある神奈川県立美術美術館に鉄の柱を池に浮かぶ柱の上に立てているデザインがあったけど、あれは 昭和26年(1951)だから、ひょっとしたら影響を受けたのかもしれないけど、ともかく池を中央に配置するのが都合がいい理由がそこにあったようにも思います。

たぶん、高射砲を据える台座コンクリートがそこにあったのが理由でしょう。それが元々どんな形状で、猿の池にどう利用されたのか、檻の外からは遠くて確かめようもないのですが。わからないことは猿に聞け... か。

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この公園の白眉はやはり、空に浮いたようなデザインの展望台でしょう。現在では不可能な薄さ(14cm)の円板状の床が空中に浮いたようになってます。中央のコンクリート円柱から跳ね出した軽快な構造体。屋根も同じように中央から円板状に張り出して、周囲には構造的な柱がでないように作られてます。GoogleMapで空から見ると、屋根は中央部に向かってくぼんでいるようです。通常の屋根のように周囲に向かって低くなって軒樋で水を受けるのではなく、その逆で中央部で雨を集めて、外周部には風景を遮る雨樋がでてこないように設計されているのがわかります。

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展望台には風景を遮る壁や柱は無く、周囲には細い手摺の支柱だけ。この日は靄がかかって富士山は見えなかったけど、江ノ島ぐらいまでは見えました。
建設当時の写真を見ると、現在とは少し違って透明なガラスかアクリル板でがあったようにも見えます。地上部も何かの施設があったのか...展望喫茶とかそんなのだったのかしら。

展望デッキの薄い床の構造はどうなっているのか、下から見上げたら、中央の円柱から腕のように梁を突き出して、階段を囲むように曲線梁を設けて床を支えてました。薄く軽くみせるための工夫で気の利いたデザイン。

1950年代って、戦後の復興で大した建物とかなかったように思うけど、神奈川県立美術美術館の他にも横浜の神奈川県立音楽堂ができたのは昭和29年(1954)とか、戦後モダンデザインの傑作がいくつも作られてた時代。この展望台もそんなムーブメントの中で誕生したと想像しますが、詳細は不明。これはもう少し調べてみたいところ。

話を戻して、展望台と高射砲座遺構との関係。展望台の地上部を横の方に回り込んでいくと、展望台周囲の空間が円形に周囲の地面から45cmほど下がって、その段差部分が斜めになっています。円錐型の斜面の勾配は2:3。 そこにかつての砲座のコンクリート擁壁が埋まってます。この窪んだ部分は現在のウッドデッキの下まで続いてたことも、ちょっと前の写真を検索して確かめることができました。

戦前の陣地のコンクリートは鉄筋は使わず、土圧を避けて斜めの構造にしたと思われます。しかし新たに展望台、それもこんなアクロバティックな構造物を作るのに際しては、さすがに鉄筋なしの基礎という訳にもいかず砲座を基礎として転用するのは諦めて、砲座の窪みをゼリーの型のように利用して新しいコンクリートを流し込み、展望台の基礎を作ったと想像します。

しかし、新しいコンクリートをなんで周囲より低い位置で止めたのかは謎。むしろ周りより高くしてより眺めが良くなるようにとか考えそうなものだけど、何かこれには理由があったのでしょうね。今となってはわからないけど。

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図面をPDFにてダウンロードできるようにDropBoxリンク貼っておきます。
展望台とか猿の檻のジオラマとか作ってみたい人は、DLしてご利用あれ。
小坪 高角砲台その後(花壇)_170707.pdf
小坪 高角砲台その後(猿の檻)_170707.pdf
小坪 高角砲台その後(展望台)_170707.pdf




by hn-nh3 | 2017-07-07 17:30 | 構造物 | Comments(9)
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先週、久しぶりに逗子。用事もそこそこに、ちょこっと大きく寄り道して山の上の披露山公園へ。今まで何度も近くを通っていたというのに、ちょっと小高い尾根の上にあるため素通りしてたのは不覚。

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SF的なフォルムの展望台があったり、孔雀や家禽類の小屋とか猿の檻とか、公園としても古きよき時代の名残を残していい感じなのですが、湘南の海を望む高台にあるこの公園、戦前の高射砲陣地の遺構を利用したものらしい。聞けば、園内にある直径12mの円形の花壇、猿の檻、展望台は12.7cm高角砲の砲座を利用してつくられたものなのだとか。

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国土地理院の航空写真、戦後すぐに米軍によって撮られたものと、現在の比較。この前の記事で使った写真よりもう少し形がよくわかるものがあったので、差し替えてみました。花壇、展望台、猿の檻が、3基の円形砲座の上に作られていることがはっきりとわかります。影の形から地面が丸く掘り込まれたトレンチ状の構造物であったこと、現在、展望台となっている部分には丸い砲座の穴に隣接して小さな丸い構造物が2つ確認できます。機銃座でもあったのでしょうか。

この陣地がいつ作られて、どのような装備があったのか、
このサイトに詳しく書かれています。→ 高射砲陣地と防空砲台>小坪防空高角砲台

昭和17年に3基の12.7cm連装高角砲を予定して陣地が作られたものの、配備予定の砲が巡洋艦高雄に回されてしまって、しばらくは探照灯と測距儀のみの状態だったようです。結局配備された砲は2基、残るもう一つの砲座には測距儀や高射機(軌道計算をするもの)などが据えられて観測所として使われていたようです。
上記サイトによると昭和20年8月の終戦時の装備は以下の模様。
*12.7cm連装高角砲2基、弾596発、95式陸用高射器1、ステレオ式4.5m高角測距儀1、96式150cm探照灯2基、25mm連装機銃2基、弾5395発。

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公園の猿の檻を覗き込むと基壇部は円錐型をした半地下状のコンクリート構造物。砲座がほぼそのまま残ってるのを見ることができます。檻の寸法から推測して深さは1.8m前後。現在はサルの隠れ家になっている8つの窪みはおそらく弾薬の仮置所。下に降りる階段も当時からのものか。

d0360340_12174443.jpgネットで見つけた写真(出典:大津島高角砲台遺構)。館山の高角砲陣地の写真と思われますが、まさに同様の構造物。半地下の砲座に連装高角砲。側面に四角い小さな横穴があるのも同じ。砲座の周りには掘った土を利用したのか、低い土塁も写ってます。小坪の砲台陣地にも土塁らしきものがあったことは、前掲の航空写真で判読できますが、現在は公園として整地されたので土塁の痕跡は消失。

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ちょっと図面を起こしてみました。直径12mという寸法は公園にあった看板の解説から。ざっくり計測した寸法とも一致します。深さや細部寸法は猿の檻の外からの目視推定。砲座の中央には高角砲を据えるためのコンクリート台座があったはずですが、現状確認できず。89式12.7cm連装高角砲をアバウトに配置してみました。この型式の高角砲が配備されていたのかは資料不足で推定です。

画像ではサイズ感がわからないと思うのでPDFでダウンロードできるようにDropBoxのリンク貼っておきます。

小坪高角砲台_170701.pdf

A3サイズ、100%でプリントすると1/72の縮尺、飛行機のプラモなどで大きさの比較ができます。
50%縮小でプリントすると1/144になるので、ガンプラと並べるならこのサイズ。
A4(72%)で出力するとほぼ1/100。


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展望台の足元にも砲座の痕跡らしき構造物。円錐型のコンクリート擁壁の上部が展望台の基礎の周囲に露出しています。高角砲の台座と気がつかなければちょっと変わった展望台の基礎の段差という感じで風景に溶け込んでいるものの、表面が荒れたコンクリートは周囲とは明らかに違う表情。

台座を埋めて作ったと思われる花壇は植え込みの周りをぐるりと細い池で囲まれた、砲台の形が由来のユニークなデザイン。
戦後に公園施設として作られた猿の檻、展望台、花壇に、3基の高角砲台座がどのように化けたかは、次回でまた詳しく。
(つづく)
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by hn-nh3 | 2017-07-01 14:59 | 構造物 | Comments(2)